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短編小説「泣きたいときには甘いものを」

「ただいま……」

 テレビの音にノイズが混ざったように聞こえるほど強い雨の中、彼女が玄関の扉を開けた。
 部屋の中には強い風が吹き込み、テーブルの上においてあるティッシュが箱から出たそうになびき、アイボリーの厚手のカーテンがさわさわと床を撫でている。私の足元にも、冬のような冷たい空気がやってきた。

 コトコト煮込んでいたクリームシチュ―の火を止めて、冷めないように蓋をかぶせる。蓋がもやりと白くなったことを確認すると、私はタオルを手にとって速足で玄関に向かった。
 廊下と玄関の電気をつけてみると、びしょ濡れになった彼女が床に肘をついてつぶれそうになっていた。腕もカタカタと震えており、腕に触ってみても非常に冷たい。

「傘持たせてなかったもんね……ごめん」

 彼女は首を振る。しなやかなロングヘアからは、冷たい水滴がぽたぽたとフローリングを濡らしていた。
 彼女をしなしなにした水分をタオルでふき取り、彼女の体温を奪う黒いジャケットを脱がす。
 ただ、彼女から滴る水滴は雨水だけではなかった。

「……そうなんだ。辛かったね」
「私が……! 私があんなことしなかったら、こんなことにはなってなかったんだよ! 全部、全部私の責任なの!」
「違う……」
「違わないっ!」

 彼女は私の否定を否定するように、声を裏返しながら張り上げる。私がいつも耳にする彼女の甘くておっとりするような声は、感情によって殺されていた。

「全部、全部私が悪いの! ……みんなは大丈夫って言ってた……言ってたよ。でも、絶対迷惑だって……」
「みんな、事情は分かってるから。ね?」

 彼女の喉を潤すように、彼女をなだめるようにお皿に取り分けたシチューは湯気を上げる。
しかし、彼女はその湯気を揺らした。

「事情が分かってるならなおさらでしょう! もういい! もういいよ……」
 彼女は弱弱しい声を立ち上る湯気にぶつけて立ち上がる。
「ちょっと! 晩御飯……」
 私は自室へ向かう彼女の腕をつかむが。
「いらない! もう構わないで!」

 強い力で振り払われた。
 彼女の張り上げた声が、私の頭の中でこだまする。
 彼女は今日、仕事でうまくいかないことがあったそうだ。もともと機械に弱かった彼女は、朝から会社から支給されたパソコンを落とした。そして昼頃には段差に躓き、同期にお茶をかけてしまった。極めつけに定時前になって先方から怒鳴られたという。

「そういう日も、あるんじゃないかな」
 ドア越しに私は彼女に話しかける。当たり前のように、何も帰ってこない。
「私だって、相手の部長にお茶こぼしたし、パソコンの上にコーヒーこぼして壊したこともある。……定時前の電話は向こうが悪いよ。締める間際にかけるもんじゃないよ。普通」
 彼女が寝返りを打ったのだろう。ベッドのきしむ音が聞こえた。
「今日は運が悪かった。……そういうことにしてみない?」

 しばらく横たわった沈黙。
 数秒だろうか、数十秒だろうか、数分だろうか。いや、そんなことはどうでもいい。
 彼女は自室の扉を少しだけ開けて、細身な体を生かしてするりと抜けるように部屋から出てきた。そして、ドアから少し離れたところの壁に寄りかかっている私に抱き着いた。
 私も彼女の背中に腕を回してやると、震えた息が私の身体にかかった。その吐息はまだ冷たくて、外で吸ってきた空気をそのまま吐いたようだった。私は彼女のいろいろなところに触れてみる。彼女の腕も、足も、全部が冷たかった。

 体の芯、心の芯まで冷え切るような経験をしてきたのだろう。
 出てきてくれてありがとう。
 抱き着いてくれてありがとう。
 私はそう伝えるように、彼女のことを少し強く抱きしめた。

「シチュー……食べたいな……っ……」
 涙ながらにそう言った彼女の声は、遠くに聞こえる雨音よりも優しく私の耳に響いた。

 私もう一度シチューを火にかけて、彼女に渡す。わざわざキッチンまで受け取りに来てくれた彼女は、大切そうに湯気の立つシチューをテーブルに持ち運んだ。
 静かに手を合わせて食べ始めると、一口、二口と口に運んで行った。一口を優しく口の中で転がし、たまに口の隙間から熱気を逃がしながら彼女は食べ進めた。

「ごちそうさまでした」

 彼女が手を合わせた頃には、夕立も晴れていた。
 夕方と夜、昼と夜の境目のマジックアワーがいつもよりも色鮮やかに空を彩る。水滴のついたベランダの手すりも、太陽の明かりに宝石のような輝きを放っていた。私は食器を洗いながら、目線を空に向ける。
 ぼーっとしながら手だけ動かしていると、隣に立って見守っていた彼女が私の腰に手を回した。

「また、作ってね。シチュー。……おいしかったよ」

 そう言う彼女の声は、いつもの彼女の声だった。小説の登場人物から聞こえてきそうな、儚くも美しく、大切に抱いていたいような声が、私の頭の中に響く。

 そして彼女の手が私の頬を滑るように伸びてくる。
 私は伸びてきた暖かい手を優しく包む。
 少しだけ目を合わせて、私たちは唇を軽く触れさせた。

 シチュー、また作るよ。溢れんばかりの愛を添えて。
 だから、また明日も生きてみてほしいな。


第24作 短編小説「泣きたいときには甘いものを」 了



あとがき

お読みいただきありがとうございました。

生きるの大変ですよね。生きてるだけでも、大変なことが山のように降りかかってきます。
この小説は、当たり前だけど大変な生きることを応援する小説です。

春から続いてきた長い息も切れてきた、夏休み少し前にこの小説を思いつき、思うがままに筆を執りました。

失敗したな。疲れたな。もうやりたくないな。
ふさぎこみたくなることが多々ある私は、この感情と距離が近いのです。
そのおかげか、かなり書きやすく、伝えたいことも端的にまとまったと著者自身感じております。

皆さんの心に、温かくて、甘いシチューをお届けできていれば幸いです。

またどこかで。

2024年10月1日  遠海 春


追記

こちらの小説も最近公開しました。
全く関連のない別作品ですが
この作品も、↑の作品も、読んでいただいた友人に「公開しないのはもったいない!」と意見をもらい、今回の公開に踏み切りました。

その言葉をいただいておきながら、自信を持てていません。
でも私は、読者である友人の皆様を信じます。

正真正銘、最初の読者である友人の皆様には、この場を借りて感謝申し上げます。
本当にありがとう!

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