出逢い|師と兄弟弟子
今日まで続いているのが、大学時代に始めた少林寺拳法。
武術は術として本物であれば、何が良いかは問わないと思います。少林寺拳法でも空手、合気道、居合、剣道や弓道など様々な武術があります。空手も色々と流派に分かれたりしています。当然、教えの「道」である武道としても大切です。しかし、武道である前に武術として成立し、その術の妙味が面々と受け継がれているかが、「道」を語る前には大切だと思います。道は、師匠や兄弟弟子と共に汗をかきながら時間をかけて学んでいくものです。そうでなかったら、何を好んで道場に何年も通う人々が出るでしょうか?哲学書でも読めば、「道」を理解するのは事足りるというような単純な話ではありません。
禅の僧侶がなぜ坐禅をするのか?坐禅という身体を通しての修行は、武術の技法修練と重なる部分があると思います。少林寺拳法の開祖が言われる本物の餌であるかが技法そのものになります。
でも今回触れたいのは、道や術の云々で
はなく、何故それを修行するようになったかのきっかけです。
基本は出逢い。
自分の動機が、自分に合った武術へと導いてくれるはず。
恥かしながら、私の動機はミーハーでした。少林寺という名を知ったのは、映画「燃えよドラゴン」でした。
ブルース・リーの映画が、日本で大ヒットした時には、既に彼はこの世に居ませんでした。お墓の写真を中学生当時に映画雑誌ロードショーで観た記憶があります。初めて知ったシアトルという街の名前。そこに家族連れて16年も暮らす事になるとは!
高校生になった頃、日本人として産まれたからには、何か武道を習ってみたいという気持ちが芽生えていました。田舎で育ち、遠くアメリカに留学してみたいという野心もあり、芸は身を助くとも言うし、黒帯は持っておきたいなと。当時の動機は、そのくらいの軽いものでした。
高校の体育授業で柔道が必須だったのですが、当時、痩せて貧弱であった自分はいつも級友に投げられ、押さえ込まれて柔道ではないな〜と思い、徒手で接触しない距離を保つ空手という選択肢になりつつありました。
空手でなく少林寺拳法を習ってみたいと思ったのが、カッパブックスから発刊されていた宗道臣著の「秘伝少林寺拳法」を本屋で手にして、最初に開いたページで飛び込んで来た言葉でした。
(最下段に引用させて頂いている「武道である前に武術」と「少林寺拳法との出逢い」もご一読頂ければ幸いです。)
この本との出逢いがミーハーなブルース・リーへの憧れから「道」という魂の部分を吹き込んでくれた大きなターニングポイントでした。それから大学で少林寺拳法部の門を叩くまで1年近く待つ事になります。
そして、師匠同様に大事なのが兄弟弟子です。私も随分と助けられたし、今だに30年以上も兄弟弟子とは、お付き合いが続いています。
大学卒業後に東京で転籍した最初の道院が山ノ手道院。松田欣一郎先生の門弟となりました。術としての法形の追求は、とても理論的で解りやすく、兄弟子に揉まれながら技の魅力にハマっていく自分が居ました。
しかし、最初の1年でテキサスに転勤になり、ネット社会でなかった80年代当時、筆マメでない私は3年間もの間、時候の挨拶の葉書も出さぬ礼を欠いたままに帰国。それなのに、師匠や兄弟子達にも暖かく迎入れてもらえ、道場内外での稽古や付き合いに汗をかいて、呑んでという充実した30代の修行時期を過ごし、四段正拳士まで昇段することが出来ました。
公私共に脂の乗り切った30代半ばで会社勤めを辞めて突如の田舎への転居。そこで転籍した道院が、長田正紀先生の山口西京道院でした。
小柄で力に頼らない技の妙味を教わるかけがえのない出逢いでした。松田先生に理論を学び、ある意味で技の魂といいようなものを叩き込まれながら渡米するまでの6年間、五段大拳士になるまでを故郷山口で過ごしました。
実は帰郷して3年経過した頃、無双神伝流抜刀術の梅本美樹師範との出逢いもあり、居合も稽古する幸運にも恵まれました。居合についてもまた後日触れてみたいと思います。
それから渡米した先のシアトル支部で活動開始して数年後には、シアトル大学支部も開く事が出来ました。師匠の立場になり、門下生を育てる立場は全く違いますが、基本は変わりません。全ては出逢い。
但し、指導者という立場は、より自分に厳しくならないといけない。それが責任というものだと思います。道場にも一番早く行って、作務という掃除から率先して行う。脚下照顧という靴の脱ぎ方、揃え方から箒の使い方からのスタートでした。
出逢いが続くかどうか。それは縁次第とも言えます。でも後悔しないように一期一会。その瞬間、その場を大事にする心がけがその出逢いを頂いたことに対する最大の敬意かと思うこの頃です。
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