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【短編小説】チョコチップクッキー

 チョコチップクッキーが食べられないという話をすると、様々な反応が来る。「アレルギー?」と不安そうに尋ねてくる人もいれば、「クッキーとチョコクッキーとチョコレートが食べられるのに、チョコチップクッキーはダメなんだ」と面白がる人もいる。でも、結局行きつく先はひとつしかない。彼らは必ず、最後にこう尋ねてくるのだ。
「で、なんで?」
 僕はこの問いの模範解答を知らない。事実をありのままに伝えることが必ずしも正しいとは限らないからだ。僕は今の僕が築き上げた信頼と友情を破壊するつもりは毛頭ないので、適当な理由をくっつける他なかった。「母さんの失敗作を食べたから」で通すと「分かる。私もおばあちゃんのキュウリがおいしくなさ過ぎてキュウリ食べられなくなった」という「失敗作が原因で食べられなくなった」事例において共感を呼んだ。
 僕がなぜチョコチップクッキーを食べることができないのか。その原因の半分は僕にあると思う。しかし、僕としては正直自分に非はないと思いたいし、すべてをNのせいにして片付けてしまいたいのだ。

 中学二年の冬、僕はNという女から好かれていた。人の恋路を応援するという活動において、女子はどうして団結したがるのか僕にはわからなかったが、ともかくNは僕のことを好いていた。僕が教室に入ると「ほら、D君が来たよ」とこれ見よがしにNに教えるおせっかいな女が居て、僕がその声に顔を向けると「こっち向いたぁ!」と言って色めきあう。Nは恥ずかしそうにして「無理ぃ」と甲高い声を上げていた。そんなウブな彼女を、女性陣はかわいらしいと思っていたのだろう。もっとも、それはNの標的が僕であったからということに他ならない。これがもっと人気のある、それこそバスケ部エースのIとかだったら話が一気に変わってくる。もしもNがIに惚れていたら、女子の友情には亀裂が入り、とっくに粉々になっていたことだろう。
 Nが僕のことを好いていることを、クラスのみんなが知っていた。演技臭いといって顔をしかめる者もいたが表立ってそれを主張することはなかった。僕はというと、腫物扱いに近しい境遇にいい加減うんざりしてきた。「無理」と言われるのも嫌だった。思い切ってNをフッてやってもよかったのだが、Nを嫌う明確な理由がなかった。僕は憂鬱になりつつも、徐々に近づいてくる高校受験のことを考えていた。
 だから僕はバレンタインという一大イベントのことなんか頭からすっぽ抜けていたし、Nが明らかに手作りの菓子を渡してきたときに絶叫して気を失いそうになった。派手なピンクの袋の中には不格好なチョコチップクッキーが詰められていた。手紙には真っ赤な文字で「だいすきです」と書かれていたがインクがにじんでいて最早ホラー。僕はこれをどうすればいいのか分からなかった。もらったチョコチップクッキーを見ていると、クッキー記事の合間から細長い何かがはみ出ているのが見える。少し潔癖のきらいがあった僕には耐えがたい話である。そう、それはどこからどう見ても髪の毛だった。僕は思わず、受け取ったクッキーをゴミ箱に捨ててしまった。
 今になって思う。どうして僕はNの目の前でクッキーを捨ててしまったのだろうか。僕の人生において一番の愚行は間違いなくこの瞬間であった。しかし僕は一秒たりとも髪の毛入りクッキーを持っていたくなかったのだ。Nの顔が一瞬にして絶望に染まったのを見ても「しまった」とは思わなかった。呆然とするNは固まったままであるが、みるみるうちに目に涙が浮かんできたのはある種の面白さがあった。Nの様子を物陰で見守っていたNの友人たちが「信じられない!」と叫んだ。すかさず僕も叫んだ。
「髪の毛の入ったクッキーなんて食えるか!」
「別にたくさん入ってたわけじゃないでしょ!? 髪の一本や二本取り除いて食べればいいじゃない!」
 Nの様子を見ると、Nは泣いていた。「うえーん」と泣く女を見るのはこれが初めてだった。小説の文字列で泣き声を「うえーん」と表現することは多々あれど、その文字が示すとおりに「うえーん」と泣くことがあるとは思っていなかった。Nをよしよしと慰めている女もなぜか泣いていて、この状況では僕が悪者になりそうだった。女の団結力と言うものがこれほどまでに厄介な代物であるとは思いもよらなかった。僕は困り果ててしまった。
 すると、近くに座っていたSという女が大声で笑い始めた。
 僕も、Nも、Nの取り巻きもすっかり驚いて、笑うSを見つめた。
「好きでもない女の髪の毛入りクッキーなんて、食べたいとも思わないでしょ!」
 近くに座っていたYが、うんうんと丁寧に頷いて同意を示す。Nはまた「うえーん」と泣き始めた。「泣かないでN! こんなろくでもないヤツ、付き合わなくて正解!」という慰めに「だって好きなんだもぉん」と返された時はいよいよこいつを殺すしかないのだろうかと考えた。
 その次の年から、「手作りの菓子」をそれとなく禁止する決まりができた。僕はそのきっかけになってしまったらしい。Nは「女のコの手作りクッキーを目の前で捨てるクズ男に惹かれている、不幸でカワイソウな私」に酔いしれ、とりまきはそんなNをなんとか助けようと奮闘するカワイソウな私たちに酔いしれていた。僕は「目の前で捨てるのはやりすぎ」という苦言を頂いたことはあれど、捨てる行動自体に文句を言われることはなかった。
 これ以降、僕はチョコチップクッキーを食べることができなくなった。坊主憎けりゃなんとやらとはよく言ったものだ。おいしそうな焼き色の生地にチョコチップがひょっこり顔を出しているのを見ると、僕はそのどこかに髪の毛が突き出ていないかを探してしまう。満足いくまで探したところで今度はNの取り巻きからネチネチ言われたことを思い出す。その不愉快な記憶がくすぶり出す頃にはすっかり食欲が失せてしまうのだ。チョコチップクッキーは大好きなのに、チョコチップクッキーにまつわる思い出が嫌だ。これを誰かに話して記憶を克服しようにも、信頼が崩壊してしまう恐怖が勝る。幸いにもNは僕よりも成績がよくなかったので、僕と同じ志望校を受験することはできなかった。僕はこの時、先生が如何に優秀なのかを思い知った。先生はNが僕目当てで僕の志望校を狙っていることに気が付いていた。もっと別の理由もあった上で、やる気にブーストをかけるための原動力であれば先生も余計なことは言わなかったことだろう。しかし、Nの成績はさほどよくなかった。先生は「受けなくても結果は見えている」と言った。順位表も事実を物語っていたそうだ。
 僕はチョコチップクッキーを食べられなくなって、中学を卒業した。Nとは二度と会わなくなったが、「惚れた男に手作りのお菓子をプレゼントする」習性は続いているらしく、その様子はInstagramで見ることができるそうだ。だが、僕はNのInstagramを見ることはなかった。チョコチップクッキー以外の菓子も食べられなくなったら困るからだ。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)