夜のヒカリゴケ
もう夜があける。
朝はまぢかい。
夜あけの寒さはきびしいから。
なぎさの花も凍るのだ。
及川 均 「夜の機関車」より
バスから降りると、革靴が雪にすっぽりと埋まった。襟を立て、傘を開いてから、私は国道沿いを歩きはじめた。大粒の雪が、静かに舞っていた。頭上では傘の表面を、牡丹雪がさらさらと、乾いた音を立てて滑り落ちていった。道路の向かいにはガソリンスタンドと、パチンコ屋が並んでいる。その屋上では七色の王冠のネオンが輝き、通り過ぎると同時に、それは音もなく消えた。夜の十一時だった。車道はひっそりと静まり返っていた。ときおりスピードを落とした車がやってきて、タイヤに巻いたチェーンの残響を落としていった。やがて国道は急カーブに差しかかり、その先で上り坂となった。坂の上にぼんやりと、信号の明かりが見えている。長い坂の途中に広がる闇夜を、両側にぽつぽつと並んだ街灯の光が頼りなさげに遮断し、地上を覆う雪の白さを、花道のように照らしていた。私は滑らぬよう、足元を見ながら、ゆっくりと坂を登っていった。革靴を通して雪が凍み始めていた。イヤホンからは、ランドフスカの演奏する「ゴルドベルグ変奏曲」が流れていた。そのチェンバロの音は、どこか懐かしく、優しかった。やがて坂の上まで辿り着くと、前方に商店街の明かりが見えた。それは雪のノイズで千々に乱れながら、瞬いている。私は商店街の細い路地を曲がり、赤提灯のぶら下がる一軒の飲み屋へと入っていった。がらがらと引き戸を開けると、カウンターの向こうに一人の女性が立っていた。
「いらっしゃいませ。」
彼女はそう言って、笑顔を向けた。店内に客はいなかった。私はイヤホンを耳から外し、コートのポケットにしまった。それから上着についた雪を払ってから脱いで、カウンターの端に座り、隣の席にそれをかけた。ざっと店内を見回すと、カウンターに十席と、二人掛けのテーブル席が二つ、壁の梁に沿ってずらりと提灯がぶら下がり、手書きの品書きが、その下につららのように並んでいる。天井の隅には大きなスピーカーが据えられていた。
「すごいでしょう。雪。」
女将さんは袖をめくった片手を添えながら、コップに入れた水を私の前を置いた。それから慣れた手つきで、くるくるとおしぼりを開いた。
「ええ、よく降りますね。」
私はそれを受け取って、手を拭った。
「二月に入ってからは、毎日こんな調子なんですよ。こちらへは、ご旅行かなにかで?」
「いや、ちょっとした用事で。」
「そうですか。こんな辺鄙なところまで大変ね。」
そして水道の蛇口をひねり、かちゃかちゃと食器を洗い始めた。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「それでは、熱燗をください。」
「はい。」
そう言うと、彼女はガスをひねって火をつけた。私はコートのポケットから煙草を取り出し、目の前にあるマッチで火をつけると、アルミの灰皿へそれを放った。そして肘をついて、カウンターの中の様子を眺めていた。彼女は長い髪を後ろで束ね上げ、緑のシャツの上に白いエプロンをかけていた。すっとした鼻筋と、やや張った頬骨が印象的だった。歳は四十代後半に見えた。スピーカーからは控え目な音量で、歌謡曲が流れていた。
「お待たせいたしました。」
徳利の底を手ぬぐいで拭いながら、彼女はお猪口と一緒にそれを私の前に並べた。それから奥へ行ってかがんで冷蔵庫を開けると、漬物を取り出し、少し刻んで小皿の上に乗せ、それを熱燗の横に添えた。
「この店にいらっしゃるのは、初めてですよね?」
「ええ。」
「誰かのご紹介かなにかで?」
私は徳利を傾けて酒を注ぎ、一口飲んでから答えた。
「古い友人に教えてもらったんです。」
「その方はこちらのご出身?」
「そうです。だけど、今は外国に住んでいます。」
「そう。ここはなんにもないところですから、みなさんよそへ出て行ってしまうんです。今では年寄りばかりになってしまって。なにもかも、古びたものばかりですよ。」
それから彼女は手早く煙草を咥えると、ライターで火をつけてから、顔を横に向け、すっと煙を吐いた。私は酒を飲み干し、再び徳利に手をかけた。胃の奥から体中に、春風のように温かさが広がった。
「でも、私の故郷によく似ていますよ。」
「あら、そう。ご出身は?」
「長野です。」
「いいところねえ。」
「ええ。」
それから彼女は結い上げた髪に手を当てて、しばらくなにかを考えていた。
「そういえば昔、長野にヒカリゴケを見に行ったことがあるわ。」
「ヒカリゴケですか?」
「そう、ヒカリゴケ。ご存じ?」
その言葉を聞いて、私は幼い頃に見たそれを、ぼんやりと思い出していた。
「ええ。子供のときに、一度だけ。」
「とっても綺麗でした。岩の隙間で、こう、ぼうっと緑色に光って。」
「でも、どうしてまた、ヒカリゴケなんか?」
「あら、どうしてだったかしら。思い出せないわ。もう、随分昔のことですから。」
そこで会話は途切れた。店の奥では、達磨ストーブの上のやかんが、しゅうしゅうと音を立てて鳴いていた。冷えた体と思考が、ゆっくりと弛緩していった。スピーカーが閉口し、一瞬の間、店内に空白を訪れた。その沈黙を、コツコツ、という柱時計の振り子が、細かく刻んでいた。私は再び酒をついだ。そして霞んだ記憶の彼方から、ぼんやりと形を帯びて浮かび上がる、幼い日に見たヒカリゴケのことを思い出していた。
雛祭りの季節だった。家の洋間には、立派なお雛様が飾られていた。その日私は、雛壇の一番下の段に置かれていたオルゴールのネジを、何度も何度も巻き直し、そこから流れるどこか切ない音階を、飽きることなく聞いていた。居間のほうから地を這うように、父親がぶつくさと小言を言う声が響いていた。やがて姉がやってきて、私の手をひいた。そして、私たちは玄関を開けると、外に出て歩きはじめた。
空は晴れ渡り、北風が強く吹き付けていた。私たちは集落の小路を歩いていった。姉は、なにも言わなかった。幼い私は、ただ黙ってその後を追っていった。道にはこんもりと積まれた雪と、まるでおろしたての衣装を汚すように、泥をひいた轍が足元に伸びていた。左右には隙間なく積み上げた石垣と、色褪せた板塀が続いていた。板塀の上からは、土蔵に刻まれた家紋や、威圧的な瓦屋根が見下ろしている。昔ながらの、古い家並みばかりだった。雪の重みでひしゃげた車庫。剥げ落ちた納屋のトタン。錆びついたトラクター。隆々とした松の枝。ときおり分かれ道では、雪を被った道祖神の、破れかけたしめ縄が、風に吹かれてはたはたと揺れていた。
やがて集落を抜けると、眼前には白銀に覆われた田畑が広がった。私たちはまだ足跡のついていない畦道を歩いていった。降り積もった新雪は、踏みしめるたびに、足元できゅっと音を立てて固まった。白い褥の中から、遠くで点景のように、雷鳥が飛び立つのが見えた。しばらくして立ち止まると、私はかじかんだ手に息をかけて温めた。姉はそんな私を見ると、無言で手を取り、再び歩き始めた。まるで、急き立てるかのように。
それから道は木立へと吸い込まれ、赤い鳥居をくぐると、その奥に小さな神社が見えた。傍には一つのベンチがあり、その周囲にふらふらと乱れた足跡と、たばこの吸い殻が雪の上に散らばっていた。私たちは神社の脇を抜け、杉林をさらに奥へと進んでいった。おもむろに見上げた社の、破れた障子の隙間からは、濃い闇がじっとこちらを見つめていた。
まるで通いなれた道のように、姉は迷うことなく先へ進んでいった。それとは対照的に、私の不安は徐々に膨らんでいった。いったいどこまで行くのだろう。だが、その後ろ姿へ問いかけることは、薄氷の張った湖水へ投石するように、なぜかはばかられた。そこにはなにか、使命感のようなものが漂っていた。あるいは背後から迫りくる、不吉な足音から、必死に逃げるかのようでもあった。ただ彼女の手から伝わる温もりだけが、唯一私を安堵させた。
しばらく行くと、ゆったりとした下り坂となり、湾曲した先で道は小川とぶつかった。私たちは舗装されたその道を、川に沿って歩いていった。右手には崖がそびえ、左手にはせせらぎと平行して柵が続いている。ときおり思い出したかのように、傾いた街灯の支柱が立っていた。
それから長い一本道を、ずいぶんと歩いていった。私はその間、ぬかるみに浸みた自分のスニーカーを眺めていた。それは正月に買ってもらったばかりのお気に入りの靴で、マジックテープで留めるタイプだった。それを買ってもらうために、デパートの靴売り場で、母に随分と駄々をこねたのだった。だが、もうすっかり泥にまみれてしまっていた。そのとき急に、姉が立ち止まった。私は視線を上げ、彼女の横顔を眺めた。姉は放心したような目つきで、何かをじっと眺めている。私はその視線の先を辿っていった。すると、少し距離をおいた道の先に、ぼんやりと人影が立っている。よく見るとそれは、鮮やかな和服を着た女性だった。その姿はまるで切り絵のように、荒涼とした雪景色に、くっきりと浮かび上がっていた。そして徐々にその仔細が頭の中で像を結ぶと、私は目を丸くした。
それは母親だった。それも、私が一度も見たことがない母の姿だった。彼女は髪を結い上げ、背筋を伸ばして凛と立ち、崖のほうをじっと見つめていた。菖蒲をあしらった藍色の着物に、薄い桃色の帯。小さなハンドバックを手にぶら下げ、漆を塗った下駄はすっかり泥にまみれている。透いた白い肌に浮かぶ頬紅と、きゅっと結んだ口元。そして、すっと引いた墨の下の切れ長の目は、ただ一点を見つめていた。
かあさん、、、、。私の口からその言葉が漏れる瞬間、姉が手を強く握り、それを制した。その顔を覗くと、まるで彼女もその言葉を噛み殺すかのように、じっと唇と噛んでいた。だがいったいどうして?どうして呼びかけてはいけないのか?それに、かあさんはあんな姿でどこへ行くのか?誰かに会いに行くのだろうか?それにいったい、何を見ているのだろう? 頭を駆け巡る一切の問いが、私の口から出かかった。ねえ、姉さん。だが、香気を含んだその母親の真新しい姿は、まるで私たちがそのわずかな距離を隔て、断絶してしまったかのように感じさせた。そこにいるのはまるで、私の母ではなく、私の知らない一人の女性だった。姉はきっと知っていたのだ。そして、自分が見ているものが間違いではないことを、私の目を通して、確かめたかったのだ。それが夢ではないってことを。
やがて母は崖から少し後ずさりすると、うつむいたまま私たちには気づかずに、向こうへ歩いていってしまった。その姿が見えなくなってから、私たちは母親の立っていた場所まで行って、彼女がいったいなにを見ていたのかを確認した。それはヒカリゴケだった。
崖の腹にぽっかりと、小さな洞穴が口をあけている。入口には鉄格子がはめこまれていた。私たちは近寄って、鉄格子へと手をかけ、そっと中を覗いた。すると、中からひんやりと湿った空気が漂ってきて、頬を撫でていった。それから闇の中へ、じっと目をこらした。すると、斜めに差し込んだ光と、薄闇が溶け合うその狭間に、緑の蛍光色の光がぼうっと浮かび上がった。それは控え目で、たよりない光だった。岩の上にまばらに飛び散ったそれは、まるでこの世に置き忘れた魂の残り香のように、どこか寂し気で、そのぶん人を惹きつける妖しい魅力を放っていた。傍らには「天然記念物」という看板が立っていた。そこは小さな聖域だった。私は手を伸ばして、それに触れてみたかった。しかしそれは、人がわずかに触れるだけで、すぐにでも消えてしまうような、儚いものだった。
「お客さん。」
「はい?」
「おかわりお持ちします?」
私は徳利を持ち上げて軽く振った。
「いいえ、けっこうです。」
彼女は煙草の火をもみ消した。煙が最後の渦を巻き、蒸発していった。
「おかみさん、ヒカリゴケって、夜は光りますか?」
私がそうきくと、彼女は不思議そうな顔で私を見て、やがてこう言った。
「さあ、、、。多分、光らないんじゃないかしら。」
「どうしてです?」
「だって、あれは発光しているわけじゃなく、光を反射しているだけですもの。」
「そうなんですか?」
「ええ、月と一緒よ。」
それから彼女はこう付け足した。
「まあ、女だって似たようなようなものだわ。一緒にいる、男次第で。」
私は徳利に残った酒を注ぐと、一気にあおった。
店を出ると、十二時を過ぎていた。イヤホンからは、レオニード・コーガンの演奏する、ドビュッシーの「月の光」が流れていた。そのバイオリンは、圧縮され、針金のように引き伸ばされて、鳴いていた。後ろからピアノが、ぼろぼろとこぼれ落ちた音を拾いながら。
降り積もった雪が、道の両側に並んだ飲み屋の看板を埋めていた。その奥で、赤や紫のネオンの光が、ぼんやりと輝いている。もう雪はやんでいた。雲一つない星空には、薄い三日月が微笑を浮かべている。消え入りそうに震える弦の響きが、三日月の先端から滑り落ちて、ゆるやかに夜空を流れてゆく。軽やかに。そして着実に。青白い月の燐光が、その後をすっと追いかけ、地上へと降り注ぎ、雪の表面をほのかに照らしていた。その青い熱では雪は溶けず、より一層凍てついた。物音ひとつしなかった。バイオリンの音色に乗った、昔の思い出だけがただ、さんさんと胸に湧いてくるだけだった。不意に看板の明かりが一つが消えた。それを合図にして、やがてぽつぽつと光が消えていった。もう帰る時間だった。