最後まで立っていればいい:変化記録2日目

2日目
まず昨日の反省を思い出すと、
・ぼーっとする時間を取れなかった
・動画コンテンツばかり見てしまった


今日はどうだったか
変わらずだった

やはり1日2日でこれまでの習慣は変わらない。
逆に言えば求める習慣も1日2日では途切れるものではないということ。
希望が見えた。


今日も相変わらず動画ばかり見ていたわけだが、
ある動画に辿り着いた。

それは美輪明宏さんの「信仰」についての話をラジオ形式で切り抜いたものだ。

「信仰は時の如く、信じ仰ぐこと。その対象は神や仏。ではなぜ信じ仰ぐのか。」

考えたことがなかった。

「神や仏は人間の理想像。優しさ、思いやり、慈悲深さを持った完璧な人格に必要なものは全て持っている。まさに神格。我々は日々、理想に近づくために神や仏の力を借りる。」

目指すべき理想が神や仏。

「今日は優しさを持った振る舞いができたかと思えば明日は凡夫に逆戻り。そう繰り返しながら日々成長していく。」

このとき私が思ったことは
・私は失敗を恐れ過ぎている
・私は繰り返しの力を舐めている


失敗は悪いことではない。恥ずかしいことではない。完璧な人間以外は失敗が当たり前。

失敗したということはすなわちできないことに挑戦したこと。

成長の一歩を確実に踏み出したということ。

これのどこが悪い。


仮に失敗をしたとして、そこで諦めればその場は楽かもしれない。


現状維持は後退なり。

高校のスローガンだったこの言葉が今になって思い出される。

あの時とは違った、はっきりと重く受け止める感覚。


失敗しても挑戦を繰り返せばいい。

諦めず、しつこく、執念深く。

そしたらいつかは成功する。

私は劇的な変化を望む世間知らずだということを最近痛感している。

小さな変化の何がいいのだと思っていた。

しかし大きな変化は小さな変化の積み重ね。
当たり前のことがわかっていなかった。

いや、わかっていたはずなのだろう。
ただ向き合わず理想を語っていただけで。

だから今、ひとつでもいいから、小さくてもいいから変化を求めて行動を起こしている。


正直、むず痒い。

こんなものでいいのか?
もっとしなきゃ意味ないのか?

と、過去の私が後ろ髪を引く。

しかし、この思考で私は過去成長を止めてしまったのだ。


今、私の頭は使い物にならない。
今までの習慣にとらわれていてそれ以外の行動、思考は違和感として拒否反応が起きる。


考えない。とりあえずやる。


これしか道はないとわかった。



「どんなにボロボロになっても倒れることだけは許さん。」
「強い相手に勝つ秘訣を教えてやる。」
「簡単だ。何度でも立ち上がって技を叩き込め。」

「戦士ってのは最後まで立ってたやつが勝つんだ。」

(葬送のフリーレンより)

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