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『ぼくとバク。』37 夢世界

橋の中腹で夢絵は向きを変えた。バクの絵が描かれた面を縦にして、まるでショートに立ちはだかっているよう。
「どうした?」
夢絵に合わせてショートも足を止める。疑問を口にしただけのはずが唇は小刻みに震えていた。呼吸に合わせて上下する胸も少しだけ強張っていることに気付く。
目の前で通せんぼしたままの夢絵は上の二辺を軽く丸めて捻じれてみせた。捻れが真っ直ぐに戻った薄墨のバクの絵は薄まっているようにも思えた。その姿に、ショートはうなづいて答える。
「この先に入れば戻ってこられなくなるかもしれないってことは……分かってる」
それでも目の前の夢絵は右上を丸めてさらに懸念を示した。川の流れる音が耳の傍に聞こえてくる。
「川の向こうに連れて行ってくれ」
ショートは怒気を込めて強い口調で言った。しかし、夢絵は上半分を左右に振って拒み続ける。ショートは唇を噛み締めて手を下ろした。
バクに会って兄を取り戻す。強い気持ちを持ってここまで来たのに、おばばに会った時、心の奥底にしまいこんでいた恐怖心が少しだけ顔をのぞかせていた。それは橋を渡ってから少しずつ胸の内を侵食し始めていたようで、今のショートは唇の震えを誤魔化すことが出来なくなっていた。
夢絵は心の恐怖を見抜いていたのか。ショートは悔しい気持ちから下を向く。そして視線を落とす中で足元の違和感に気付いた。うっすらと足元の橋板の向こうに川の流れが見える。橋が消え始めているのだ。渡ることのできるタイムリミットが近づいていた。
「頼む!俺はバクに会って兄貴を取り戻さなくちゃいけないんだ」 
ショートは両手を合わせて頭を下げた。胸の内には焦燥感が湧き上がっていた。せっかくここまで来たというのに何も出来ずに引き下がるわけにはいかない。夢絵はついに根負けし、渋る様子を見せながらも折れてくれた。身をひるがえすように道を開けた。
「さあ、急ごう」
ショートの掛け声に合わせて夢絵が絵柄の面を上に向けた。彼の握られた両拳には自然と力が込められている。
橋を渡りきり最後の一歩を地面につけた時には川の水面がはっきりと見えるぐらいになっていた。振り替えって橋を見渡すと、広い川の上にあっという間に消えていった。
「ありがとう」
真っ直ぐ前を見つめたままショートはそう告げた。夢絵はショートの視線の高さに降りてきて、一片を丸めて返事をしてくれた。律儀な夢絵の姿にショートの口端が上がる。
橋の消えた川を背にして彼らは立ち止まることなく進んでいく。水が流れる音が聞こえなくなった辺りで夢絵は電気が走り抜けたように異常な反応を起こした。それはまるで透明な壁にぶつかって頭のてっぺんから足の先まで痺れが伝わっていくようだった。
一瞬の衝撃の後、地面に落ちて夢絵は真横のまま動かなくなってしまった。その様子を見てショートは唾を飲み込んだ。
夢絵の反応はパピヨンとの領域の境を表していた。いよいよパピヨンの領域に入る。ショートは一度大きく深呼吸した。そして、慎重に足を踏み出す。
たった一歩の距離であるのに空気の明らかな違いを肌身に感じた。重苦しく物寂しい雰囲気が全身に降り注ぐ。ショートは再度呼吸を整えて強く拳を握り直した。意志を強く持たなければ灰色の雰囲気に呑まれてしまう。
白く平らだった地面も草が生えたでこぼこの砂利道に変化していく。数歩先には陰気な森が広がり始めた。上半分をひるがえして尋ねる夢絵にショートは黙ったまま頷きで合図した。目の前には行く手を阻むように荒れ放題の草木が広がっている。葉は目線の高さまで垂れ下がり、地面から伸びる草々は膝丈まである。人の手が全く入っていないジャングルのような森だ。しかし、ショートが想像するジャングルと決定的に違う所があった。この森からは自然の生き生きとした様子を見ることができない。閑散としていて何の物音もしない。テレビで見た探検隊が進む森なら、小鳥のさえずりや虫の鳴き声など、生き物たちの活動が聞こえてくるはずだ。この森は生き物の存在を確認するどころか、自身の草を踏み倒す音だけが冷たい空気を震わせるだけ。まるで森自身が生きることを止めてしまったよう。
死んだ森をショートと夢絵は進んでいく。霧が立ち込めていて前方ははっきりしないことも手伝って彼の胸の内にはまだ焦燥感が居座り続けていた。
前を行く夢絵が恐怖から微振動を繰り返す様子にショートの神経も強ばり張り詰められていく。
「やぁ」
耳鳴りが響く中に陽気な声が割り込んできた。咄嗟にショートは夢絵をTシャツの下に隠した。突然のことに夢絵は少しだけ暴れたが、すぐに大人しくなって腹と同化してくれた。木陰から紫色のウサギが顔を出したのだ。

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