ニュージーランド55日紀行 52/55 「生まれ変わる」とき
今日は、知り合いの知り合いが、海でクリスチャンの洗礼を受けるということで、その儀式に参加してきた。
青い海が広がる素晴らしいロケーション。
周りは夏のビーチを満喫中の人々がきゃっきゃと楽しむ中、行われた洗礼のセレモニーは、端から見たら、あの服を着て海に入っている人たちは何だろう、と不思議がられるような光景であったが、誰も気にとめていないところがニュージーランドらしく、平和に時が流れていた。
思ったよりも淡々としたものに感じたが、きっと洗礼を受けた方にとってはすごく人生において大きな意味をもつ儀式に違いない。
水から出てきたその人の表情には、生まれ変わるという洗礼の持つ意味の通り、新たな決意を兼ね備えた清々しさが浮かんでいた。
「生まれ変わる」という経験は、どんな人であっても人生の過程での大きなポイントだと思う。
リセットであり、リスタートであり、今までとこれからを見つめる点でもある。
どんな風に生きても、特定の宗教に属していなくても、何をしてても、きっといっぱい人生にはそのポイントが訪れているんだろうな。
喜ばしいこと、辛いことに関わらず。
「生まれ変わり」というと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、人生のどのタイミングで、何に焦点を当てて、何に気づくかで、それはただの日常にも成りうるし、気づかれない一場面に過ぎないものとも成りうるし、人生の重要ポイントにも成りうるのだろう。
私自身は、今のところ洗礼を受けるとか、特定の宗教に入信するとかはなさそうだけれども、「生まれ変わり」を考えたときに、そのきっかけに気づく精神を持ちたいなあ、と感じる。
結婚もそうだったし、出産なんかまさに生まれ変わりのチャンスだったな。産みの苦しみなんて言うけれど、母親になるということはすごい生まれ変わりだった。なったばかりの頃は苦しくて仕方なかった。
きっと、色んなことがうまくいっていて、ああ幸せ!って思うときも、あるいは何もかもがうまくいかずに、ああ死にたいなんて思うときも、自分の生を見つめ直すチャンスなんだろう。
今なんかも、揺れ動くハイ&ローの中で、確実にこれは私に与えられた生まれ変わりというチャンス。ここをどんな風に位置づけるのかは、正解のない「わたし」という与えられた一生の中で私が持つ自由なんだ。
「正解のない」というのが、巡り巡って、きっと「正解しかない」になる。だって、自分がそれを正解と決めれば、それは正解になるということなんだもの。
結局突き詰めれば、「一日一生」で、毎日生まれ変わっている、一瞬一瞬を、マインドフルに過ごす、という仏教的な教えにも繋がるんだろうな。
うーん。深いなぁ。
シンプルなのに、複雑だなぁ。
そう、感じる私が居るっていうだけなんだろうなぁ。