左耳にヘンデル
柳野沢行き
10:05
12:15
15:45
時刻表に載っているのは、それだけだった。
ぼくは、またベンチへ腰かけた。バスはまだ、しばらく来ない。隣で彼女は、音楽に没頭している。両耳に、イヤホンで栓をして。目の前は、海のように田畑が広がり、その上へぼたん雪が落ちていった。背後は竹藪で、このバス停だけがなぜか、世界から一番離れているようだった。
「つか、天才」
彼女はぽつりとそう呟いた。そうして頭を傾けて、長い爪の先で器用にイヤホンを押さえつけた。その爪には、宝石のようなチップが瞬いている。かたちのいい小さな耳には、白いピアス。その三角州を起点にして、二股に分かれた金色の長い髪が、すっと流れ落ちていた。
「ヤバい。天才すぎなんですけど。」
白い息がかすんだ。瞼は閉じられている。そして、上を向いた長いまつ毛。それは、ヘンデルのことを言っていた。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル。あの、音楽室で見上げたくるくるパーマの小太り男。彼女に言わせると、どうやら彼は天才らしい。彼女がいま聴いているのは、ヘンデルの「ハープシコード組曲」で、演奏者はエーベルハルト・クラウスだった。
「ねえ、きいてる。」
「うん。」
ぼくは、終わらない垂幕のように降りつづける雪を、ただなんとなく眺めていた。
「天才だっつってんの。」
「うん。」
片目を開けて、ちらりとぼくのほうを見上げたようだが、また音楽へと戻っていった。そのときぼくは、溶けるようなまどろみに誘われていた。どうやら宙を舞う白い雪を見つづけるのは、催眠の効果があるらしい。するといきなり、左耳にイヤホンをつっこまれ、驚いて隣を見ると、彼女が悪童のような笑みを浮かべていた。
「どうして天才?」
ぼくはそうきいた。星屑のようなチェンバロの音が、規則正しいリズムで流れてゆく。
「んー、なんつーか、これってさ、だいたい二、三分で終わるような短い曲ばっかりなんよ。でも、それが、ことごとくいいわけ。最高なわけ。のっけから、きゅんとするわけ。だから、波みたいにそれが、次から次へ押し寄せてくるのよ。きゅん、が。」
「ふーん。」
「もうさ、きゅん、の嵐なんよ。一分にも満たない短い曲でも。こんなこと、できるひといるわけ?って思う。だから、天才。」
そう言って、長い金髪を肩の後ろへとふり払った。すると、甘い香水の香りがかすかに漂った。それからぼくはまた、目の前の雪原へと視線を移した。景色のなかに、余白はもうほとんど残されていない。一台の軽トラックが、あまりにも速度を落としつつ通り過ぎていった。ぼくは、唾を呑んだ。
「ねえ、」
「ん」
「四月から、本当に東京行くの?」
そうきくと彼女は、手首にはめたシュシュをいじりながら、なにか逡巡していた。それから、イヤホンを外してぼくのほうを見て、
「うん、行く。」
と言った。そのとき初めて、このバス停の寒さが身に染みた。ぼくもイヤホンを外し、それを彼女の手に丸めて押しこんだ。静寂が、寒さに震えた。
「ぼくを置いて?」
そう言ってから、遅れて後悔がやってきた。思わず目を伏せた彼女の瞳には、雪の白さが反射し、移ろっていた。ぼくは、なにか取り繕うような言葉を探したが、うまく見つけられなかった。寂しさと、惨めさのほうが勝ってしまった。
「うちさ、」
うなだれた瞬間に、彼女の長い金髪が垂れて、その横顔にブラインドをおろした。
「去年、渋谷行ったじゃん。」
しかし、艶やかなピンクの唇だけはその隙間から覗いて、しっかりと意思を伝えようとした。
「そのとき、『ライオン』行ったんよ。ほら、ずっと行きたいって言ってた、名曲喫茶。」
「うん。」
「そこにさ。バカみたいにおっきいスピーカーがあったんよ。ほんと、天上を、突き抜けるくらいの。」
「うん。」
「それ見てさ、なんか、おかしいんだけど、こう思ったんよ。うち、これと合体したい、って。」
唇が閉じて、真一文字に結ばれると、舌の先が左から右に拭った。
「その店さ、昭和元年からやってるらしくて、渋谷のど真ん中にあるくせに、そこだけ時が止まったみたいにおんぼろなんよ。でも店に入ると、別世界が広がって。サラリーマンから外人まで、みんな黙って、クラシック音楽に聴き入ってるの。まるで、首を垂れるみたいに。でも、その場にはそれだけの圧倒されるなにかがあって、それは間違いなく、あの帝都随一を誇る、スピーカーなの。」
やがて、うっすらと開いた唇が、微かに震えだした。
「そこで聴いた、ベートーヴェンの『英雄』は忘れらんない。だからうち、あの店のために、東京行くの。大学も、専門学校も行かない。ひたすらバイトして、ひたすらあの店に通うの。で、ただ毎日、音楽を聴くの。あの、スピーカーから。ベートーヴェンも、バッハも、モーツァルトも。ショパンのピアノ協奏曲第二番も、メンデルスゾーンのイタリアも。カラヤンも、トスカニーニも。むしろ、あのスピーカーがないと、生きていけないかもしれない。」
「それは、ぼくよりも?」
「、、うん。」
それをきいて、ぼくはもう何も言えなくなった。なにか、ぽっかりと開いた穴を優しく埋めてゆくように、目の前の雪は降り積もっていった。そして同時に、こう思った。ぼくは、彼女に憧れているのかもしれない、と。その素直で、真っすぐな意思に。好きなものを、はばかりなく好きと言える強さに。
「でもぼく、やっぱりキミのこと好きだ。」
足元の黒い革靴の表面を、溶けた雪の滴が、すーっと滑り落ちていった。
「ありがと。」
そう言って、彼女ははにかんだ。やや下がった眉尻と、きらきらと輝いた目元のラメ。どうしてこんな子を。そしてこう思った。クラシック音楽は、ハーメルンの笛吹だと。こんな田舎から、美しい女の子をさらってゆくのだから。だが、それでもぼくたちはまた、音楽へと戻らざるをえなかった。二人で片方ずつ、イヤホンを耳にはめて。するとまた、あの美しいメロディーが聴こえてくる。子供の無邪気さを、大人の卓越した技術でコーティングした、天才ヘンデルの、ハープシコード組曲。
そうして雪は止まず、バスはまだしばらくやって来ない。音楽だけがただつらつらと、どこまでも続いていった。