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ラーメン、ラーメン

「あの、さっき、彼氏できたんです」

彼女は開口一番、そう言った。頬が赤らみ、俯いた顔が可愛いなあ、と呑気に思った。それで僕は「はええ」だか「ほぇ」だか言い、そうなんやあ、とつい関西弁を口にした。千葉生まれの千葉育ちだけど。僕はとりあえず、つい口に出てしまった関西弁の代わりに、さっき出されたばかりのお冷を飲み干した。冷たい氷が口に入ってきて、僕はバリバリ食う。そういえばまだ12時も回っていなかった。いらっしゃいませ、お二人様ですか。店員の声が後ろで聞こえる。カップルだろうか。そういえば向こうの席で女子たちの笑い声が聞こえた。厨房は騒がしい。

「あの、ということなんです」

と彼女が言って、気を引き戻された。僕はまだデート中だったのだ。いけないいけない。「ということなんですが…」と言われても。どうしましょうか、こちらこそどうしましょうか、と思った。

「とりあえず何か頼みますか?あ、えっと、あ、おめでとう御座います」

「はあ…ありがとうございます」

なんで苦笑いなんだろう、と思った。結局パスタとピザを頼んだ。そういえば彼女はトマトが苦手と言っていたのを、僕は事前にメッセージで聞いていたのだった。それなのにイタリアンにしてしまったと今更気づいて、少し後悔した。それと、お酒が好きとも言っていて、普段飲まない、というか飲めない僕は、お酒について全く分からなかったが、日本酒のお店なので、日本酒を頼んだ。「どちらの日本酒にしますか?」と店員がいうものだから、とりあえず知っている風に、メニューの1番上にあるものを選んだ。

日本酒が出てきて、徳利からお猪口に注ぐ。両方の器に注ごうとしたら、彼女がやりますよ、と言ったけど断って注いだ。少し違和感を覚えて、お互い注ぐのが何かマナーだったのだろうか、などと注ぎながら考えて、また少し後悔した。

少し飲んでみて、よく分からずに飲みやすいですね、と言ってみたら彼女は無反応だった。違ったみたいだ。また奥の席から女子たちの笑い声が聞こえた。何か喋らなきゃな、と思った。

「あの、あの、彼氏ができたっていうのは、どういう…」

「実は、この辺にその人の家があって、今日のために前入りしようって、泊まったんです」

突然の事態を解こうと思っていたはずが、ますます訳がわからなくなっていた。僕はカウンターの向こうにある酒が並んだ棚を眺めて、「ほうほう」と言ってみた。

「実は朝から喧嘩しちゃって。本当、くだらないことなんですけど、私が部屋掃除してたら、バイアグラが出てきて、私の前でそんなの使ったの、みたことないから、問い詰めたんです。そしたら」

彼女は一旦間を置いて水を飲んだ。

「そしたらね、オナニーするのに使ったって、言ってて。んなわけねえだろ、って、笑っちゃいましたよ」

「ほうほう」

「それで、もう知らない。って言って、それから何言っても無視したんです。で、家出る時に、だから今から30分くらい前ですね。リリ、好きだ、大好き、ごめんね、もう他の女と会うのやめるからさ。ちゃんと付き合おう、って言ってくれたんです」

彼女の声はそれはもう嬉しさを隠せていなかった。僕はそれを喜ばしいことだ、と思うことにした。「それは嬉しいですねえ」と言うと、被せるように「はい!」と返ってきた。

「今まで一度も言葉にしたことなんてなかったのに。今朝ですよ今朝。それで、結婚も考えるって。もう遊びの関係は終わり、って。で、今ここ」

「今、ここ」

なるほど、と僕は思った。

「そういえば、彼、そのあと一緒にここくるつもりだったんですけど、流石にダメだ、と思って断りました」

「え、彼にここくること言ったんですか?!」

「はい。今日何するの、って聞かれたし」

「はあ」

相変わらず訳の分からないことが起きていた。それで、僕はこの人と付き合えないだろう、と思った。思うことにした。それは途方もなく、この人と僕の距離があるように思えたからだ。遊びの関係か。この間初めて彼女ができ、半年も経たずに別れた僕との間に、天の川銀河でもあるらしい。何百万光年の距離。

「へえ、お酒、もっと飲みますか?」

「飲みましょ、飲みましょ」

彼女は上機嫌だった。それは他ならぬ、彼のお陰だったのだけど。


気がつくと僕らは小動物カフェにいて、僕は小鳥に頭を突かれていた。それまでの記憶があまりなかった。肩に白いフンが掠っていて、それを見た彼女はゲラゲラ笑い、写真を撮っていた。それから僕はリクガメに足を踏まれ、オウムに噛まれ、フクロウは滅多にするはずのない威嚇を僕だけにしたが、ヒヨコだけは僕の手のひらですやすや眠った。いずれも、彼女は笑い転げ、写真を撮った。

「どうしてそんなに面白いの」と彼女が言った時、何故か生きてて良かったな、と思ったのと同時に、酔いが覚めていくのが分かった。

広いフードコートには、人がほとんどいなかった。大きめのソファに腰掛け、並んで座った。彼女は、ついさっきできた“彼氏”の悪いところを言い、そのあとすぐに良いところを、同じかそれ以上言った。どれも、僕とは正反対のイメージだった。友だちになるのは難しそうだ。それから、ひと段落して、彼女は言った。

「N君は、去年結婚考えてた人に似てる。関西弁聞いた時、懐かしいなあ、って安心した。髪型も服装もなんか似てるし。面白いし。何か懐かしいなあ」

なあ、と言って、沈黙があり、気がつくと僕の手に温かいものが乗って、彼女の手だと気づいた。彼女はそうしてどこか遠くを見ていた。僕は彼女の手のひらを握り返してみた。小さな手だった。何人がこの手のひらを握ったのだろう、と考えて野暮だ、と思った。彼女の綺麗な横顔を見ていた。すると、彼女の頬に涙が伝った。僕は抱きしめたかったけれど、違うなと思い、精一杯の気持ちを込めて、手のひらを握った。できることはこれくらいだと思って、いっぱい、いっぱい握った。彼女は涙を拭いてから言った。

「痛いから離して」


ランチをした店の最寄り駅が近づいてきた。電車の音が大きく、何度か会話が途切れた。疲れているのもあったかもしれない。特に話すこともなく、電車は進んだ。何か言わなくちゃ、と何度か思った。

「次は…」と言ったのはアナウンスだった。駅の名前を告げただけだった。彼女が帰るところ。

「それじゃあ、今日はありがとうございました。いっぱい話せて良かったです」

「こちらこそ、話聞けてよかったです。また是非、お話聞かせて下さい」

「是非」

扉が開いた。彼女は手を挙げた。お別れの合図だ。まだ間に合う。次は、今度こそは。もう一度。考えてはいても、僕は同じように手を上げていた。何か言わなくちゃ、と考える。俯くな。僕はまた、会いたいんだ。顔を上げろ。言え。言うんだ。

「好きで」

反対側のホームに、電車が轟音を上げて通り去って、声は途絶えたんだと思う。彼女は曖昧に微笑んで、階段を上がっていった。少し駆けていた気もした。呆然とそれを見ていると、電車に乗り込んできた太った男が僕を見ているのに気づいた。ドアの前で待っていたから、ちょうど告白が、彼に言ったみたいになってしまっていた。

「あの、さっき彼氏できたの。可愛いけど、ごめんなさいね」

僕は振られた。


改札を抜ける。あたりは真っ暗になっていた。僕の帰るところ。帰り映えしない駅前。ほのかに暖色のライトが輝くラーメン屋に入った。注文した豚骨ラーメンのスープを一口啜ると、喉を濃厚な暖かさが通り抜けていく。スープと一緒に何かが胃へ落ちていく感じがした。気がつくと涙で前が見えなくなっていた。泣いている、と思うと、うう、と声を出さずにはいられなかった。誰かに聞こえないように声を殺し、ラーメンを啜っているみたいに、鼻を啜った。何が、いけなかったんだろう、と何度か思う。僕は何か悪かったのだろうか。久々に女の子とデートをした。ここまで来るのに長い道のりだった。ようやく漕ぎ着けたデートだったのに。

伸びないうちにラーメンを食べなくちゃ、と思った。震える唇でなんとかすすったら、咳き込んで吹き出した。鼻水が一緒に出て、スープに入った。悔しかった。ラーメンも、食べられないなんて。

ふう、ふう、と何度も深呼吸をして、ようやく落ち着いてきた。でも、ラーメンは伸びきって、鼻水が浮いていた。泣ききると、お腹が空いてきた。少しずつラーメンを啜る。少しずつ、少しずつ。また少しずつ頑張るんだ。すると、後ろから肩をポンと叩かれた。誰だろう、と見たら、若い女性の店員だった。その手のひらは小さかったが、妙に暖くて、大きく感じた。僕を気にかけてくれたのだと思って、それでまた涙が出てきた。今度こそ、何か言わなくちゃと思っていると、自然と「ありがとう」と言っていた。僕は言った。言えた。「ありがとう」ともう一度目を見て言った。すると彼女は言った。

「あのう、お客様、閉店の時間ですので…」

彼女の顔は困惑していた。でもその困った眉毛は可愛らしかった。

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