会津物語 最終章 - 白虎隊
会津若松と言えば、戊辰戦争や会津戦争という戦いの歴史を知らない人々でも、飯盛山における白虎隊の集団自刃を知っている人々は多いのではないでしょうか?
白虎隊自刃の場所に到着する迄に驚いたのが、ドイツ人の寄贈する碑とドイツ父子のお墓。
白虎隊のどこにドイツ人の彼等は惹かれたのか?
生き残った1人の隊士の証言で白虎隊の最期が判ったそうですが、全員が文武両道の将来有望な少年。
しかし、全員が自刃するまでは、諦めず城に戻るか否かの激論が交わされたという記録も発見されています。それが何故全員で自刃する道を選んだのか?
第3弾で触れた西郷頼母の家族の自刃と同じなのか?違うのか?
英語で言うpeer pressure(同調圧力)からなのか?それはあったのではないかと想像します。でもそれだけで全員が揃って自刃するとは考えにくい。
恥
日本人には、重くのしかかる言葉。
いや現代では死語?
時代劇でよくあった台詞に「お主!恥を知れ、恥を!」
核家族化が進む現在、本来の家族、地域社会の在り方とは、生活慣習含めて大きく変わって来たと思います。それがITという情報技術により、人と会う大切さを遠ざけているのも事実です。空間の共有の大切さ。会ってなんぼ。
日本人が失いつつある、いや忘れつつある、本来の姿や在り方はどうなのか?
私が大切にして来た一つに「潔さ」があります。「潔さ」には、「ならぬものはならぬ」の精神に合い通ずるものがあるように思います。その一線を越えるなら、自分が自分でなくなる。受け入れられない。だったら身を引くという潔さはその一例ではないでしょうか?
前編で「お天道さま」の事を記しました。誰が見ていようといなかろうと、人様に笑われるような、お天道さまに恥ずかしい事はするな!という幼児期の教育と言うか、昔の日本人には当たり前だった事を、会津っ子宣言は色濃く残しているのではないでしょうか?
戦いの勝敗や善悪を別にして、西洋かぶれになっていた薩長とは対比的に日本人を色濃く体現していたのが会津だったと言えるのかもしれません。
上海まで密航し、西洋諸国に植民地化されつつあった清国を観て、高杉晋作は攘夷に傾きました。松蔭は開国派だったのか?いや、純粋に好奇心旺盛で気持ちを抑えれず、純粋に海の向こうを観てみたかっただけだと思います。
同様に幕末期に新政府軍、佐幕派とかを超えて、未来の日本を夢みて散って逝った志士たち、それを支えた家族や一般人にも対して、胸を張れる日本、日本人になれているだろうか?と歴史から学ぶ何かがあると思います。
ならぬものはなりませぬ!
日本人として今一度噛み締め、
人生二度なし
自分の人生の主人公を演じ続け、「今を生き切る」気持ちで日々を過ごす。
スマホを手にして車窓の外に広がる風景を見ていない人に「もったいない」を感じながら、磐梯山を眺めながら今回の会津の旅の想いに耽りました。残念ながら列車からは、猪苗代湖は見えないのですね。
会津と長州の間に同じ日本人として、わだかまりのない日が来る事を願う長州人の会津の旅でした。
次回はレンタカーして、磐梯山、猪苗代湖、五色の湖、大内宿まで足を運んでみたいと思いながら、会津若松一泊の旅を後にしました。
終
過去の参考NOTE
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