鴛鴦 -コロナ禍に日本一周したラッパー夫婦の旅- 【第1話】
はじめに
これは2020年6月20日から4ヶ月に渡り行われた日本人MC/ラッパーのPONEYと嫁さんの47都道府県ストリートLIVEツアー走行距離16,358kmの旅の全貌である。
第一章・ギューちゃん
時は2020年10月18日
山梨県は甲府駅北口歴史公園
121日間に及んだ47都道府県ストリートLIVEツアーの最終日、今僕はこの旅での最後の曲を歌おうとしている。
4ヶ月の間に起きたナイスなパニックを振り返りながら、、、
2019年1月。
僕は17歳の時に決めたMCネーム『PONY』から『PONEY』へと改名する事をKOK決勝大会、敗退時に発表した。
本当は優勝してその勝利者インタビューの時に改名を発表するつもりだったのだが、
この頃から僕は一人のMCとしてこの先どう自分の世界を切り開いていくかという事ばかり考えていた。
自宅やスタジオでほぼ毎日曲制作を行っていたが、なかなか新曲をリリースする事が出来ずにいた。
目まぐるしく変わる時代の中で僕自身、自信を失っていたのだと思う。
そんな中一人の日本人アーティストの存在を知ることになる。
篠原有司男さん、愛称『ギューちゃん』
50年以上に渡りNYにアトリエを持ち夫婦でアートで世界で活躍している。
そんなギューちゃんのインタビュー映像を見ている時に僕にとって凄く大切な言葉が耳に入ってきた。
「アーティストは作ってるだけじゃダメなんだ、それを発表し続けてその作品に意味を持たせなければ」的な言葉だったと記憶している。
衝撃的だった。まさに今の自分に言われている氣がしてストンッと腑に落ちた。
その瞬間から自分の中の”チャンネル”がガラッと変わった事を今もよく覚えている。
その翌月から毎月1曲シングルをリリースしていく事を決意し順調にリリースを重ねていくにつれ、ニート東京をはじめ少しづつメディア露出や反響が増えていく中、改名後初となるアルバム作りへと意識が変わっていく。
これもあの時『ギューちゃん』という存在を知れたお陰だ。本当に勝手にありがとうございます。
(篠原有司男・乃り子夫妻)
第二章・閃き
アルバム制作が順調に進んでいく中、僕はこのアルバムをどう広めていけばいいのかを凄く考えるようになった。
過去に「PONY名義」でフルアルバム2枚とEPを2枚リリースしてきたのだが、どの作品をリリースした時ももっと上手に宣伝できないものか?というのがリリースした後に訪れる毎回の課題だった。
いつも宣伝が後手後手になってしまいリリースした時には数カ所のLIVEしか決まってないという状況の時もあった。今思えば凄く勿体無い事をしてきたなと思う。
そんな過去の経験から、リリース後のLIVEをどの様に営業していくべきかと考えていたある日、とんでもない事を思いついてしまう。
「そうだ、自分の足(車)で旅しながら47都道府県でストリートLIVEしてアルバム持って回ればいいんだ!!その模様をSNSとYouTubeにアップして拡散しながら日本一周しよう」
と。
さらに自分を後押しする言い訳が降りてくる。
「次から次に新しいアーティストが生まれるこの時代、アルバムリリースしたからって各地からオファーが来るなんてわからないし、何より誰かから呼ばれなきゃ仕事にならないんじゃ、この先食べていけない。1stアルバムになる訳だしご挨拶も兼ね自分から会いにいってブチかまして広める。やるしかない」
と、思いついてしまったら「ワクワク」が止まらなかった。
だがしかし僕も妻がいる身、自分ひとりの意見だけではハヤ過ぎると思い、意を決して思いついたその日のうちに妻に相談した。
P「あのさ、今作ってるアルバムあるじゃん?そのアルバムのプロモーションとしてやりたいなと思っているプランがあるんだけど。来年の春頃アルバムリリースして、その日から車で旅しながらストリートでLIVEしてアルバム売りながら47都道府県全ての土地で歌いたいなーなんて思ってるんだよね」
妻「え?面白そうじゃん!!」
P「マジ!?有りだ!?アツい!!」
あまりにもノリノリな妻のリアクションに驚きながらも話を続ける
P「でさ、その旅の模様をSNSやYouTubeにアップしながらアルバムと次の県のストリートLIVEする場所とか、Tシャツとかグッズの宣伝もしながらいきたいと思ってるんだけど、オレがほとんど運転するからサキイちゃんiPhoneで撮影して編集して欲しいさ」
妻「出来るかな?やった事ないから分かんないけど教えてくれればいいよ」
昔から僕がやりたい事を応援し続けてくれている妻は今回もスッと受け入れてくれた。
この旅をやりたいと思った上で一番大きな問題が二つ返事で片付いた。
妻には本当に感謝だ。ありがとう。
妻の了承を得た僕は早速どうすればこの旅が実行出来るかを考えた。
一つの県につき1LIVE、一泊二日すると考えるとそれだけでも94日間掛かるわけで、3ヶ月から4ヶ月くらいは予定を確保しなければならない。
ましてやその期間も家賃等の固定費はかかるわけで、今の僕の状況だと妻の了承を得れたとはいえ簡単な事では無さそうだ。
とは言えこの『閃き』をどーしても実現したかった僕は、僕と同じくらい熱くなりながらこの話を聞いてくれそうなアユキくんに話を聞いてもらおうと思った時にはすでに電話を掛けていた。
P「お疲れ様です!いきなり電話すみません、今めちゃくちゃナイスパニックな閃きが降りてきたので今度ご飯でも食べながらゆっくり聞いてください!」
ア「了解!そしたら9月10日はどうかな?この前一緒に会食した長山さんもお誘いして3人でメシ行きましょう!では楽しみにしていまーす」
ここでアユキ君について紹介させてもらおう。
アユキ君は昔地元のちょっと怪しいアルバイトで知り合った僕のふたつ上の先輩。
当時は原宿でスタイリストになるという夢を追っていて地元ではあまり見かけない程スタイリッシュな服装で異彩を放っていた。
僕と同じく東京に出てその道でデッカくなってやるという志しを持った同士でもあった。今ではスタイリストではないものの原宿で会社を経営しているベンチャー企業の社長さんだ。
アユキ君とは僕が二十歳の頃渋谷センター街で駆け出しスタイリスト修行(モデルハント)している時に偶然会った時以来ずっと会っていなかったのだが、2017年にラッパーのACEが代々木公園で主催した『渋谷サイファー』に出演する僕を観に来てくれて実に12年ぶりの再開を果たした。
スタイリストの世界を離れ会社経営者となるまでの間、ずっと僕の曲やMCバトルの動画などが頑張る支えになっていた、ずっとチェックし続けていたと、二人で地元の寿司屋で呑んでいる時、本人から聞いて胸が熱くなったのを覚えている。
その頃から地元で開催していたMCバトルイベント『サンデイパニック』の優勝賞金のスポンサーになってもらったり、美味しいご飯に連れていってくれたりとナイスなサポートをしてくれているナイスパニックなお方。本当にありがたい。ありがとうございます。
(アユキくん)
そんなアユキ君とアユキ君が尊敬する先輩の長山さんにゆっくり話を聞いてもらえるとなるのなら一緒にワクワクしながら話を聞いてもらえるようにナイスパニック計画書みたいなのを作って持って行こうと思った。
その計画書を書き進めるにつれどんどんこれから行う旅のイメージが湧き出てきてより旅が明確になっていく。明確になるにつれどんどん行きたくなってくる、最高のサイクル。これは絶対間違っていない、何としてもこのストリートLIVEツアーを実現させるぞとワクワクしながらスラスラと計画書を書き進めていった。
第三章・ナイスパニック株式会社
9月10日当日、湧き出る氣持ちをしたためた計画書を封筒に包みそれぞれのお名前と自分のサインを記し興奮する氣持ちを抑え約束の場所両国へ。
フラッと入ったお店は串焼きの居酒屋かぶら屋さん。この時三人で会うのは2回目という事もあり硬い挨拶は抜きに生ビールで乾杯した。
1ヶ月ほど前に初めて長山さんにお会いした時もアユキ君がセッティングしてくれた。
長山さんは長く経営されていた会社を売却し今はIT企業法人、農業生産法人等いくつもの会社に出資しているナイスな投資家。
初めてお会いした時
「お会いできて光栄です」
と言ってくれた事にビックリした。
聞けばフリースタイルダンジョンの大ファンで毎週楽しみにチェックしているとの事だ。
僕はこの時、比較的悔しい思いしかしていなかったフリースタイルダンジョンに凄く感謝した。
やっぱジブさん(ZEEBRA)は凄い。
実は長山さんはヘビメタルバンド”オリンポス16闘神”の9弦ギタリストという側面も有る。
”メタル小松菜”と銘打ったヘビメタルを聴かせて育てた小松菜をヘビメタルの楽曲のミュージックビデオを広告に展開した事などもあるとの事。ナイスパニック。
(長山さん : オリンポス16闘神でのLIVE)
話も盛り上がってきた頃僕はカバンの中から計画書の入った封筒を出し二人に手渡した。
P「これから聞いてもらいたい話がありまして、是非この封筒の中身を見ながら聞いてください」
二人は封筒を開け計画書に目を通しながら目をキラキラさせながら話す僕の話をずっと聞いてくれた。
長「面白そうじゃないですか!いいですね!出資しますよ!僕と佐野さん(アユキ君)で!ただし、ただお金を出すのも面白くないのでこうしましょう。PONEYさんが代表の会社を作って僕と佐野さんが役員としてPONEYさんの会社に入る。これはどーでしょう?出来ますか?」
僕は長山さんの提案に驚いた。
まずいきなり出資してくれると言ってくれた事もさることながら僕が代表の株式会社を作るという展開に。
長山さんは続いて会社を起こすという事のメリット、デメリットを丁寧に話してくれた。
その話を聞いた上で僕はこの旅を実現させるため、強いては今後自分の音楽を全世界に広めるため覚悟を決め、代表取締役として会社を起こすことを決めた。そして会社名はすぐに決まった。その名もナイスパニック株式会社。
僕は旅が実現できる可能性が大きく上がった事を家に帰って速攻で妻に話した。妻もブチ上がっていた。とてもいい夜となった。
会社を起こして、自分の音楽を広め売りながら旅をする。
そうと決まればやるべき事が明確になった。
まずは旅をするも何もアルバムを完成させなくてはならない。そして会社を登記する為に必要な勉強や資料集め等やる事は山のようにある。
僕は人生史上最高潮にフル回転モードになった。
この頃から『フリースタイルdiary』というフリースタイルRAP動画を平日毎日youtubeナイスパニックチャンネルにて更新。毎月のシングル配信シリーズも順調にリリースし、アルバム曲も大分仕上がりを見せてきた翌年の1月22日一粒万倍日にアユキ君、長山さん、そして妻の多大な協力のもと会社登記し、晴れて僕はナイスパニック株式会社の代表取締役兼ラッパーとなった。
第四章・新型ウイルス
怒涛の忙しさで過ぎて行った2019年年末、武漢で発生した新型肺炎タイで蔓延とのニュースをTwitterで見つけるもそんな大ごとにはならないんじゃないかとタカをくくっていた。
翌年から幕を開ける会社とストリートLIVE旅の事で頭が一杯だったある日、人がバタバタ倒れる動画をSNSやYouTubeで発見した。
もしや、と思い深く調べてみると新型ウイルス、5G、バイオハザード、パンデミックなど色々な憶測が飛び交っていた。その後、発生地域とされる武漢では完全都市封鎖の措置が取られた。
一世一代の旅を目前に控えている僕は必死に情報収集し考察し二つのタイムラインの未来軸を考えた、ひとつはこの新型ウイルスにより人類が集団免疫を獲得するまで人類の数が減っていってしまうというタイムライン。
もう一つは、今から(1月中旬)数えて4月を過ぎた頃、日本で、自分の周りで、あの映像のように感染した人が重症化と呼ばれる状態になってバタバタと倒れて亡くなってしまうという事が多発しないタイムライン。
もし後者であった場合、僕は見えないウイルスに怯え自分の行動を制限するのはやめようと心に決めた。そして念には念の為、妻には実家に疎開してもらった。
その間僕はレコーディングやミキシングでスタジオに行く以外は完全に自宅で出来る事のみで過ごした。
常にマスクをつけて、あの映像のようにならないように。
お陰様でこの期間にアルバム収録曲とは別に30曲程メイク出来た事はナイスパニック。
2月26日、政府からイベント自粛要請が発表され、その日からアルバムリリース以降に予定していた全てのイベント出演が延期または中止となった。
第五章・アルバム『ナイスパニック』完成
僕はよく「ナイスパニック」ってどーいう意味ですか?と聞かれる事が多いので、ここで言葉の意味というか由来について説明しよう。
意味は『ナイス』な『パニック』と捉えてもらえたら大体合ってます。
別にパニックでは無い等ツッコミも頂きますが、人生様々なシチュエーションが訪れます。
何か予期せぬ事が訪れ心は動揺したが、事去ってホッとした時の高揚感のタイミングの際も「ナイスパニック」の使い方として合っていますし、誰かが大事な場面でスベってしまった際にその助け舟として発するのもいいと思います。
「ナイスパニック」と発っする事によって場がポジティブに変換されるかも等の想いのもと僕はよく発言しています。
実際にこの言葉が生まれたのは僕が主催していた『サンデイパニック』というイベント、正確には第一回目のイベントの翌日、東京から駆けつけてくれたカルさん(カルデラビスタ)を見送りに甲府駅に行った際に山梨県では今まで目撃した事が無かったサイファー(輪になってRAPやbeatbox等表現をし合う現象)に遭遇した際に僕が発したリアルリアクションが言葉となったのが「ナイスパニック」でした。僕自身「ナイスパニック」とっ発した後にカルさんと目を合わせニヤリとしたのを覚えている。
それ以降『サンデイパニック』では合言葉のように多くの方に愛用される言葉となりました。
GUESTパニックで出演してくれたアーティストの方々からもよく「LIVE中ナイスパニックって言うだけでお客さんがブチ上がるし、魔法の言葉だね」
と笑いながら話してくれました。
(左 : カルデラビスタさん 右 : BigBenさん)
そんなこんなで生まれた言葉なのですが、僕はポジティブな良い言葉として広まったらいいなと思い色々な場所で発言する様になりました。
これまたフリースタイルダンジョンなのですが、初めて地上波で「ナイスパニック」とテロップ入りでナレーションにシャウトされた時はブチ上がりました。ナイスパニック。
そんな魔法の言葉をタイトルに決めた1stアルバム『ナイスパニック』全16曲入りの大作だ。
客演には僕がRAPをはじめた頃からの大ファンLIBROさん、イベント『サンデイパニック』に参戦、優勝してくれたID、U-mallow(現在はYella goatに改名)、そして鎖グループのボス、漢さんの楽曲『おい!boy』のナイスパニックREMIXも収録され僕史上最高にナイスなアルバムとなった。
アルバムのアートワーク・デザインはこれまたACEの祝賀会でリンクしたirmoくんにお願いした。
irmoくんとは初対面で誰も話題にしない『オルゴナイト』の話で盛り上がりすぐ仲良くなった。
妻がデザインしたナイスパニックのロゴの世界観を基調に何回も打ち合わせと校正を重ね、このアルバムで伝えたい気持ちを目からも楽しめる歌詞カードやジャケに仕上げてくれた。
今回CDをプレスする会社にもとことんこだわった。このアルバムのマスタリングをお願いしたlakoba(小林 裕人)さんに
「CDをプレスする会社によってどのくらい音質に差があるのか」
等を相談した際に教えてもらった横浜にある老舗『KINUYA CDプレス』さんにCDプレスを依頼した。
その甲斐あって音、見た目、デジパック仕様のジャケ、歌詞カードの紙の質感に至るまで最高にナイスな仕上がりになった。CDプレスに掛かる費用はなんと安めのCDプレス屋さんの3倍以上。今やどのメジャーレーベルでもこんな豪華なアルバムは作らないとの事。まぁ何が言いたいのかと言うと、買ってください。押忍。
この時期は緊急事態宣言中という事もあり、そのほとんどの時間をアルバム完成に向け突っ走った。アルバム発売と同時にはじまる旅の準備もしながら。
そんな中、5月8日にアルバムに収録する歌詞カードの最後のページに『あとがき』を記し終え、入稿し、ドタバタしながらも無事アルバム制作が終了した。本当にやりきった感が溢れ出したその日は昼頃まで爆睡した。
これからはじまる旅の夢を見ながら。
『ナイスパニック / PONEY』視聴URL : https://linkco.re/gtZVg2fT
翌日から本格的に旅の準備がはじまる。
まず最初に用意しなければならないものはストリートLIVEする為のスピーカーだ。今後この旅が終わってもストリートLIVEは続けるだろうと踏んで少し奮発してBOSEのS1-Proを購入。
旅は妻との二人旅、LIVE中は妻に動画撮影をしてもらう為、普段バックDJとセットでLIVEするのだが旅では僕一人でDJの役割もこなさなければならない。
そこで僕が選んだ機材はSP-404SXだ、この機材を使って自分で音を出して自分でRAPする。後は自前のマイクでストリートLIVE用の支度は整った。
次に必要なのは移動するための車だ。最初自分の車で旅に出ようとも思っていたが道中の車両トラブルやメンテナンスを考慮しレンタカーがいいなと考えた。またせっかく車で日本一周するのならその事がわかるペイントを施した車がいいなと思った。
そこで妻がレンタカー屋さん30社以上にその旨のメールを送ってくれた末、一件のレンタカー屋さんが返信をくれた。トヨタレンタリース山梨さんだ。
早速返信をくれたトヨタレンタリース山梨さんの三谷さんと電話で今回の旅の話を聞いてもらった。
P「〜と、まぁこのようなストリートLIVE旅を考えてまして、是非お力をお借りできないかと思いご連絡させて頂きました」
三「面白い企画ですね!よくこんな時期に決断されましたね!地元のアーティストの方ですし何か協力したいです。法人という事ですし協力出来る事も多そうです。今のお話をお伺いした上でうちの会社としてお手伝い出来る事として、お貸しする車に『ナイスパニック』のロゴをラッピングする事は出来ます。またそのラッピング費用もうちで出させて頂きます。」
P「マジすか!?アガるー!ありがとうございます!めちゃくちゃ嬉しいです!」
三「他にも微力ながらご協力出来る事もありますので、また細かいお話はご来店された際にゆっくり決めましょう」
電話を終えとてもいい返事がもらえて嬉しかったのと同時に、大変だったけど会社を作ると決めて良かったー!!!と心底思った。アユキくん、長山さん、早速でした!ありがとうございます!
数日後、三谷さんから送られたナイスパニックカーの仮デザイン資料を見てブチ上がった。
P「ロゴの下にあるSupported by トヨタレンタリース山梨、ここが一番アガるポイントだな。ナイスパニック」
無事旅の車も手配出来、順調に旅支度を進めていた頃、念願の1st Album ナイスパニックが工場から届く。
PONY名義の時にもう何回も経験した事あるはずの出来立てホヤホヤのアルバムとの初対面『開封の義』、なのに今までで一番待ち遠しく緊張した。最初の開封、中を傷つけないように慎重にガムテープに刃を入れ丁寧にダンボールを開ける。
そして手に取ったアルバムをしばらく見つめた末、最初のリスニング。いつものCDプレイヤーにディスクを入れ一服しながら再生ボタン。これまた開封の義では恒例の事なのだが、アルバムを聴き終えて否、聴いてる最中から泣ていた。ナイスパニック。
僕は完成したアルバムと、アルバム記念に作ったゴールデンパニックTシャツとステッカーを持ってこのアルバム制作に関わってくれた方々に手渡しに行った。会う予定がつけられなかった方と韓国のTRACKメイカーRyu-basilには郵送させてもらった。これで旅支度はほぼ終了だ。
2020年6月17日、PONEY 1st Album ナイスパニックが全国のCDショップにて発売された。
まだ出歩く人がほとんどいない街のCDショップにて。
僕は発売日のこの日、氏神様にお礼参りをし、アルバムを奉納させて頂いた。
僕は二礼二拍手一礼する中、心の中でこう唱えた。
「これから嫁とナイスパニックな旅に出てきます。今日も明日もいつもありがとうございます。いってきます」
ツアー出発予定の前日、政府から出されていた県をまたいでの移動自粛の要請が解除された。
これで心置きなく旅をはじめられる。
Let's nice panic
つづく