黄色い線の内側

地下のホームに滑り込んできた箱の中には、不健康な青白さを浴びた人々が詰め込まれている。それは何かの実験でもするのかと思えるような詰め込まれ方で、人々は動物実験に使うラットみたいに見えた。彼らの耳にはワイヤレスのイヤホンが両耳に刺さっていて、そこから激しい音がどこからも同じように聞こえる。同じ音楽を聴いていることはないのだろうけれど、それはどれも大差なく聞こえていた。歌詞はよく分からないことか、恋愛について何かを言っているけれど、どの言葉も、自動販売機に並んでいる缶のように無機的に聞こえる。

アサミは、ホームのベンチに座っていた。蒸し暑い夜だった。星は、淀んだ空が続いていて、顔を上けで、見ようとも思わない。時々吹く風は、汗で湿った肌を撫でるけれど、室外機から送られてくる風に近い。全く、誰がこんな暑い外気を吹いているのか、と思うけれど、すぐに自分も悪いことに気づいた。私の呼気は、今も大気を汚染している。電車の中きら大量に溢れ出る動物たちも、そこかしこに温暖化ガスをこぼしていた。やれやれ、と手を上に向けたアメリカ人のオーバーなリアクションを想像してみた。この場に不釣り合いなものだった。

アサミは風で顔に張り付いた髪を一度払うと、抜けた髪の毛先が痛んでいて、何かを思い出していた。それは昔マサオと食べた、そば打ち体験の下手な麺だ。余計なものが入っていない私の手が触った麺。私の髪が蕎麦だったら、マサオは食べてくれるだろうか。もう3年も会っていない男のことを考えてみるけれど、もう声も顔もよく思い出せなかった。蕎麦の味も思い出せないけれど、蕎麦が美味しかったということだけは思い出したが、通過した電車の風圧で彼女は現実に戻された。

無情だわ。

ホームは静かになった。特急列車はさっきまでの喧騒と、私の回想を全て奪い去ってしまったのかもしれない、アサミは思う。

ゴツゴツした点字ブロックの手前で女が並んでいた。短い髪は青く染まっていて、あまり食欲をそそらなかった。どちらかといえば苦そうな色をしていて、きっとそこからは甘い匂いがするのだろう。彼女は小さい頃飲んだ、風邪薬の苦味が舌の上に広がるのを思い出して、唾液がこみ上げるのを感じ、ペットボトルから水を飲んだ。一気に飲みあげると、ペットボトルはぐしゃりと音を立てて、その何かの利便性を追求した意図的な形を捻じ曲げた。あまりにも簡単に潰れてしまうように設計された容器。彼女は背筋が寒くなって、後ろを振り返ってしまった。しかし、後ろには薄汚れたホームの屋根とその壁と、「チカンはダメなんだよ…なぜなら」というクスリとも笑えない漫画のポスターが貼ってあるだけだった。

正面を向くと、電車が入ってくるところだった。青い短髪の女は、飾りのない真っ黒なリュックを前に背負っている。私は、彼女の黒いTシャツの背中に、白い何かが付いているような気がしてよく見たけれど、視界の端でしか捉えられなかった。顔の角度を変えると、視界にキラリと見えるのだけど、いざ真っ正面から見ると見えないのだった。私はとうとうそれが見たくなって、立ち上がった。しかし、ダラけていた身体はひとたび腰をあげると貧血を起こした。頭は苦しくなり、視界は一瞬真っ暗になる。足がよろけると、身体がゆっくりとバランスを崩すのを感じた。倒れても問題なかった。それは危険な場所ではない。だが、誰もここにはいなかった。電車は今にも発車のベルを鳴らしているところだった。空気がわざとらしく抜ける音ともに、ドアが閉まる。短髪の女はホームと列車の深い溝を軽々と跨いでしまった。

後に残ったのは、黄色い線だけだった。この小さなホームの向かい側には、こちらと同じようなホームがあるだけで、彼女をどこにも連れて行かない。鏡のように同じ場所が見えるところに広がっているだけだった。その間には、彼女をどこか連れ出してくれる可能性を秘めた列車が挟まっているのだけど、それももう行ってしまった。女の背中に見えた視界の端にしか映らない小さな光とともに。

私はまた、プラスチックの硬い椅子に座りなおした。カーブした腰のあたりが、少しだけ優しかった。コツコツと爪で叩くと軽い音がする椅子の、情熱的な愛だった。私は確かに、花火のように一瞬だけ光ったその愛を確かに感じたのだ。きっと彼女は明日も明後日も、ひと月後も、自分の誕生日の日にもこのことを思い出すことはないだろう。しかし、いつか室外機の前のような夏の夜に、優しさと愛を思い出すのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?