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私はようやく自分の人生の櫂を手にしたのかもしれない



私のフランス人夫のことを、アスペルガーだとか野獣だとか、思う存分このNote で揶揄して憂さ晴らしをしていますが、今回は、夫についてではなく私自身のことについて話してみようかと思うのです。少し長くなりますが、どうして私がこのタイトルを選んだのかを、最後まで読んで感じて頂けたなら嬉しいです。


もうご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は今Youtubeに自分のチャンネルを作り動画をアップしています。レシピ動画をアップしていた初めの半年間は、登録者もほとんど増えなくて不安なまま投稿を続けていました。でも、パリの街角に出てお店や蚤の市などを撮り始めた頃から、ようやく少しづつ登録者が増え始め、どうにか収益化までこぎ着けることが出来たのです。世間でYoutuberと呼ばれる仕事です。でもその言葉から皆さんが想像するような華やかなものでは全くなくて、赤字で苦しい中、眠る時間を削りながら編集作業をコツコツ続け、定期的に動画をアップする地味な仕事なのです。


正直、かなり大変な作業です。そして、私の住んでいるここフランスでは、微々たる収入の中から、私にとってはかなりの割合の税金を支払わなくてはなりません。また、動画を撮り続けるためには、その機材も揃えなくてはならないのです。毎回、視聴者に面白いと思って頂ける動画を撮るためには、どうしても避けられない出費もあります。でも、現在の収入額では、それらを経費で落とすための手続きに掛ける資金さえ捻出出来ませんので、そこはぐっと我慢。動画で得た収入は全て動画を撮るために消えてゆく、Youtuberという名前からの華やかなイメージとは裏腹な生活を送っているのです。


と、悲しい実情を語っていますが、今回私が話したかったのは愚痴でもなければ、厳しい実情を訴えることでもありません。むしろその逆。動画を作ることに出会えたことと、あれだけここで憂さ晴らしをしている夫と出会えたことへの感謝の気持ちなのです。


私は現在61才。還暦も過ぎ、体もきつくなって来始めて、これからの人生はおまけと考えなければならない年齢になってしまいました。子供の頃の1年はあんなに長かったはずなのに、人生はいとも簡単に、あっと間に過ぎて行くものなんですね。


そんな慌ただしい人生なのに、今でもふと立ち止まってしまう思いがあります。


「自分の生まれた環境が違ったら。」

「あの時あの人がこうしてくれたなら。」

「親がこうだったなら。」


そんな思いです。

悲しいかな、ほとんどの人間は、煩悩たっぷりに他人と比べることで自分の人生のレベルを計っていて、私ももちろんその1人。仕方がありませんよね。それが人間なんですから。


私もこの年齢に至ってなを、親がもっとこうだったなら、とつい考えてしまいます。これは、一生逃れられない思いなのかもしれません。この世の中には恵まれた人達が、うらやむような生活を送っているのは事実。ダイエット中に、目の前で美味しそうにケーキを頬張っている人を見せつけられるようなものでしょう。これは辛い。


さて、今回お話したい私のことを。

私の両親はどちらも末っ子。母は、会津の農家に生まれ、3人の兄に囲まれたたった1人の女の子。一人暮らしも仕事すら一度もしたことがないまま、母が20才の時に父と見合いで結婚。世の中のことなど何も知らない、わずか20才の年齢の母と25才の父。その両親の結婚後すぐに生まれたのが私です。


世間知らずの若い両親です。子供というものは、ご飯を食べさせていれば勝手に育ち、将来、自分達の面倒をみてくれる存在、と考えていたとしても不思議ではありません。あの時代の田舎町の片隅で、学も経験もない末っ子同士が突然親になったのですから。


子供の頃の私は、やせっぽちでいつも真っ黒に日焼けしているおてんばな女の子でした。遊び相手はもっぱら男の子。しょっちゅうあちこちケガをして家に帰って来る私が「痛い」と言うと、母は「本当に痛いの?本当に本当に痛いの?」と怒ったような顏をして私に問いただしたのです。今になって思えば、きっと母もどうしていいのか分からなかったのでしょう。でも、幼かった私にとって痛みを訴える度、母が怒ったような困ったような顏をするので、痛みを訴えることに罪悪感を感じるようになりました。骨折をした時も、中耳炎になった時も、痛みを堪えて、でもどうしても辛くなった最後にようやく「痛い。」と言えたのです。



そして今度は私の父。父を一言で表現するなら、短気な人。今でも私の記憶に残っているのは、ほうきや棒のようなものを持って、うずくまる母を殴っている父の姿。そして、茶碗が私の横を飛ぶ大げんか。茶の間のふすまには、アニメの巨人の星のあの一家のように、父が食卓をひっくり返した時のシミ跡が。そんな父に、私も何度も殴られた記憶があります。でも、あの昭和の時代、そんな家族の情景は珍しくもなんでもない、きっとよくあるありふれたものだったのでしょう。


そして、今でも私が「親がこうだったなら。」という思いで立ち止まってしまうのは、実はこのことではないのです。


その時、私は高校生で、両親と私の将来や進学の話になりました。

その頃の私の一番の興味はお菓子を作ること。製菓学校へ進学したいと言った私に、父が返した言葉は、


「家にはそんなお金はない。女の子は勉強なんかすることはない。近所の工場に務めて家にお金を入れて、いい人と結婚して、早く孫を抱かせなさい。そして将来はお父さんとお母さんの面倒を見なさい。」


でした。

父のいうような、そんな将来のいったいどこに私は希望が見つけられたといいうのでしょう。


好奇心が旺盛で、したいことへの夢であふれていた私は、この会津から出て行かない限り、将来の希望はないと思いました。進学が無理ならば東京での就職。製菓の学校に行けないのなら、お菓子屋かパン屋への就職。今でこそ、パティシエいう職業名が存在しますが、その当時はそんな横文字の職業などなく、あるのは菓子製造業かパン製造業でした。

そしてようやく、ある東京のパン屋への就職が決まった私は、希望に胸を膨らませながら、あの日、1人電車で東京へと上京したのです。ですが、そこには全く予想も出来なかったことが私を待ち受けていました。


都内に数店舗の支店を持つそのパン屋。私はそのうちの1つの支店への配属されました。ところが、私の担当が希望する製造ではなくて接客担当だったのです。一体なんのためのパン屋の就職だったんだろうと、泣きたい思いで毎日寮からバスで通勤していました。そしてある日。。


通常2名体制の接客担当。店長のかなり年下の奥さんと私とで2人体制になることが度々ありました。その店長の奥さんは、18才の私とさほど変らないまだ20代の初め。店長にとっては、かわいくて仕方のない奥さんだったのです。その奥さんは、あまり話す人ではありませんでした。私は奥さんに言われるがまま淡々と仕事をしていました。ところが、仕事を終えて帰った後の店長と奥さんの食卓では、奥さんの愚痴が止まらなかったそうなのです。


「あの子は私が言ったことをすぐやらない。私の言うことなんか聞いてくれないのよ!」と泣きながら訴えていたのだと。それを私が知ったのは、翌日の店長の怒鳴り声でした。

その日の朝、いつものようにパンを抱えて店にやって来た店長がドアを開けるのと同時に、


「お前は何やってんだよっ!!あいつが家で泣いてるんだよっ!お前が言うことを全然聞かないってよっ!」


と、私に怒鳴ったのです。


奥さんが私に直接不満を言うことは一度もなかったので、私にとってははまさに寝耳に水。朝の耳に怒号です。そしてそれは、その日から毎朝続くことになったのです。

ここでは詳しく書きませんが、店長は昔、柔道をたしなんでいたとかで、かなりがっしりした体形でした。そして趣味がオペラを歌うこと。柔道で鍛えた体格とオペラで鍛えた喉で怒鳴られることが毎日の仕事の始まりになったのでした。そして、それに加えて最悪なことが。


東京に出て来てすぐから、私は劇団巡りをしていました。

小学生の時に、学校の100年祭のための演劇でクラス代表として選ばれて以来、演じることが大好きになった私は、劇団にはいることを決めていました。毎日の怒号から始まる辛い仕事が終わると、劇団を探すために一目散に出かけてたのです。ほとんどの劇団の練習は、平日の夜間。今のようなインターネットはもちろんなかったし、携帯電話もまだ存在していない時代。演劇の雑誌で住所を調べて訪ね歩いていました。仕事が終わって夜になると寮から出かけて行く私を見た店長が、私に行先を訪ねて来たのです。すると、


「大事な娘さんを親後さんからお預かりしてるんだ。1人で行かせるわけには行かない。僕も一緒に付いていく。」


と言ったのです。。


18才の田舎娘の私に、恐ろしい店長の提案を上手く断る知恵などありませんでした。仕方なく一緒に出掛けたその夜のことです。新宿駅近くの暗い公園を2人で並んで歩いていると、突然、店長が私を抱きしめキスしてきたのです。。吐き気がこみ上げました。どうにか店長を突き放して、


「1人で行きますから!」

と、急いで走って逃げた記憶だけ残っています。



毎日相変わらず店長の怒鳴り声で始まる一日。そしてある日、店長が、


「お前、姿勢が悪いな。上の休憩室に来なさい。整体してやる。柔道してたから得意なんだ。」

と。


恐ろしい店長の命令です。私は、畳みが敷かれた休憩室に横にさせられ、首を回され、腕を伸ばされ「整体」をされたのです。毎朝の怒り声に加えて、今度はその整体。辛くて辛くて、毎朝泣きながら通勤しました。反対を押し切って田舎を出て来た私は両親に相談することも出来ず。。ついに耐えられなくなった私は、ある夜、友人の手を借りてその友人の家へと逃げ出しました。夜逃げしたのです。


これが私の人生の初めての大きな転機でした。


“会津の両親にこれが知れたら会津に連れ戻されて、もう二度と私は東京へ出て来ることは出来ない”、そう思った私は親には何も知らせませんでした。つまり家出です。そして、“こんなことをしでかした私は、もう一生両親に合わせる顏はない”と覚悟したのです。


生きるためにはお金を稼がなくてはなりません。いつまでもその友人の家にいるわけにもいきません。洋服屋のバイト、フィリピンパブのお運びのバイト、喫茶店でのバイト。やれそうなことはなんでもしました。そして、その頃知り合った彼と一緒に暮らし始めました。

その頃から、親に顔向けできないことをしでかした、という罪悪感から、精神的に落ち込んで外に出れなくなりました。一日中炊飯器を抱えて一気に5合のご飯を食べ尽くしたり、死んでしまいたいと何度も考えたり。その波が収まって、また働き始めると、今度は別な彼を見つけてその彼と暮らし始めました。滅茶苦茶でした。でも生きるためにはどうになしなければならなくて、必死で、そして、私にできることはそんな事しかなかったのです。


その後世の中はバブル景気に突入。私はファッションモデルになりました。他にやれることもないし、人よりも少し身長が高かった私は、当時、身長が170cmもあればショーモデルになれるということを知り、モデル事務所のレッスンに申し込んだのです。事務所も決まって仕事を始めましたが、特に売れるということもなく、ぽつぽつと入って来る仕事をこなす状態でしたが、それでも1人で家賃を払って暮らして行くことができることに、私はほっとしていました。毎朝怒鳴る上司はもういませんでしたから。


でも、本来田舎者で、自己肯定感が欠如していた私は、華やかで自信に溢れた人達に無理に自分を合わせているうちに、仕事の最中に酷い頭痛や吐き気に襲われるようになりました。仕事が続けられない恐怖で駆け込んだメンタルクリニック。そして出された診断名は、“対人恐怖症までは至っていない対人過敏症”。それから約12年間、精神安定剤を飲みながらどうにか仕事を続けたのです。


生きるためには仕事が必要。運よく世の中はバブル景気。需要がうなぎ上りのモデルになるのはそんなに難しいことではありませんでした。でも、単に生活していくためにモデルになった私は、モデル業を頑張ることもプライドを持つこともできませんでした。いつも感じていた思いは“こんな私がこんなことしてていいのかな”でした。でも我慢してこうやって過ごしていれば、きっといつか良い人に巡り合って結婚して、普通の家庭の主婦になるんだろう、とぼんやりと思っていたのです。


その頃付き合っていた彼の助言があって、ようやく私は会津の両親に連絡を取りました。両親との東京での再会。5年間の行方不明でした。両親は捜索願を出し、私は死んだものと諦めていたのだそうです。再会を果たした両親は、東京に根を張って生きている私を見て、会津に帰って来いとは言いませんでした。


すでに30代前半になっていた私は、モデル業の先はもう長くないだろうと、結婚を視野入れての真剣な出会いを探し初めていました。まずは出会い系のパーティーへと足を運びましたが、いったいどうしていいのかさっぱり分からず、行けども行けども壁の花。そしてある日、同じモデル業の友人と連れだって、エリートや医者などが集まる出会いのパーティーへと出掛けてみたのです。そこで向こうから声を掛けて来てくれたのが、そのパーティーの唯一の外国人参加者だったモナコ人の20代の男性でした。


この出来事が、私の2番目に大きな人生の転機になりました。


私は30代の前半、彼はまだ20代半ば。進展は難しいだろうと思いつつ、出会いがなかったそれまでのパーティーのことを思って、その彼からの誘いに乗ってみることに。彼の母国語はフランス語でしたが、イギリスの学校で経済を学んだ彼と私の会話は英語でした。昔大好きだった英語。すっかり忘れていたけれど、また必死で勉強し直して、彼との会話で実践。伝えなければいけない状況があると、語学が身に付く速度が違いました。


彼はイギリスの銀行から出向で日本にやって来ていたエリート。そしてその当時、モナコから出て海外で働いている唯一のモナコ人という、とてもユニークな男性でした。出会ってしばらく経ってから、私から一緒に暮らすことを提案したのですが、その時の彼の答えは、

「僕は今まで、女性と3カ月以上付き合ったことがない。どうなるか分からないよ。」

でした。当然ですよね、彼はまだ20代半ばでしたから。


迷っている彼を押し切って、彼の六本木のマンションへ引越して一緒に暮らし始めました。それからしばらく経って恵比寿にある瀟洒なマンションへ2人で引越し。そしてその約2年後。彼のシンガポールへの転勤が決まったのです。


今後どうするか。2人で話し合って出した結論は、彼だけがシンガポールへ行く、でした。年齢のこともあり、モデル業を辞めることを決めていた私は、その時点で既に入っていた仕事をこなすために、都内にウィークリーマンションを借りてそこに移り、彼の荷物と共に彼はシンガポールへ、私の荷物は会津の実家へと。


残っていた仕事を終えて会津に戻った私は、食欲がすっかり失せてしまって、体重が40キロ代に。また人生のやり直しでした。モデル業から足を洗った私は、彼のおかげで目覚めた英語をもっとブラッシュアップして次の仕事に活かそうと、イギリス語学留学を考え始めていました。両親はそれには大反対で、特に父は、

「英語なんかやって何になる!英語の仕事なんかお前の年であるわけがない!」

と、あの私の昔のトラウマを思い出させるような、相変わらずの反応。それでも私は計画を進めました。この辛い現実から逃れるためにも、私の人生を生きるためにも、前に進むための希望が必要でした。


その頃、シンガポールへ日本を発った彼からほぼ毎日のように電話が掛かって来ていました。初めは近況を伝え合う会話だったのが、だんだんと“君がシンガポールに来たら何が出来ると思うか?”という質問形に代わり、ある日から毎日それを電話で話し合うようになりました。それと平行して、私はイギリス留学の計画も進めていました。そして、これから語学学校への申し込みをする、というまさにその当日、ついに彼の口から、

「やはりシンガポールへ来て欲しい」

という言葉が!イギリス行きを急遽シンガポールへ変え、一番早く取れる飛行機で飛び立ったのです。すでに実家に戻って来てから数か月が過ぎ去っていました。


彼からは、“日本にいたら目にすることも想像することもなかっただろう人生”を教えてもらいました。彼の口癖は、

「掃除洗濯で人生の時間を無駄にするな。人生を楽しめ。」

でした。語学学校を2つ掛け持ちで勉強しながら、月に一度は必ず旅行をし、レストランでの食事を楽しみ、プールやテニスコート付きコンドミニアムに住まい、熱帯の国での生活を満喫しました。そして、

「何をシンガポールでやれるか考えろ」

も同じく口癖だった彼の影響もあって、シンガポールの日本語のラジオ放送番組でのリポーターをする機会も得ました。

“女の子は勉強する必要がない”“早く孫を抱かせて、親の面倒を見ろ”とは全く違う人生がこの世の中には存在するという事実と、自分の人生の舵を取りながら、生きることを楽しんでいる人達がいるのだということを身をもって示してくれたのが、この彼でした。


でも結局、彼が初め危惧した通り、シンガポールで暮らし始めて2年後に私と彼は破局を迎えました。彼に別れて欲しいと言われた3日後には、私は日本への飛行機の中でした。シンガポールから日本までの間、泣き続けていたことを覚えています。仕事も、お金も、家もない日本へ1人こうして帰って来たのです。


妹の家にしばらく世話になった後、日本での私の新しい住まいとなったのが、その頃はまだ珍しかった外人ハウスと呼ばれる、外国人用のシェアハウスでした。外人ハウスとは言っても7割は日本人。住んでいる外国人も、旅行ではなく日本で仕事をして暮らしている人達がほとんど。様々な事情があってその家に暮らす人達。そして私もその中の1人になったのです。

辛い別れの直後だった私は、そこでの暮らしに救われました。今でもあのハウスでの生活は忘れられない良い思い出になっています。

生活の糧を得るための仕事は、クレープ屋でのアルバイトから始まり、そしてデータ入力のアルバイトへ。そのデータ入力のバイト先への派遣社員へ。そこでオフィスでの仕事やパソコンを学び、それから英語を使う仕事へと転職。


たまたま、その外人ハウスにフランス人が住んでいて、話をするうちにフランス語に興味が湧き、やがてフランス語を学び始めました。

週に1度の4人ほどの小さなクラスで、場所は原宿。フランスに興味がある人ばかりだったので、クラスの後はカフェに移動して延々とおしゃべり。そして一緒にパリ旅行。でも肝心のフランス語の方はなかなか上達しませんでした。そこで、貯金をしてフランス語を学びにパリへ行くことを決意したのです。ですが、物価の高い東京で1人暮らしです。お金を貯めるのは簡単ではありません。外人ハウスの中でも家賃の安い小さな部屋に移り、食費も節約、洋服も買わず。そうやって半年後に、ソルボンヌの文明講座の1学期分の貯金額を達成。楽しく節約ができたのも、あの外人ハウスに住んでいたおかげだったと思います。


そうしてやって来たパリで、私の夫となる人と出会ったわけです。初めて会ったその時に、お互いに恋に落ちました。その後、2人で京都で5年間暮らした後、パリへと戻ってきたのです。日本で暮らしている間にも大変な事が色々ありましたが、あまりに長くなるのでここでは省略。


戻って来たのは、正確にはパリから1駅のところ。夫が日本に行く直前に購入してあった25㎡ほどの狭いワンルーム。大人が2人、その狭い中で5年間生活したのです。ここでも辛いこと、思いがけない様々なことが起こりましたが、これもここでは省略します。


何よりも一番大変だったのは、夫が実はアスペルガー疑い濃厚だったから。(未診断です)そんな狭い居住空間の中に、こだわりが強く、マイルールにしばられ、自己中心、ルーティンが絶対という、アスペルガーグレーの夫と2人暮らし。そして、夫にとってホームのフランスで私は1人アウェイ。問題が起こらないはずがありません。夫からのモラハラと夫婦喧嘩。私は世に言うカサンドラ状態に。そしてある日、夫から「離婚しよう」の言葉が。。




もうほとほと夫との生活に疲れ切っていた私の返事は、

「いいわよ。」

もちろん悲しくなかったはずはありません。あんなに頑張ってきた過去を全て無駄にするのですから。そしてこれから先の不安。

家を出て1人で暮らす目途がつくまでは家を出ないくていいという約束だけは取り付けました。それから私は淡々と事を進めたのです。友人に相談に乗ってもらい、弁護士に相談に行き、次の彼を出会い系のサイトで探し。。


そうして約半年が過ぎた頃、夫の口から出た、

「やっぱり離婚はやめよう」

その後からです、夫のモラハラが収まって来たのは。もちろん別人のように変ったわけではないですが、以前のような何から何までのモラハラはなくなりました。

やがて、2人で広い家を探しはじめ、約1年後に今のアパルトマンを見つけ、ようやくあの狭いワンルームから解放されたのです。


ここでようやく、私のこのお話のタイトルについてです。


夫のモラハラも影を潜め、2人にはゆとりのある広さの家に越し、体力的にも精神的に負担の大きかったレストランでの仕事をやめました。

レストランの仕事を辞めるにあたって、その後の収入源になりそうな日本語教師の資格を取得。でも、日本語教師の資格は実は私にとっては滑り止めでした。私はYoutubeに動画を作って収入を得たいと考えていたのです。保証も何もない非現実な考えでした。この異国の地のフランスで、そんな冒険的な選択ができたのもひとえに夫の存在があったからだと思うのです。自分1人以外に、いざとなったら経済的にも精神的にも頼れる人がいるというのは、なんと心強いことなのでしょう。暮らして行くための戦いをたった1人でしなくて良いという安心感。


この家に越してくる前までの夫のままであったら、話は別だったでしょう。2人で暮らしていても苦痛ばかりでしたから。頼る人が夫しかいないこの外国で、それを知りながら助けるどころか、その弱みを利用してモラハラをする夫でしたから。

ですが、こうして態度を改めた夫がいる今、私はやっと心の保険を感じながら、純粋に自分が好きなことで収入を得ようとすることに挑戦できるのです。孤独に1人で生きて来た今までとは、なんと違う感覚なのでしょう。


自我が目覚めてからずっと長い間、私はこの感覚を探し求めていたのではないかと思うのです。暴力的で支配的な父と、純朴だけど学がなく私には無関心な母の元を去って出た世の中で味わったモラハラ、セクハラ、そして罪悪感。生きるための武器を持たない自分への不安感。成功した経験がないための自己肯定感の欠如。人生を共にする人と出会えないあせり。対処療法的に生きるしかなく、それはまるで激流にながされる一枚の木の葉。木の葉は自分で舵を切れません。穏やかな流れに喜び、激しい流れにおびえ。。

でも今は、夫という安心感と、夫のフランス人らしい“自分の人生を生きる”生き方から得たもので、私は流されるままの木の葉から、自分の船を操る「櫂」を手にした船頭になれたのではないかと思うのです。


夫は好きな「小説を書く」ために生きています。それが夫にとっての理想の人生なのです。人生は一度っきり。人生を自分の好きなことに使うのが理想の人生です。それを夫は自分の手で作り上げてきました。そんな夫を見て、私にも好きなことがあったはず、と古い記憶を呼び起こして見つけたのが、何かを創り上げる事。手始めにブログを書き初め、そこにイラストを描き、そして動画を作り始め、動画作りの楽しさに目覚めました。創り上げる喜び。長く忘れてしまっていた懐かしい喜びの感覚。こうして今、私はこのエッセイのタイトルを付けるに至ったというわけなだったのです。


最後にやっと出会いがおとずれ夫婦となった夫ですが、夫婦になってからも様々な困難がありました。そしてこれからもそれはあり続けるでしょう。それが人生ですから。でも、今の私は、その人生の流れを自分の舵で渡って行けるだろうと、今では確信が持てるのです。





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