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解き放たれた群青


波が跳ねる。浜辺を虚ろに、そしてけだるく。飛沫を上げて、うねりながら。飛び散った水泡が光を受けてきらめき、そして消えてゆく。そしてまた、そしてまた、波がやってきては返してゆく。時に雄々しく、ときにしおらしく。飽きもせずに。膨らんだ海の向こう側へと。水面の底に淡い紺碧をたたえた、地平線へと。さざなみを立てながら。大勢の同胞の元へと。群れた青の中へ。

とぐろを巻いて波が岸辺へと押し寄せる。それにつられて陽光までもが空中を踊り狂っている。陽気に、軽やかに。熱は水と混じり合い、刹那に蒸発する。残りは全て、屋根を、葉を、パラソルを、桟橋を、肌を、砂を焦がす。弾けた光は、隠されたあらゆる影を拭い去る。そして原子を内側から照らし出す。全てのものが水を得たように燦々と輝いている。まるで歌うように。それを水勢が次々と飲み込んでゆく。岸辺に向けて大きな口を開けながら。しゅうしゅうと音を立て、奪い去ってゆく。やがて潮が引いてゆく。暗い尾をひきながら。
水の中へと勢いよく飛び込むと、膜となって張り付いた水が体の外皮を滑り、耳の奥で水流が低い音で渦を巻く。沈んでゆく。さらわれた白い砂が水の中でふらふらと舞っている。打ちひしがれた海草が泳いでいる。胸の奥でたよりない空気が浮かびあがろうともがき、必死で腕を動かす。がむしゃらに。不恰好に。頭上を波が通過し足元から帰ってくると、鼻の奥へと辛い塩水が染み入る。重く生臭い、生命を背負った塩の味が喉の奥を焼く。それでも泳ぐ。足をばたつかせ。もっと深くへ。グラデーションの海の底へと。青い光源へ。音は遠ざかってゆく。こだまだけだ。自分の心臓と、海の。そして色の。流されてゆく。こびりついた垢や、くだらない世間話が。大きな藍色にくるまれて、やがて一個の固体となってゆくのだ。海はそれでもまだ遠い。そしてなお深い。頭上へと目をやると、透いた水の向こう側でゆらゆらと世界が見える。やがて息継ぎのために水面から顔を出すと、波が襲う。眼前を覆う。頭から落ちてくる。そして押し流してゆく、砂浜へと。有無を言わさず。抗えない。為すがまま。転がるように。息もつけない。そのまま、流されてゆく。渦に飲みこまれ、軽々と。押し流されてゆく、ショベルカーのように、すさまじい轟音をたてながら。波は一斉に、肩を並べながら。担ぎ上げながら。細かい飛沫と、私を。怒涛のように、お祭り騒ぎのように、勢いよく、押し流してゆく。岸辺へと。
 

 
いつでも逃げ込める秘密の部屋を持っていた。誰にも邪魔されない、犯されることのない聖域を。私はそこでいつも、貪り食っていた。自由を、享楽を、好奇心でもって。くだらないことから大切なことまで。いろんなものをこねくりまわしては、手を代え品を代え。多くの言葉が放り出されていた。そこに埋もれ、満足しきっていた。そこで未来を想像した。自分の目の端に転がっている、いくつもの数え切れないほどの可能性を。まだ手付かずの、触るのにも躊躇するようなガラスのような代物を。嫉妬や期待とごちゃまぜにして。そして強く憧れた。いろんなものに。執念のように憧れた。次から次へと。彼に、あの人に、そして人生に。だが憧れは手を伸ばすだけで、決して届きはしなかった。だから私は這いまわった。その部屋の中で、ザムザみたいになって。いや、実際にはいつも恐れていた。手を伸ばすことを。掴むことはおろか、触れることすらも。たちまち壊れてしまうんじゃないか。だから遠くからじっと眺めているだけだった。指をくわえてじっと。だがそれでよかったのかもしれない。そのときには。私はそれでも満足していた。自分の部屋の宝物をじっと眺めているだけで。

きっと気取り屋だったんだろう。人と会った後はいつだってその部屋へと逃げこんだ。いろんな人と会う度に。仕事や、飲み会や、クラブや、街で。そこで作り笑いやお愛想をふりまいた後には余計にそうだった。そして自分の宝物がまだそこにしっかりあるのか確かめるのだった。恍惚としながら。だからいつでもそのいやらしさが隙間から滲み出てしまっていた。紫煙みたいにゆらゆらと。友人たちはきっとそれを嗅ぎ取っていたに違いない。私の言葉の節々から。なにか、高飛車な物言いから。そして彼らは何んだか妙な気分に陥った。こいつは一筋縄ではいかなそうだぞと。いわばはったりだった。私ははったりばかりだった。私の背後にある宝物をいつもちらつかせては、それを決して人に見せようとはしなかった。実際にはただのがらくたにすぎないのに。だが人々がそれを羨ましがるように、欲しがるように、巧みに偽装しては、飾り立てるのだった。そしてこう思うのだ、俺はおまえらなんかとは違うんだぞ!と。
私の友人たちはぽつぽつと結婚していった。かつては馬鹿をやりあった友人たち。かつては一緒に空疎な時間を必死になって埋めようとした友人たち。軽トラックの荷台へ駐輪場の自転車を溢れんばかりに詰め込んで歩いた友人たち。森の奥へ基地を作ったり、万引きした肉でたらふく焼肉を食べていた友人たち。セックスの自慢話ばかりや、脱法ハーブをやって月をじっと見つめていた友人たち。ある日彼らは立派なタキシードに身を固め、純白のドレスに身を包んだ花嫁の手を取って、厳かな十字架の前で誓いをたてていた。そして大勢の人間に囲まれ、正に人生で一番幸せな日を、浴びるような酒と料理で祝福されていた。ライスシャワーと五月の陽光に。彼らは家庭を持った。真っ当な仕事と、ボーナスを。そして子供を。土台を作り始めていた。基礎から積み上げてゆくところだった。地に根を張るために。もう一緒に朝方のラーメンを食べることも、人の家の引き出しからコンドームをくすねていくこともしなくなった。もうくだらないお遊びとはお別れするときだった。私は彼等を心から祝福した。彼らの幸せは爽やかだった。風が吹き抜けるように。それはがらんどうとした私の心の中でつむじを巻いて通り抜けていった。それから私はまた自分の部屋へと引き返していった。
私は益々自分の宝物を磨く気になっていった。大事な大事な宝物を。ぼろきれや雑巾でもって、せっせせっせと。暗い穴倉にこもって一人でしこしこと、まだ生まれてもいない卵の表面ばかりを。それは土台だった。額縁だった。つまり中身はまったくの無だった。私はその土台に様々な彫像を空想しては眺めていたのだ。とっかえひっかえ、飾り立て、ポーズを変えて。それが私の宝物だったのだ。
とにかくよく歩き回った。私は仕事が終わると気が狂ったみたいに歩き出した。もう一秒だってあの息の詰まるような箱の中にはいたくなかった。まるで吐き出されるようにして私はビルの外へ出た。そして東京の街を闇雲に歩き始めた。山手通りや甲州街道を。青梅街道や中野通り、それに環七や環八、六号通り、五日市街道、246、淡島通りも多かった。空はうっすらと暗くなり始めていた。やがて闇が地上を支配すると、車のヘッドライトが次から次へと列をなして、その大きな目を光らせながら道を流れていった。私はその端を歩きながら自分の部屋へ閉じこもり、そのときに最も重大な悩みごと、恋のことや、借金のことや、友人のことや、外国のことをぐるぐると考えた。そして最後にはいつも決まってあいつがやってきた。孤独だ。孤独が闇の中で目を光らせていた。奴はどこまでもついてまわった。影のように、あるは雌犬のように。私は孤独を振り切ろうともがいていた。だがその度に孤独になっていった。どんどんと吸い寄せられるようにして。どんなに足早に、どんなに遠くまで行っても駄目だった。孤独は決して私を離してはくれなかった。
たまに会う友人たちは私を見ると、不思議で哀しそうな顔つきをした。ファミレスのテーブルの向こう側で。携帯電話を片手にして。ディスプレイには生まれたばかりの子供の写真が映し出されていた。一方私も同じだった。私はこう思った。彼らは既に重荷を背負っているのだ。もう、反復横とびをするみたいに飛び跳ねることはできないのだ。もう思い立ったときに出発をすることもできないし、気ままに何か新しいことを始めることもできなのだ。徐々にがんじがらめにからめとられてゆくだけだ。家庭と、社会に。私は彼らに対して優越感を覚えようとしていた。だが彼らは私に、変わらぬ身軽さと若さを備えた私に対して、羨ましさを口にしつつも、どこか憐れみをした目で見つめた。彼らの瞳には深い湖の水面が反射していた。だが私は、そんな彼らを見ると益々こう感じていた。彼らが羨ましがる人生を送らなければいけない。もっともっと。誰もが追い付けないような人生を。そう勝手に思い込んだ。それは彼らもわかっていた。私が自らへ向けた険とした疎外感。彼らはきっとそれをしっかりと感じ取っていた。あれほど忌み嫌った孤独は、既に私の骨の髄までしっかりと食い入っていた。それは徐々に互いの言葉の端々まで侵食してしまった。我々はもうお互いが何を話しているのかがわからなくなってしまっていた。

 
        2

 
店の前を藍色の浴衣を着た女の子が足早に通り過ぎていった。こつこつと下駄がアスファルトを打った。小気味よい音で。その日は花火大会だった。彼女は口元に笑みを浮かべていた。きっちりと結い上げた頭につけられた髪飾りがゆらゆらと揺れていた。深い藍色地の浴衣には、水色の百合の花の模様が浮かんでいた。私はUFOキャッチャーの景品を取り替えながら、その姿を目で追った。まるで蝶のように、風に揺られた風鈴のように、彼女は通り過ぎていった。
その後から奴がやってきた。角刈りでサングラス。まるでやくざだった。彼はこのゲームセンターのオーナーだった。彼は私に一瞥すると店内をぐるりと見渡し、小姑のようにあらを探しては、あれこれと指示を出してからすぐに消えた。と見せかけて奴は、隣の焼き鳥屋へしけこんで、酒を飲みながら店に出入りする人間を眺めていた。その間、私はゲーム機の表面をせっせと磨いたり、モップをかけたり、灰皿を交換したりした。店内には甲高い電子音が鳴り響いていた。どきゅーん、ずきゅーんと。ゲーム機の画面からはデモが流れていた。その中では赤い胴着を着た金髪の男が拳を振り上げて飛び上がっていた。客はみんな顔馴染みだった。彼らはいつも通りそれぞれ専門の分野で楽しんでいた。テニス、ブラックジャック、マージャン。一枚の硬貨で、あるいは大枚をはたいて何時間も遊んでいった。電話が鳴った。私は急いでバックルームへ行った。オーナーからだった。ものの10秒の距離なのに。
「おい!今日の一等はやっぱりPSPに変えとけや!」
がちゃん。私は立ち上がることもできない狭いバックルームで、中国製の景品の山に囲まれながらタバコを吸った。
それは渋谷の狭い路地の中にあった。私は昼はオフィスで、夜はそこでバイトをしていた。汚いところだった。壁には長い年月をかけてヤニが染みこんでいた。ゲーム機はみんな時代遅れだった。バックルームの引き出しには、何かトラブルがあったときのために、やくざの組長の連絡先がしまいこまれていた。店番は私一人きりだった。朝と夜で交代制だったのだ。だからバイトは全部合わせても四人くらいしかいなかった。私は立ち上がることもできない狭いバックルームの中で、折りたたみ式の三脚椅子を広げて座った。ポケットの携帯電話が鳴った。懐かしい名前だった。少し迷ってから通話ボタンを押した。
「久しぶり。元気でやってるか?」
電話の向こうで彼はそう言った。
「今は仕事中だよ。ずいぶん久しぶりじゃないか。どうした?」
「そうだったのか。悪いな。実は今度、友達と奥多摩でバーベキューをやるからどうかと思ってさ。」
伊藤くんとは随分久しぶりだった。正月や盆に実家に帰ったときに稀に会うくらいなものだった。だが我々はまだ仲がよかった。つまりは他のグループに比べて。高校の同級生のうちでは。卒業してからも何年も何年も集まった。帰省する時期には連絡を取り合って、大勢集まった。都合をつけて。時間を空けて。みんな楽しみだったんだ。久しぶりの顔ぶれが。その頃はまだ延長線上にいた。青春の残り香の。彼はその友達のうちの一人だった。だが個人的に連絡を取ることなんてあまりなかった。いつも誰かを介してだった。だからその電話は珍しかった。我々は妙に緊張しながら話していた。
「ところで今何の仕事してるんだ?」と彼は言った。
私は一瞬あたりを見回して躊躇した。もう高校を卒業して何年も経っていた。私はその間転々と仕事を変えていた。この前は彼に何と言ってたか。
「ゲームセンターだよ。昼はコールセンターで働いてる。」
「そうだったか?美容師はもうやってないんだ?」
「ああ、とっくに辞めたよ。伊藤くんは?確かIT関係に就職したんだったよな。」
「ああ、俺も辞めたんだ。最近。今はフリーでやってるよ。」
「フリーで?自分で仕事を取ってんの?」
「そう。なかなか大変だけどな。しかし三年もやってたんだからある程度の要領はわかってるよ。会社に見切りをつけるならなるべく早いほうがいいからな。今じゃ好きなときに休みも取れるようになったよ。
ところでバーベーキューは来れそうか?今度の週末なんだけど。女の子もたくさん来るんだ。確かおまえ彼女いなかったよな?清野にも声をかけようと思ってんだ。どうだ?」
私はそのバーベキューを想像した。木立の隙間から溢れる陽の光と、はしゃぐ女の子たちの黄色い声。トング。もうもうと立ち込める煙。焼かれたピーマン。かぼちゃ。肉。気取った会話。傍を流れる涼しげな川。短いスカート。ビーチサンダル。緊張、そして、はじめまして。
「せっかくだが俺はやめとくよ。仕事もあるし。悪いな。」と私は言った。
「そうか。まあしょうがないな。またみんなで飲みにでも行こう。仕事中に悪かったな。」
「別にかまわないよ。それじゃあ。」
そう言って電話は切れた。私はポケットへ携帯をしまってからバックルームを出た。すると電子音の嵐が踊りかかってきた。じゃらじゃらじゃらじゃら。それは一瞬にして私の耳を塞いだ。カウンターの近くには麻雀ゲームが並んでいた。ポン!チー!ロン!ドラがめくれる。リーチイッパツドライチ!むこうのシューティングゲームからは地上へ落とされる爆弾のばかでかい音が響いていた。機関銃の音、炸裂音、打ち落とされた飛行機の墜落音。ボスのお出まし。テニスのラリー。ポン、ポン!そして歓声。またサーブだ。効果音を伴って。あっちではせっかちなテトリスの音楽が。煽る。どんどん積み上がってゆく。ブロックが。すごい速さで。天井まで。もう駄目。それから波動拳だ!
伊藤くんは、随分遠いところへ行ってしまった。彼はいい大学を出て、いい会社に就職していた。そして今は。ところが私は。こんな場末のゲームセンターにいた。いったいどうしてこうなってしまったのか。どこからこうなってしまったのか。我々は同じスタート地点にいたはずじゃないか。時計の針のように。だがもう決して重なることはなかった。長針と短針は別の方向を向いたまま、既に長い時間が過ぎてしまっていた。それは回らなかった。伸びてゆくだけだった。時間の先へと向けて。私は強い嫉妬を覚えた。そして同時に虚しさを。だが、それは無為な感情だった。誰かがゲーム機へと小銭を入れる音が聞こえた。またはじめからやり直すのだ。リセットして。繰り返し。私は階段に置きっぱなしのモップを片付けに行った。
 
それから夕実がやってきた。彼女が一人で来ることは珍しかった。ちょうどその日は休みだったんだ。彼女のシフトが。私は昼間は彼女と同じ職場で働いていた。つまりは同僚だった。彼女はいつも綾子という年上の女と一緒に行動していた。滅多に一人でなんか遊びには来なかった。近くを通ったから。彼女はそう言った。うつむきながら長い髪で顔を隠して。上目遣いで。
私は彼女のことが好きだった。だからその突然の訪問は私を有頂天にさせた。私はあれこれ必死で会話をつなごうとした。しかし彼女は口下手だった。滅多に自分からは話さなかった。だから普段は綾子がパイプ役となってたんだ。だが今日は綾子はいなかった。とにかく何か話さなきゃいけなかった。なんでもいいんだ、話しの種なんて。だがあいにく私も口下手だった。私は面白い話しなんてできる性分じゃなかった。その頃はただ格好ばかりつけていた。取り澄まして。クールぶって。私はいろいろと彼女へと質問をした。裁判所の判事みたいに。そして答えはブロックみたいにただ積み上がっていった。それで終わりだった。そしてまた次の質問。どしん。次、どしん。次。。。。しまいにはそれは高い壁となって私の前に立ちふさがった。もうネタはなかった。お互いに話しに花を咲かせる能力がなかったんだ。
私たちはしばらく無言のうちにいた。彼女は店内を珍しそうに眺めていた。所在無さ気に。長い髪はアイロンで伸びていた。本当はひどいくせ毛だったんだ。だが私はそっちほうがもっと魅力的だと思っていた。短い白いTシャツからおへそが覗いていた。そして黒のミニスカート。ひょっとして彼女は何かを期待していたのかもしれない。自分ではわからない何かを。彼女は離島の出身だった。これまで山を見たことがなかったんだ。だから東京に来るときに初めて山を見て驚いたらしい。山を見て。彼女の家庭は何かと複雑だった。貧乏な親父やら、病気の弟や。だからきっと心の奥では言葉にできない感情がうずまいていたはずだ。だが彼女はうまく人にそれを伝えることができなかった。だからその分目で訴えた。彼女は話し始める前には、じっと相手の目を見つめた。不思議そうに。そして言葉を探すために。自分のペースで。その一瞬だけは彼女の故郷と同じ時間が流れていた。だがその視線は相手を勘違いさせることも多々あった。おそらく私もそのうちの一人だったのだろう。そのことを彼女は感じ取っていた。男達の反応から。自分独自の魅力を。そして東京にいる数多の男たちに向けて、飾り立てた自分を、精一杯肌を露出して試していたのかもしれない。言葉の代わりに。それは彼女の防衛本能でもあった。この恐ろしい都会で自分を守るための。つまり、ナイトを探すための。だが男たちは、女の人生の片棒をかつぐなんてまっぴらご免だった。自分たちだけで手一杯だったんだ。だからこそ彼女は見極めなきゃいけなかった。その目で。
しばらく傍のゲームをじっと眺めていた夕実はぼそっと別れを言ってから、いつものように私を見つめたあと手を振って立ち去った。それから髪を風になびかせて外の光の波へ消えていった。ミニスカートの裾がひらひらと舞った。私はその後ろ姿を眺めていた。それから一組のカップルが店頭のUFOキャッチャーの前で立ち止まった。それはクレーンでくじをすくう仕掛けだった。ねえ、一等はPSPだって。と女。馬鹿、嘘に決まってんじゃねーか、そんなものはじめっからこの中にゃ入ってねーんだよ。と男。私はカップルが立ち去った後に一等のくじを20枚ほど追加した。
 
ある日私は夕実へ告白をした。仕事中に。ゲームセンターの狭いバックルームの中で。私はもう我慢できなかった。気狂いになりそうだった。情熱に。恋に。すっかり妄想にとりつかれて。片時も彼女のことを考えずにはいられなかった。それは鳴り止まない太鼓のように、絶えずがんがんと私の脳と鼓動を急かすのだった。そして同時に葛藤を。不安を。期待を。未来を。恐怖を。夢を。挫折を。幸せを。堆積したそれらは破裂寸前だった。ゲーム機の間をうろうろとした挙句、私は結局バックルームにこもって彼女に電話をした。その想いを伝えるために。面と向かって言う勇気もなかったんだ。あらゆる種類の機械の鍵が束となって、一つの輪にくくりつけられていた。私はそれを手にしながら一個一個たぐっていた。コール音が鳴った。それは随分と長く聞こえた。鍵がかちゃかちゃとこすれる音がした。それから耳元で彼女の声が聞こえた。一つ息を呑んで、私は思い切って自分の気持ちを伝えた。だが答えは「ノー」だった。友達としか見れないわ。彼女は困惑しながらもそう言った。そして電話は切れた。私は燃え尽きたようにしばらく椅子に座っていた。もう目の前は真っ暗だった。すっかり打ちのめされていた。私の世界はその部屋よりももっともっと窮屈になってしまった。それからタバコに火をつけた。だが吸う元気もなかった。煙が揺らいだ。すると勢いよく扉を開けてオーナーが入ってきた。全くそのタイミングで。私の姿を見て彼の目は一瞬丸くなったかと思うと、それは火を帯びるように真っ赤になった。そして馬鹿でかい声で私を散々罵った。砲弾のように怒号を浴びせた。目一杯泡を吹きながら。こんなところで何やってんだと。貴様、それで給料もらうつもりか!いつもこうやってさぼってやがったんだな、このガキが!隠れてたばこなんぞ吸ってやがって。何様のつもりだ!あぁ、この前くじを増やしやがったのもお前だな。UFOキャッチャーのだ!さてはおまえだろう!?そうだ!一等だよ!あんなにいれやがって。潰す気か!なんて野郎だ!このくそったれが!いったいどういうつもりだ!おい、なんとか言ったらどうなんだ!・・・
それから三十分も、一時間も。延々と彼は続けた。手にしたサングラスをぶんぶんと振り回しながら。私は放心したままそれを聞いていた。夕実のことを考えて。そしてクビになった。
 
それからすぐに、職場に入社した新しい男と夕実は付き合うようになった。昼間の職場のほうだ。コールセンターの。私はその男のことも知っていた。仲良くしていた。我々の新しい仲間として。綾子も入れてしょっちゅう四人で飲みに行った。歓迎会で。すぐに私たちは四人で遊ぶようになった。私は充分に彼に気を使っていた。男同士、包み隠さず話した。私が夕実のことを好きだということも。まだ諦め切れなかったんだ。それから彼と本音で話せるようになりたかったんだ。もっといろんな話がしたかった。お互いのそれまでの経緯やこれからの夢を語りたかったんだ。真の友達となるために。おそらく彼もそれに応えようと一生懸命だった。私の期待に。そして輪に入ろうと。この仲良し組に。表面上は。
だがそれから一週間もしないうちに、彼らはある日突然いなくなった。夕実とその男は。不意に。忽然と。二人して。職場にも来なくなった。誰も連絡がとれなくなった。蜃気楼のように消えてしまった。二人でどこか遠くへ。私たちの届かない、都会の雑踏へ、紛れていなくなってしまった。私が彼らの関係を知ったのはその後だった。彼らは文字通り消えてしまった。それまでの全てを断ち切って。二人だけの世界を作るために。

 
     3 

 
その頃の東京の空はいつでも灰色だった。いや、空だけじゃない。ビルも、人も、服も、会話までも。新宿の乱立したビル。重厚なコンクリートの壁、等間隔に並ぶ窓、窓。モザイク柄のアスファルト。スーツ、ネクタイ、革靴。足早に。同じ方向へ。うつむいた顔。手提げ鞄。そして新聞。ぎゅうぎゅうに。満員電車でも。鼻につきそうになりながらも。限界まで圧縮された空気。肉に埋もれ。かかとを浮かせ。濡れた女の髪が。揺れ、潰され、吐き出され、そしてまた雪崩だ。完全な沈黙の異様さ。そして膨れ上がった苛立ち。手元の携帯へと。画面上で回る砂時計が。逃げ場などない。そして場内アナウンス。屠殺場行きの。
新宿西口広場では。渋谷のスクランブル交差点では。中野のブロードウェイでは。竹下通りでは。東京駅では。六本木ヒルズでは。どこもかしこも毎日がお祭り騒ぎだった。すれ違いざまにかちんと当る手。引きづられたバッグ。行く手を阻む人の群れ。笑い声。香水の残り香。ハイヒールの音。ビジネスマンが。お世話になっております。携帯電話を手で覆い。それからパチンコ玉の音だ。溢れ出るように。いらっしゃいませ!靴屋から。眼鏡屋から。セールだ。50パーセントオフの。居酒屋は?キャバクラは?ガールズバーは?ネオンに包まれて。赤ら顔で。誰もが行き先を急いでいた。人の波をかき分けて。それぞれの方向へ。

帰宅すると三神さんはソファで寝そべっていた。それから私に気づくと彼は跳ねるように起き上がり、気を使って私にソファをすすめた。私はそれを見て呆然とつっ立っていた。彼はある日突然やってきて、私の家に寝泊りするようになった。一日だけの約束だったんだ。本当は。だが気がつくと一週間も経っていた。私の手にはレンタルDVDがぶら下がっていた。今夜こそは彼がいないもんだと思ってAVを1時間もかけて選んできたんだ。くそっ!私はそれを投げつけたい気になった。すっかり疲れていた。休みたかった。一人になりたかったんだ。だが彼は余力を残した笑顔で私を見つめていた。まるで口を開けて、巣の中で待っていた雛鳥みたいに。気を使ってたんだ。精一杯彼なりに。彼にはどこにも行くところがなかったんだ。
彼と初めて会ったのはまだ私が派遣の美容師をやってる頃だった。週末になると私はどこへでも飛ばされた。電話一つで。千葉、埼玉、神奈川まで、人手の足りない店は腐るほどあった。出来るだけ近場を選んだ。阿佐ヶ谷、荻窪、永福町、二子玉川、桜新町、調布、浜田山。乗り継ぎ一回で行けるところを。どこも個人経営のような小さな店ばかりだった。その度に私は新しい顔ぶれに囲まれ、知らない客の髪を触った。独楽が回るようにくるくると。戦場のような週末のフロアを。あたかもその店の一員かのように振舞って。それからバックルームの中では、二度と会うことのない人間と顔を突合せながら、肩身の狭い思いをしてタバコを吸った。それからお馴染みの質問と、お決まりの答えだ。もう何十回と口にした。作り笑いでもって。やがて定時になるとまだ慌しい店内を尻目に扉を開けて出ていった。それは時給制だったんだ。まだ賑やかな店内と対照的に、私はすっかり暮れた夜の町へと消えていった。その頃だった。三神さんと会ったのは。
彼は客としてやってきた。それは高円寺の美容室だった。オーナーとアシスタントの二人きりの小さな店だった。イームズの椅子や、アンディウォーホルの絵がインテリアとして飾られていた。オーナーはニット帽に眼鏡をかけ、ごま塩のような髭を生やしていた。一方アシスタントのほうはがりがりに痩せて、金髪のショートカットだった。腰に道具を入れるエプロンをして、ぼろぼろに破れた裾のジーンズと汚いスニーカーを履いていた。彼はオーナーの動作を全て心得ているかのように、常に一つ先回りして動いていた。窮屈な店内を。客が席を立てばシャンプー台で待ち受け、勘定を払うときにはカウンターの前で笑顔で出迎え。そして電話から掃除から買出しから、何から何まで全て一人でこなしていた。それでも彼の若さは底を尽きることがなかったんだ。奉仕の精神で。過度な競争に打ち勝つため。眩い将来を夢見て。まだまだオーナーにびっしり仕込んでもらうんだ。あらゆる雑用を一手に引き受ける代わりに。この狭い店内で。これからも。二人っきりで。
不意に扉を開けて恐る恐る一人の客が入ってきた。妙な格好をしていた。パンクスみたいな。穴の開いたTシャツに細身のデニムで。尻には何かのバンダナみたいな布を安全ピンで留めていた。そしてジミヘンドリクスみたいなぎょろりとした目をして。そっくりだった。それが三神さんだった。彼は初めてだったんだ。この店が。そして私が受け持った。それから鏡の向こう側でいろいろと話をした。彼の履いてるリーバイス511や、ドアーズ、ピンクフロイドといった好きな音楽のことを。それから60年代の学生運動についてや、パゾリーニの映画について。我々は新鮮さの波に乗り、興味があることを手当たり次第なんでもかんでも話した。飽きることなく。意気投合して。息を弾ませ。高揚し。お互いの持ち弾が尽きるまで。延々と。やがて気がつくと私はすっかり髪のことを忘れてしまっていた。そして鋏を握った手元を見ると、彼の頭は坊主になってしまっていた。綺麗に丸まって。だがそれは彼に似合っていた。こっちのほうがさっぱりしていいですね。そう言ってすっきりとした顔をしながら彼は扉を開けて出て行った。次には店の外で会うことを約束して。
 
三神さんは内気だった。そして頽廃的だった。どこか刹那的なところがあった。いつも寂しさを身にまとっていた。それを貪り食うようにして。好きなものを糧としながら、それに食いつぶされてゆく人間だった。自分の感情をうまく表現することができずに、いつも爆発寸前のタイプだった。その点で我々は似通っていた。だからこそ我々は動物がそうするように、お互いの匂いを嗅ぎ取ることができたのかもしれない。まったく互いから漏れるいやらしい匂いを。同族の。だが彼の匂いはより強烈だった。それは人に鼻をつままれ、嫌悪される。いつでも疎まれるような。黙っていると、そして話し出すと余計に。微妙な拮抗を崩し、あらゆる色を塗りつぶし。それでいつも居場所を失くした。自分では意図せずに。猛烈な匂いで。個性という名の。それだからもちろんうまくなかった。世の中を立ち回るのが。それにはあまりにも正直すぎた。そして不器用すぎたんだ。いつも馴染めなかった。あらゆる場所に。だから彼の神経はより鋭敏になっていった。周りのために。そして自分のために。それはすぐにでも折れてしまいそうな印象だった。
 
そのとき彼は渋谷のライブハウスで働いていた。そこは地下へと降りる細い階段にびっしりと告知のポスターが貼られていた。手書きのもあれば、綺麗に印刷されたものもあった。あらゆる大きさの。色の。形の。そしてメンバー募集の、ドラム募集の、ベース募集の。上から上へ塗り重ね。隙間なく。まるで終わらない念仏のように。長い階段に沿って。それから地下の扉を開けると暗い部屋の中で割れんばかりの音と、人間だ。うごめいている。ぎゅうぎゅうにひしめき。熱気に踊らされながら。うねりながら。拳を上げて。手をかざして。限界を超えた音と、数で。汗を、つばを、日頃の鬱憤を飛ばしながら。ステージに向かって。一体感を。痺れた頭で。安堵を。周りに合わせて。乗り遅れることがないように。その波に。隣の歓声に。リズムに。声に。熱狂に。必死で心をつなごうとして。音を通じて。擦れ合う肌で。最後には全くの孤独を感じ。この圧倒的な量の人間の中で。
三神さんはステージの脇でアンプの調整をしていた。それからバンドが変わる度に、忙しそうにマイクスタンドを出したり、照明の角度を直していた。私はタイミングを見計らって彼と二言三言話した。だがもうそれ以上は続かなかった。この音量だ。耳を近づけて叫んだって聞こえやしない。闇の中で彼の特徴的な目がくっきりと浮かんでいた。そこには疲れと、微かな意志が漂っていた。それから彼はおもむろにステージ上を見つめていた。そこでは一人の若者がマイクを握って叫んでいた。闇に埋もれた聴衆を見つめながら。スポットライトを浴びて。だがそれは、彼の視線は、そしてそれを見つめる我々の視線は、決してどこへも辿り着かなかった。まるで幻影を追い求めるかのように。その先は完全な虚空だった。全くの虚無だった。いたちごっこだった。ただ無限に吸い込まれてゆくだけの。私は一瞬でそれを悟った。歌い手の情熱的なその目で。そして同時に寂しさを感じた。両肩に。落ちてきた。どしんと。それから三神さんは片手を上げると仕事へと戻っていった。明るいステージの照明に隠された、暗いカーテンの裏側へと。それからしばらくして私は扉を開けて出ていった。
 
それから半年程過ぎた頃、突然夜中に三神さんから電話がかかってきた。それは金の話だった。必ず一週間後に返すから、金を貸してもらえないでしょうか?彼はそう言った。我々はまだ敬語で話していた。そのときも、それからもずっと。客と美容師の間柄が抜けなかったんだ。だがあいにく私も金なんてなかった。まったくもって。逆さに振ったって。だが私は彼を助けてやりたかった。だからしぶしぶ了承した。すると彼は翌朝取りに来た。私の仕事場の前までわざわざやってきて。細い体がもっと細く見えた。よっぽど切羽詰っていたんだ。
彼はそこらじゅうに借金をしてるみたいだった。だが詳しくはきかなかった。彼の仕事場はもうしばらく前につぶれてしまっていた。千歳烏山のアパートも引き払っていた。それから彼は六本木の小さなバーで住み込みで働くようになった。オーナーは人使いの荒い人間だった。だが選べるほど彼には選択肢なんてなかった。そしてそれも長くは続かなかった。過度な要求に彼は潰されてしまった。オーナーと、金と、仕事の量と、惨めさに。彼は逃げるようにそこを後にした。そしてネットカフェをふらふらと彷徨いながら、残りの有り金がただ消えてゆくのを黙って見つめていた。昔の同僚も助けてはくれなかった。みんな彼のことんなんて忘れてしまっていた。たかだか青春の一ページなんて。ふっと吹かれて次へとめくれてしまった。そんなときだった。私に連絡がきたのは。それから彼は私の家に住みつくようになった。
三神さんはなんとかやり直そうと努めていた。だがそんな性格だったから面接もうまくいかないみたいだった。そして半ば諦めていた。いろんなことに。家で一日過ごすこともあった。私は帰宅する度に疲れが増した。とにかく彼に仕事を探してやることが先決だった。我々は求人誌をあさり、何か適当なものがないか一緒に探すことにした。そして私は手当たり次第に仕事を薦めた。あらゆる希望を提示して。だがそれは同時に自分の為でもあった。いわば私のエゴでもあったんだ。私の保身でもあった。私は自分の時間を確保しなきゃならなかった。それにはとにかく彼を追い出さなきゃならなかった。私が休むために。せんずりをこくために。私の小さな良心は限界だったんだ。こんな六畳一間じゃ。友情も黴が生えはじめていた。そしてそれはゆっくりと嫌悪に変わりつつあった。彼はそんな私の表情をじっと見つめていた。私の目を。私の話している言葉たちを。そこから漂う、よく知っている臭いを嗅ぎ取ろうとしていた。彼を今まで散々失望させた、その臭いを。だが彼にも自責の念があった。申し訳ない気持ちがあった。なるべく迷惑はかけたくなかったんだ。それでも、彼はどこに行けばいいかわからないかったんだろう。この広い東京で。たった一つの居場所さえ見つけるのに。あまりにも狭すぎた。自分の領域が。そしてあまりにも多すぎた。人間が。ひしめき合っていた。ばちばちと火花を散らし。自分の陣地と他人の境界線で。余裕のなさに。自分を守るために。差し伸べた手を噛まれるのを恐れ。火の粉を払い。その風圧で他人まで巻き込み。これだけの人間の中で、何故かそれぞれが孤独になっていった。
 
それからある日帰宅すると彼は行ってしまっていた。置手紙も何もなかった。ただ、彼が座っていたその重みで、ソファーがくっきりと尻の形に沈みこんでいただけだった。不在の証拠に。
そのとき私は買い物袋をぶらさげたまま、彼と行った千歳烏山のバーを思い出していた。それはまだ我々が出会った頃だった。その店は彼のお気に入りだったんだ。小さなビルの二階にあった。店内は全て木材で統一されていた。うねった太いの木の柱と、固い木の板の椅子、ごつごつとしたテーブル。天井にも丸太がはめ込まれていた。そこには「ビレッジヴァンガード」とロゴの入ったTシャツが貼り付けられていた。古い店だった。カウンターの向こう側では、ひと一人がやっと入れる程のスペースに、大量のレコードとCDに囲まれてマスターが立っていた。そこでは曲をリクエストすればなんでも聞かせてくれた。ジャズ、ロック、フォーク、パンク、ロカビリー、プログレ、フュージョン、サイケデリック、なんでもだ。そのときスピーカーからはマイルスデイビスの「カインドオブブルー」が流れていた。我々はウィスキーを一杯ずつ頼んでちびちびと飲んでいた。お互いにあまり酒は強くなかった。
「ここには学生のときによく通ったんです。」
そう言って彼はテーブルの上にグラスを置いた。テーブルの端には木製の荒削りな兵隊の人形が置かれていた。その帽子からチェコかどこかのようだった。兵隊は腕の中に紙と鉛筆を抱えていた。私はそれを物珍しく眺めていた。
「その紙に聴きたい曲を書いてマスターに渡すんです。そうするとそれをかけてくれますよ。何かありますか?」
私は首を横に振った。それからその脇に置かれた大きな箱の中からマッチを取って、それでたばこに火をつけた。
「マスターには色々と教えてもらいました。いろんな音楽を。僕も昔からよく聞いているほうでしたけど、ここに来てから自分がものすごく恥ずかしくなりましたよ。あまりの無知に。だから手当たり次第マスターに聞かせてもらいました。あ、あれ知ってます?グリフォン!プログレはあんまり聞きませんか?すごくいいんですよ。洗練されていて。PMFとか、キングクリムゾンなんかどうです?ジャズのほうが好きですか?僕はハービーマンが好きですね。フルートであれだけ存在感が出せるんですから。え、マイルスですか。もちろん好きです。昔はパンクロックばかり聴いていたんですけどね。それこそブルーハーツやゴーイングステディなんかです。中学生の頃は。あの頃は周りがみんな聴いてましたから。それからピストルズやラモーンズなんかも。」
それから彼はぎょろりとした目をこちらへ向けた。目玉が白目の中で浮かんでいた。それは目の中に全てを飲み込んでいるようだった。息や、味までも。好奇心でもって。頬に少し赤みがさしていた。それからまたグラスに口をつけた。私は灰皿にたばこを置いた。
「一度はバンドでもやろうとしたんですけどね。駄目でした。僕は聴くのが専門のようでした。それは趣味の延長でしかなかったんです。それにそれを金につなげることがどうしてもできなかったんです。その方法も。僕にはわかりません。レコード屋でもやればいいんでしょうけど。多分僕には無理ですね。少しでもそんな才能があったらきっとこんなことしてませんよ。ただ好きな音楽を聴いてそれで満足してるんです。ディスクユニオンでレコードを、こうやって、犬が土をかき出すみたいに、せっせと漁っているだけで、、、、、、。
母親に無理言って東京に来させてもらいました。ええ、調理師の専門に入って。学校なんてどこでもよかったんです。ただ東京に来れさえすれば。その頃はとにかく東京に行きたくて仕方がなかったんです。僕にも理由はわかりません。大阪じゃ駄目でした。東京じゃないと。専門学校は八王子にありました。二人一部屋の寮に住んで。はい、そのときにこの店を知って。それから週末になるとここへ来て。終電ぎりぎりまでねばりました。それから駅まで走って。学校を卒業してからは板橋の料亭に住み込みで就職しました。だけど、職人の世界ですから。厳しかったですね。本当に。毎日怒られましたよ。その頃は休みの日にこの店に来ることだけを楽しみに生きていました。そのためだけに生きていました。本当に。他に楽しみは何もなかったんです。繰り返し同じ毎日の中で。ただここで、一人で音楽を聴くことだけが、たった一つの目的だったんです。僕は本当は料理なんてこれっぽちも興味がなかったんですよ。そんなものはただの理由づけだけで。本当は、音楽だけを聴いていたかったんです。全く一人で。好きな音楽を。そう、まるでこんな感じなんですよ。音楽を聴いているときだけは。どろどろと溶けていくような。ヤク中みたいな。酒なんてまったく及びつかないほど。恍惚とした。そんな風に感じたことはありませんか?それからふと一瞬、世界の全てが静まり返るんです。まるで押し出されてしまったかのように。傍観するような。そこでようやく初めて聞こえてくるんです。自分の声と。それ以外と。」
    

      4


 
目の端から端まで空だ。青さだ。他には何もない。ぐるりと視線を移しても。淡い透いた水色が、形なく、何層にも重なり浮かんでる。均一に、そしてお互いに組み合って。瞳からはみ出してもまだ、続いてゆく。どこまでも。縦横へ、そして遠くまで。三次元的に。果てしなく。膜のようにすっぽり包み込み。目玉の輪郭に沿って。大空は。
風に乗ってすっと綿毛が横切ってゆく。空の少し高いところで。尾を引きながら。目的地へと向かい。おぼつかない足元で。駆けてゆく。水色のキャンバスの上を。動くものはそれだけだ。あとは静止画のように、沈んでいる。外へ向かって。沈み込んでいる。目線の先のほうへ。溶かしたようなその色が。じわじわと。染みこんでゆく。宇宙へ。放射されて、かろうじて地面とつながれながらも。緊張の酷薄さで。やがて景色も、沈んでゆく。全ての景色が。飲み込まれてゆく。圧倒的なその青さに。包括され、解き放たれて。柔和に、そして軽やかに。面の中へ細かい点となって。陽光と同じようにして。微かなささやきと共に。溶け合ってゆく。
 
 
私は今になって思い出す。いろんなことを。インドのブージで訪れた、地震で崩れかけた王宮のことを。アイナ・マハールという。そこにあった青い部屋を。実際には壁は白と緑だった。かつてのマハラナーはその部屋へ音楽家を集めて演奏させた。高い天井からはカラフルな釣りがね式のランプを灯して。部屋の中には正方形に掘り下げられ幅の広い溝があり、そこへ水を張った。その中央はまるで海に浮かぶ離島のようだ。そこへ一本の橋が渡っている。マハラナーは島の中央へ渡ると、用意された丸太のような長いクッションへと肘をつき、足を伸ばした。それから水タバコをくゆらせる。紫煙が顔を覆う。王を取り囲み、音楽家たちがそれぞれ太鼓や弦楽器を演奏する。奏でられた音は水面を打ち、部屋中にこだまする。涼しさを身にまとって。やがては天井へと昇り、煙と混ざり溜まりとなる。床に散った蝋燭の炎が水面で揺れる。艶やかに。岸の向こう側では、ほっそりとした女の従者がそろそろと歩いてゆく。等間隔に並ぶ柱に目隠されながらも。その隙間から王を見つめ。白い壁には彼女の影が移ろう。ゆらゆらと。音の調べのゆく方へと。
私はときたまその部屋のことを思い出す。まるで閃光が煌くように、不意にして。それは私のかつての友人達も同じことだ。今までの人生で出会った、名前も忘れてしまった多くの人々。メルボルンで出会ったフランス人のあいつは。クリスマスの日に、ご馳走を作るために50ドルもかけて買ってきたコニャック。それを料理前にほとんど飲んじまって。それから毎晩カジノで、誰かが忘れたコインを探し歩き。一緒になって。スロットマシンや、席の下を。そこのロビーでは2月になってもまだ立派なクリスマスツリーが飾られていた。それからあの中国人のカップル。ヒステリーな女。彼女は腹いせに足元のでかいナスを蹴っていた。あまりの暑さに。そして仕事のばかばかしさに。男のほういつだって女の言いなりになっていた。それはムーループナの農場でのことだった。狭い、個人農家の。送迎のドライバーはいつもピンハネしていた。彼女のほうが宿に着いてから私に言った。「あの韓国人の女、きっとあんたのこと好きでしょう?」。それはボニーのことだった。そういえばある晩、月明かりの下で我々は中庭に椅子を並べて音楽を聴いていた。ノラジョーンズを。ボニーのラップトップで。ビールを飲んでたんだ。風は町から既に熱気を運び去っていた。もうみんな寝ていた。我々以外。そして部屋へと戻る時間だった。私は別れ際に彼女へキスをした。女の体からすっと力が抜けた。そして次の日から、魔女が目を覚ました。私は首輪に鎖をつながれた。その宿にはいつも部屋で机に向かっている男がいた。韓国人の。たしかロビンっていう名だった。彼はことあるごとに言った。「私はいつか航空会社に就職するんだ!」。それは大韓航空でも、アエロフロートでも、ユナイテッド航空でもどこでもよかった。飛行機が飛べさえすれば。彼はいつでも夢見ていた。大空を。そしてエリートを。小さな電球の元で。
オーストラリアの空はとにかくでかかった。本当に。それは日本で見るよりも。確実に雄大だった。そこでは野菜も、植物も、人間も、そして空までもが巨大だった。遠くの空の端では黒雲が雷鳴を轟かせ、雨を降らせているのがくっきりと見えた。その境目まで。夕焼けには七色の層が。朝焼けの地平線が。どこまで行っても畑だ。果樹園だ。そして乾燥した砂漠だ。ワゴン車の窓からは空を背景にして、綺麗に区画された植林が延々と、まるでロール紙みたいに続いていた。ずっと。そして目の前には日焼けした黒い肌。すっかり疲れて眠ってしまって。誰も彼も。ベンも。セリナも。泥で汚れ、汗にまみれ。また明日もあるんだ。仕事が。夜明け前から。朝もやの中でたばこと、白い息を吐きながら。広大な畑で。梨を摘み取り、胸元のバスケットへと。太陽が傾ぐまで。東洋人の小さな体で。眠れ。今はただみんな。泥のように。今だけは。不意に私は日本の夏を思い出していた。花火の臭いと、祭囃子の音色を。あの、瑞々しく、緑豊かな夏を。窓の外の乾いた大地を眺めながら、私は思い出していた。
リオは、あいつは嫌いだった。自分の国が。「そんなもの、ただ地図上の線に過ぎないじゃないか」。彼は韓国人だったから余計にそう思ったのかもしれない。48度線で。私は反論した。日本の、桜や、夏祭りや、月見を誇りに思っていた。豊かな情緒を。彼はそんなものよりも科学に興味があると言った。合理主義だ。フロンティアスピリットだ。アメリカ式の。ロケットでもって、月まで開拓したいんだ。彼は去り際に、私のことを「エモーショナル」な人間だと言った。ヒュウは違った。同じ韓国人でも。リオとは対照的だった。ある日、私は彼と郊外まで仕事を探しに行った。ヒュウの車で。後部座席には彼のギターが詰まれていた。スピーカーからはミューズが。フロントガラスの向こう側には抜けるような青い空が広がっていた。そしてどこまでも同じ景色。乾燥した大地と、まばらに生えた木。ヒュウは一旦車を止め、地図を見て目的地を確かめた。それからまた砂利道を走らせた。私は助手席で、足をダッシュボードの上へ投げ出していた。我々は同じ誕生日だったのだ。私はそのことにひどく驚いた。だが彼の視線は変わらず前を見つめていた。眼鏡の向こう側で。それから窓の外に広大なブドウ畑が見え始めた。背の低い、ひねくれた木々が。流線型の丘に沿って。やがて立派な一軒屋が見えた。我々は車を降りて玄関へと向かった。太陽が一斉に降りかかってきた。
ハロー!
エクスキューズミー!
家の中から返事はなかった。ただ、一匹のチワワが駆け足でやってきて、玄関の網戸の向こうで舌を出しながら尻尾を振っていた。家の中からはひんやりとした空気が漏れてきていた。その家は新築だった。壁や床はつるりとして、午後の光を反射していた。我々は待った。足元で犬がぐるぐると輪を描いていた。そして再び声をかけた。
ハロー!
エクスキューズミー!
しばらくしてようやく奥から人がやってきた。年をとった大きな婦人だった。膨らんだ腹をだぶだぶのグレーのTシャツで隠し、足元はビーチサンダルで。彼女はまるでご近所でもやってきたかのように私達に接した。それから訪問の趣旨を読み取ると、首を横に振りすぐに奥へと引っ込んでいった。これでまた振り出しだった。クーラーの冷気を背中に感じながら、私達は車へと戻った。
それから海へ行ったんだ。海岸から少し離れたところへ車を止めて。急な斜面を駆け下りて。砂が靴の中へ滑り込んだ。浜辺に人はいなかった。アルバニーは元々観光客なんてあまり来ない場所だった。特にその時期には。別に海に来る理由なんてなかった。ただ、私達には金の代わりに時間がたんまりあっただけだ。浜辺には波がゆっくりと押し寄せていた。白い飛沫を上げて。我々はそれぞれ浜辺を歩いていた。波の向こう側では海が、まだその本来の色を保っていた。深い紺碧をその懐に抱えて。そして頭上にはあの空が。
 
 
私はそのとき一人の友人のことを思い出していた。彼と、彼の描いた絵を。
蒼児という名前だった。彼は元々絵なんて大嫌いだったんだ。だが、あるときから突然気が狂ったみたいに絵を描き始めた。長い髪を後ろで縛り、いつでも紫のTシャツにグレーのコーデュロイパンツという格好だった。そして胸にはラピスラズリのネックレスをして。我々はその頃一緒に住んでいた。高井戸の家賃7万円のアパートで。二部屋と小さなキッチンがついていた。お互いの部屋の壁は薄かった。ため息まで聞こえてくるほどに。
彼の父親も画家だったんだ。しかも売れない画家だった。そして酒を飲んでは暴れまわった。母親に手をあげて、さんざん家のものを壊し。押入れから台所から、あらゆるものを滅茶苦茶に引っ張り出してきては片端から外へぶん投げた。父親は亡霊にとり憑かれていた。生活苦と創作の十字を背負って。合わせて自身の源泉の衰えに。止まらない借金の車輪。母親はそれでもじっと黙っていた。忍耐に忍耐を重ねて。彼女はそれから散らばった家財道具を拾い集めに外へと出て行った。震える胸を押さえながら。幼い蒼児はその様子を襖の陰からじっと眺めていた。そして開いた玄関から外へ駆け出していった。母親を手伝いに。それでもまだ家の中からはクソ親父の叫び声が聞こえていた。まるで悪魔が啼いているかのような。三叉の矛の代わりに一升瓶を片手にして。さんざんわめき散らしてから、ようやく父親は自分の部屋へとふらふらと消えていった。それから母子には束の間の静寂が訪れるのだった。また数時間後のやってくる嵐を迎えるための。蒼児の少年時代は正にその暴風の連続だった。母親はいつだって金策に明け暮れていた。身を粉にして働いて。だがそれでも信じていたのだ。夫の才能を。しかし子供にとってはそんなものどうでもよかった。彼には父親の才能よりも絵よりも、菓子が、飯が、そして何より愛情が必要だった。だから彼にとって父親とは憎しみの対象でしかなく、また絵画も、画家も、絵を描く行為自体がそれとつながっていた。
彼と一緒に住むようになって随分経ってから、私はその話しを聞いた。彼自身も、それはあまり人に話したくないようだった。ぴったりと蓋をして、できれば思い出したくもなかったのかもしれない。だがそれと反比例して、それは年を経るごとに彼の中で増殖していった。少年時代にたっぷりと詰め込まれたあらゆる激情は。父親の叫び声や、母親の涙は。そして床に放り投げられていた、いくつもの描きかけの絵が。忘れようとしては、どんどんと蝕んでいった。彼の心を。そしてそれはもう限界だった。必死で押さえつけていた蓋から、中身がこぼれ出してきてしまっていた。ひとりでに増殖し、腐臭を発し、形崩れた思い出たちが。それでも彼は何とか押さえ込もうとしていたに違いない。あらゆる手を尽くして。昔の名残の作り笑いでもって。だが遂にそれは決壊してしまった。そして彼は絵を描くようになったのだ。揺れ動く自分の魂を鎮火させるために。きっとそれ以外術を知らなかったのだろう。皮肉にも父親と同じように。
 
ある晩私は寝床へと入ると、隣の部屋から声が聞こえてきた。薄い壁を通して。蒼児が何かを一人でぶつぶつと言っている。私は眠りへと落ちる前だった。だが彼の声が気になって眠れやしなかった。
「ちくしょう、ちくしょう。」
小声でそう聞こえた。私はじっとしていた。息を殺して。布団にくるまって。それから彼がうろうろと部屋を歩き回る音が聞こえた。まだぶつくさ言っている。
「くそったれ。もういい加減にやめてくれ。。。。。。」
それは随分長く続いた。彼の口から漏れ出る呪詛が。言葉にならない言葉達が。それは次第に語気を荒げ、激しくなっていった。私の心臓は早鐘を打った。彼は気違いになっちまったんじゃないか。そう思った。だがしばらくそのまま聞き耳をたてていた。体が硬直していた。まるで金縛りにでもあったみたいに。緊張が壁を通して部屋へと伝わってきた。それは何かが起こる前の、あの緊張感だった。
突然物が倒される音が聞こえた。その衝撃で、隣の部屋の床の上で何かが割れて散らばった。
「くそっ!くそっ!もうたくさんだ!こんなこと!気が狂っちまう!」
彼はそう叫んだ。そしてありったけの力で足元に転がるものを蹴りまくっていた。描きかけの絵や、画材道具や、空のカップラーメンなんかを。ビニール袋の中のティッシュが散らばり、底に牛乳のこびりついたコップが割れた。床に散在したポロックやボッシュの画集が蝶のように飛んで壁へと叩きつけられた。キャンバスに向かったパイプ椅子を持ち上げると、彼は尚も荒れ狂った。そしてベッドの布団へもって、散々それを叩き付けた。振り上げた椅子は天井の電球を勢いよく割った。コードがぶらぶらと揺れ。それから椅子を思い切り投げつけた。それは壁にぶち当たり、巨大な震動となった。それでも彼はおさまらなかった。なんでもかんでもぶっ壊すつもりだった。奇声を発して。獣のような叫び声で。そして泣きながら。
私は驚いて立ち上がると部屋を飛び出た。そして血相をかかえて隣の部屋の扉を勢いよく開けた。
「おい!どうしたんだいったい!」
闇の中で彼は尚も暴れていた。手足を縦横に振りかざし。月明かりが薄く部屋の中へ差し込んでいた。蒼児は体中から血が流していた。ガラスや木片で切っちまったんだ。部屋の中は見る影もなかった。無残なものだった。まるで地獄絵図だった。薄明の中で、それは余計異様な光景として私の目に映った。堆積した瓦礫の中で、彼は尚も踊っていた。長い髪を振り乱し、踊り狂っていた。闇の中で。割れんばかりの声で。体中血まみれで。頬の涙が月の光でうっすらと輝いていた。
「俺は殺しちまう!俺は殺しちまう!奴を、奴を、俺を、俺自身を!」
蒼児はベッドを引きむしった。綿が飛ぶ。空中を。それは羽のようにさんさんと部屋の中を舞った。それからむき出しのベッドの骨組みを、がんがんと拳で打った。拳の皮がめくれていた。それでもいつまでも、いつまでも、彼はそうしていた。うずくまり、何度も、何度も。やがて風船がしぼむようにして、声は遠ざかっていった。嵐は止んだ。彼は消え入りそうな声で小さく丸くなって泣いていた。かみ殺すようにして。しゃくりあげながら。空中を舞っていた綿の最後が床へはたと落ちた。
「蒼児、おまえどうしちまったんだ、、、、、。」
そう言って私はしばらく呆然と立ち尽くし、それから足元に注意してそっと部屋へと入った。ガラスの破片が足の裏を貫き、口元が歪んだ。足の踏み場もなかった。だが縫うようにして私は彼の元へと辿り着いた。彼は無言のまま泣いていた。まるで私の存在には気づいていないかのように。そして溢れ出る涙を必死に押し留めようとしていた。渦巻いた激情の中で。憎しみや、悲しみや、苦悩の応酬を。たがが外れてしまった理性の元へ、必死に辿りつこうとしていた。闘っていた。過去と、現実と、自分の恐ろしさに。胸元からぶら下がる石をぎゅっと握り締めて。私は彼の肩にそっと手を置いた。体は冷たかった。
それから蒼児はよろよろと立ち上がると最後の力を振り絞るかのように、ネックレスを首から引きちぎり、思い切り床へと叩き付けた。夜空が割れる音がした。甲高い、悲鳴にも似た声で。真っ青なラピスラズリの破片が部屋中に弾けとんだ。入り混じった金色の鉱石が闇の中できらきらと輝き。そして、乳白色の欠片が宙を舞い。鮮やかなウルトラマリンが、飛び散っていった。粉々になって。最後の吐息が蒸発するようにして。ごった返した世界の中へ。解き放たれていった。
彼はうつろな目をして、しばらく呆然と足元を見つめていた。砕け散った石の破片を。まるで、いなくなった彼の心の一部のように。それは水中へ投じた一石の波紋が永久に時を止めたかのように、粗野な闇の中でその鮮やかな青色だけが潔く映えていた。
「おまえ、それ母親にもらった大事なものじゃなかったのか。」
私がそう言うと、彼はしばらくしてからこう答えた。
「いいんだ。もう。それに元々親父のもんだったんだ。これは。親父が最後まで使うことができなかったんだ。この色だけは、、、、。」
 
 
それから一年後に、私は蒼児の実家の部屋で彼の絵を見ることができた。それは壁を覆い尽くす程に巨大な作品だった。
画面いっぱいに塗りこまれた濃い、突くような青色。何度も何度も繰り返し、繰り返し、重ねて塗られ。まるで息切れがするまで、何度も。その色はところどころ擦れてしまっていた。そこへ散りばめられた細かい黄金の砂。埋没したようにして。鈍い輝きを放ち。淡い乳白色の霞みがそっと漂っている。画面を縦横に。流れるようにして。まるで天の川のように。深海のプランクトンのように。だがとても薄く。微かに見えるか見えないか。そして下方には、めくらの提灯アンコウが描かれている。目をばってんに縫われて。消え入りそうなともし火を頼りにして。広大な空間の中で、行き先を求めて彷徨っている。目の前の自分の放つ光すら、見ることもできずに。その輪郭は周囲の色と同化するようにして、かすんでぼやけてしまっていた。そして画面全体を覆うそれら全ての調子が、濃厚さを通り越して、曖昧さとなってしまっていた。不器用なざらざらとした手触りの。使い古した木片のような。幾重にも筆を重ねて、そしてまた削られて。それは彼の苦悩そのものだった。彼は闇の中にいた。すっかり埋没してしまっていた。決して光の差し込まない、海の底へと。無音の真空へ。夜空の彼方へと。息を吸うことも忘れ、ただ漂っていた。瑠璃色の世界を。そしてその色は、彼が砕いたラピスラズリの色だった。
 

 
波が全てをさらっていった。遠くへ遠くへと。細かい飛沫を上げ、轟音と共に。渦巻いたその両腕で。散らばった世界のかけら達を。彼らはそれぞれに解き放たれていった。昔のしがらみから。そして、新たな産声を上げ、蒸発していった。歓喜に包まれながら。彼らは新たなステージへと進んでいった。それぞれの。そこでまた波にさらわれぬよう、強固に手をつなぎ、もつれ、絡み合い、必死に戦っていた。恋人や、家庭や、子供や、金や、仕事や、過去や、未来なんかと。自分の部屋だけでは狭すぎた。空や、海に解き放たれる必要があった。もっと広大な世界へ。そして流されぬよう、風にさらわれぬように、我々は手を取り合う必要があったんだ。だが、あまりにも不器用すぎた。そしてあまりも身勝手すぎたんだ。そしてまた波が。扉を押し破り、私の牙城はもろくも崩れ去っていた。私のごうじょっぱりな思想は、私のちっぽけな領地は、あの部屋とともに波が全てさらっていってしまった。あらゆるものを巻き込んで。擦り切れた音楽や、破れかけた本と共に。必死に飾り立てた額縁、馴染んだ椅子、磨き上げた台座。もう何も残ってはいなかった。色々な場所を彷徨ううちに、私はそれらをぼろぼろと落としていってしまった。重ねられた古い扉ははぎ取り、分厚い皮を剥ぎ落とすようにして。世界中のあらゆる場所で。インドの路地裏で。イスタンブールのホテルの枕元へ。カオサン通りに。マーガレットリバーの図書館に。プロブディフの石像の槍先に。そして東京の狭い住宅街で。街灯の下で。善福寺川沿いに。下北の一番街に。放たれた多くの言葉の端に。そして反対に、閉ざされた口の奥底に。飲み込まれた多くの言葉達は、臓腑の静謐な水面へと、ぽちゃんと落ちた。いくつも、いくつも。波紋を広げながら。それはやがておおきなうねりとなって波を形成し、加速度的に勢いを増し岸辺へと向かった。怒涛のように。重なり合った咆哮で。勢いを増し、一直線に。大きく弾け跳ぶために。広大な空へ向かって。
誰もが青い炎へ必死に火をくべながら、進んでいった。それぞれの方向へと。私を軸としてではなく、それぞれのちっぽけな宇宙を軸として。舵を取り、雄大な大海原へと。岸辺を蹴り、期待に胸膨らませ、あるいは絶望に打ちのめされながらも。私はその後ろ姿を見送っていた。遠く、泡のように消えてゆく彼らを。押し寄せる波の、輝きを放つ飛沫の間に。

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