
ソーシャルワーカーになろう!④ 梅本政隆
第2章こぼれ話(アセスメントの侵襲性を乗り越えるためには)
新年初の投稿になります。
皆さん、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
前回の投稿から1ヶ月以上が経過してしまいました。
(前回も同じことを言っているので、もう自分で決めた期日にしばられるのはやめようと思います)
さて、今回は『社会福祉士になろう!』第2章のこぼれ話です。
第2章は、社会福祉士の役割として「相談援助」の場面を中心に、相談者やクライエントにどのように向き合い、対応していくのかを具体的に紹介しているパートです。
そのなかでも、アセスメント(見立て)はとても重要なので、多くのページを割いています。
そこで書かれているのは、アセスメントの視点やアセスメントによって明らかにしたいクライエントのニーズです。これをA面とすると、書ききれなかったのは、B面にあたるアセスメントの侵襲性です。
今回は、その「アセスメントの侵襲性」について書きたいと思います。
アセスメントの落とし穴
第2章では、アセスメントについて、「クライエントについての生活状況全般を理解し、クライエントが生活を継続していく上で、どのような生活上の「ニーズ」があるのかを明らかにすること」という白澤政和さんの定義を紹介しています。
そして、社会福祉士は常にアセスメントを繰り返しているといってもいいくらいで、相談援助のプロセスのなかでとても重要である、と書きました。
アセスメント(見立て)は、クライエントに関する情報がないとできないという意味で、情報収集と不可分です。
ですから、アセスメントに必要な情報を適切に集める必要があります。
ここでいう情報とは、クライエントにまつわるあらゆるもののことを言います。
クライエントの様子(服装、話し方、しぐさ、表情等)や自宅に訪問したときの様子(庭の手入れ状況、自宅内の整理整頓具合、におい、ペットの有無等)など、観察することで得られる情報はたくさんあるのですが、相談援助に慣れていないと、目の前のクライエントが語る言葉に頼ることが多くなってしまいます。
この相手の言葉に頼り過ぎてしまう状況に、アセスメントの落とし穴があるのです。
アセスメントの侵襲性
山崎孝明さん(臨床心理士・公認心理師)は、著書『当事者と専門家 心理臨床学を更新する』のなかで、「アセスメントは侵襲的な行為である」と指摘しています。
辞書をひくと、「侵襲」とは「医学で、生体の内部環境の恒常性を乱す可能性がある刺激全般」のことで、「投薬・注射・手術などの医療行為」が例示されています。
山崎さんは、「片っ端から質問事項を尋ねていけば情報を収集することは可能かもしれないが、それはただの風邪かもしれないのにいちいち全身MRIを撮るようなものだ」と言います。
私自身にも思い当たることがあります。
相談援助の仕事に就きはじめた頃のことです。
一人暮らしの高齢女性から、あるサービスを利用したいという申し出がありました。
私は彼女の自宅を訪問し、基本的な情報を記載する用紙を埋めるために、家族の状況やこれまでの生活歴、医療情報などを一つずつ確認していきました。
さらに、生活の様子や心身の状況について確認するために、質問リストに沿って順に問いかけはじめたときでした。
彼女が急に「もういいわ!そんなことまで言わなきゃいけないなら(サービスは)使わない!!」と怒り出してしまったのです。
そのときの私は、どうして彼女が怒っているのかわからないため、ひとまず怒らせてしまったことを謝りつつ、すごすごと彼女の家を後にしました。
まさに、風邪なのに全身MRIを撮ろうとしていたのだと思います。
アセスメントの侵襲性について、別の角度から指摘しているのは、精神科医の齊藤環さんです。
斎藤さんの新著『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』のなかで、言語的なアプローチがもつ特徴を踏まえ次のように指摘しています。
「「なぜ」「どうして」を問いすぎることは、「症状という結果には、かならず(単一の)原因があるはず」という因果論的な思考を、無自覚に強めてしまいます。(中略)「なぜ」という問いには、背景に含まれる多様な要因を捨象(≒否定)して、唯一の原因に絞り込ませる圧力があるからです」
今度は、私自身がアセスメントの対象になったときの話です。
詳細には触れませんが、家族のことについて尋ねられたときのことです。
「○○さんがこのようになったことに、思い当たることはありませんか?」と質問され、私は過去を振り返り、自分の言動と目の前に起こっていることをひとつひとつ照らし合わせるということをしました。
言葉として「なぜ」「どうして」とは問われていませんが、斎藤さんの言うところの因果論的な思考です。
それを繰り返すことで、目の前の事象は、私の過去の言動に原因があるということが強く意識されるようになり(そこから抜け出すことができなくなり)、苦しくなってしまったのでした。
これもアセスメントの侵襲性のひとつの姿でしょう。
どのように乗り越えるか
「なぜ」「どうして」は日常生活のなかでも、よく使う言葉です。
ある問題に対する解を導き出すために、「なぜ」「どうして」を繰り返すことは有効な思考法ですが、それが自分に向き過ぎてアイデンティティを揺るがすようになってしまうのはよくありません。
また、他者に向けてしまうと、傷つけるおそれがあることは自覚しておく必要があります。
よく考えてみると、言葉はとても曖昧なものです。
現代演劇を専門とする岡室美奈子さんは、『ゲンロン・セミナー第2期 1000分で「まちがい」学#3 ベケットと「まちがい」の美学 よりよく失敗するために』のなかで、劇作家・小説家のサミュエル・ベケットにとって「「書く」とは失敗すること、「書き続ける」とは失敗し続けること」であり、「言葉を使って何かを正しく伝えることはできないという前提に立っている」と語っています。
言葉は無力と知りながら、言葉を使い何かを伝えるたり、受け取ったりするためにはどうしたらよいでしょうか。
ベケットが言葉だけではなく、役者の身体や舞台という空間を含めて何かを表現しようとしたことにヒントがあるような気がします。
つまり、大切なのは発せられた言葉そのものではなく、どのような表情や態度のもとに発せられた言葉なのかということでしょう。
また、先に紹介した斎藤環さんの言葉を借りれば、言葉のやりとり(対話)が途絶えないようにし続けることが重要なのだと思います。
最後は、少し抽象的になってしまいましたが、思いのほか長くなってしまったので、今回はこのあたりで終わりにします。
アセスメントは奥が深いので、またどこか違う形で書きたいと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、内容から少し外れて、本書のカバーデザインやイラストについてのこぼれ話を紹介しようと思います。