蓮台寺ミナトSS『過去と未来の物語』第二章9~11
第2章ー9 順調な歩み
「なぁなぁ、鐘太郎のお姉さんすげー美人だって聞いたけどマジか?」
昼休みにいつも通り屋上で飯を食っていると、隣に座っているクラスメイトが話しかけてきた。コイツはなんて名前だっけかな。
「美人?あー、えっと……いや、もしそうだとしてもあんまり自分の肉親って褒めたりしなくないか」
「須崎から聞いたんだけどよ、なんていうか、銀髪のロングが良く似合う美人らしいじゃないか。おいおい、鐘太郎も実は外人とのハーフだったのか?」
「俺はれっきとした日本人だが……何?外人?誰かと勘違いしていないか?」
「いいや、須崎が言ってたぜ。日本人離れした美しい銀色の髪と、滅多に笑顔を見せない優秀そうな澄まし系美女だってさ。もしゲームに登場するなら絶対水属性だぜって須崎が」
水属性じゃなくて、クール属性だよ。いや何の話だ。そうか、須崎の前ではすごくつっけんどんな態度だったのかもしれない。俺の前では底抜けの明るさとポンコツさだが。
「いいなぁ~!憧れるよなぁ~!なぁ、お姉さんって彼氏いるのか?」
矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる隣のやつ(名前わからない)にうんざりし、俺は須崎に話しかけた。
「須崎、お前ミナトのことをどんな言い方で触れまわってるんだ」
「決まっているじゃないか鐘太郎君。難攻不落の絶世美女だと。その通りだろう?」
世間に与えているミナトのイメージと、俺の中でのミナトのイメージが全然違う。やはりあいつの外面の悪さが原因だろうな。心を許していない相手には社交辞令すらしないからな。そして、俺は一度彼女と恋仲になってるから、難攻不落というわけではないはずだが。
「やっぱりそうかぁ〜!なぁなぁ、鐘太郎もやっぱりお姉さんと仲悪いのか?」
名前のわからないやつが、かなりの勢いで家庭環境に踏み込んでくる。そんなことまで訊かれたら答えなきゃいけないのか?友人関係というやつは。そうまでしないと友人というのは作れないものなのだろうか。言いたくないことまで言わないと、関係を維持できないっていうのは、嫌だな。
「こらこら、鐘太郎君が困っているじゃないか。それに、恋人の有無を訊くのは失礼だろう?」
俺が露骨に嫌そうな顔を見せていることに気付き、須崎が助け舟を出してくれた。
「ああ、そうだったな、はは、悪ぃ」
「いいって」
俺は礼を言えない代わりに、須崎の顔をじっと見る。須崎はにっこりと笑った。なにも言わずに、言わんとすることが伝わってしまったのが癪だ。
今話しているこの名前のわからないクラスメイトも、須崎が連れてきた。須崎は俺がクラスメイトと仲良くしていないことを見抜いていて、わざと毎日違うクラスメイトを連れてきている。須崎の交友関係の広さの方がむしろ異常と言えるだろう。
……俺もコイツみたいに、なれるだろうか。誰とでも仲良くなって、出会うたびに楽しく話せるような、そんな人間に。俺はミナトに、友達を作れと言われている。クラスメイトに興味を持たないでいることは、もうできない。
「なぁ、えっと……」
「ん?どした鐘太郎」
「えっと、だな……」
名前を知らないから、何も話題にできない。何も質問できない。今更名前を訊くのは、すごく感じが悪いが、もうこの際仕方がない。
「すまん、俺、名前を覚えるのが苦手で……名前、教えてもらって……いいか……?」
今更な、あまりにも今更な質問。怒るだろう。ずっと同じクラスにいて、知ってて当然なのに。さっきまで、何の気もなく隣で談笑していたはずなのに。気を悪くさせてもう仲良くなれないかもしれない。すまん須崎、俺が不甲斐ないばっかりに。
「あっはは、そうだったのか!まぁ確かに、名前を知らないと会話しづらいよな。俺は河津だ、流石にこれで覚えてくれるな!」
「ああ、河津、ああ、覚えた。覚えたよ」
怒られなかった。河津、良いやつだ。もう、忘れない。俺はちゃんと一人一人と話していく。須崎ほどにはなれないけれど、友達を作るのは大事と、ミナトが教えてくれたから。
「羨ましいよ、河津くん。僕は彼に、最初全然名前を覚えてくれなかったんだ。今でこそこうして仲良くしているけれど……」
「わるい、お前の名前は忘れた。誰だっけ」
「さっきまでちゃんと呼んでくれてたじゃないか、鐘太郎くん……」
弁当を囲む俺たちを、笑いが包み込む。楽しいな。
河津は弁当を食べ終わると教室に戻っていった。屋上には、座ってもたれたまま休んでいる俺と須崎だけ。
「ありがとうな須崎」
「鐘太郎くんが素直にお礼を言うなんて、明日は槍が降るなぁ……傘持ってこないと」
「傘なんて意味ないだろ。盾が要るからちゃんと持ってこいよ。家に帰ったらあるだろ?」
軽口を叩き合いながら、ブリックパックに僅かに残った牛乳をすする。何に対する礼なのかは、もう訊いてこない。しかし俺は、河津を連れてきてくれて友達になる機会を与えてくれたこと、河津からの質問攻めから守ってくれたこと、その両方の意味を込めたつもりだ。
「しかし鐘太郎君、きみは頭が良いのに、どうしてクラスメイトの名前を覚えてないんだい?」
「なんでって言われてもな……俺にもよくわからん。例えて言うなら……学校の授業なんかは俺の頭の中に保存しようとするんだ。そうするともう忘れない。だが、記憶に残す必要がないなと思ったものは、保存をかけずに終了してしまう」
「鐘太郎君の頭はパソコンか何か?」
「例えて言うならだよ。なんかそんな感じなんだ。名前を覚えようと思っていなかったんだよ」
「どうせ関わることが、ないから……?」
その通りだが、他人に言われるとムッとくる。しかし、正しいのは明らかなので、反論はできない。とはいえ首を縦に振ることもできず、ただ黙ることで肯定を示した。
「意地悪を言ってすまない。しかし、どうして最近は積極的になったんだい?何か理由が?」
今度こそ、その質問には答えられない。『ミナトに友達を作れと言われた』などとは。姉に友達を作れと言われたから友達を作ろうと思ったなどとは、恥ずかしくてとても言えたものじゃない。どういう言い訳をしようかと考えようとしたが、俺はその時、『本当にただミナトに言われたからなのか』という問いが頭をよぎった。
そうでは、ないんじゃないかと思う。俺は俺で、友達を作るのは大事だと思うようになってきている。誰からも好かれず、クラスのみんなから拒絶され、父親からも拒絶され、母親にもほとんど会ったことは無い、そんな暮らしの中で鬱屈してしまった当時の考えは、やはりもう当時の考えでしかないのだから。こうしてたったひとりとは言え、ふざけ合いながら傍から離れないむずがゆくも心地いい感覚を知ってしまった今、煙たい視線を投げてくる奴らしか居ないと断じていたクラスメイトたちが実は割とみんな良い奴ばかりだったと分かってしまった今、この感覚をたくさんのクラスメイトと共有したいと思うようになっていた。もしそれができたなら、初めて感じることができるかもしれないのだ。『学園生活が楽しい』、と。
そうなると、どうして最近積極的になったんだという問いについての答えは、明確にただ一つ、『友達が欲しくなった』ということに尽きる。しかし、一匹狼を気取ってきたプライドが邪魔をする。だから俺は代わりに、
「お前みたいになりたいと思ったんだ。須崎」
と、言った。
「…………はは、ずるいよ、鐘太郎君」
須崎はしばらく呆然と見つめた後、ゆっくりとメガネのずれを直した。
「どこがずるいんだ」
「なんでもない」
須崎は立ち上がり、ズボンについた小石を払う。
「もう行くのか」
「ちょっとこの後の用事を思い出してね」
須崎は弁当箱を持って去っていった。頑丈な扉が閉まる音が響き渡ると、俺はひとりつぶやいた。
「何がずるかったんだ……?」
家に帰ると、珍しくミナトが台所に立っていた。
「おかえり♡」
「ミナトが料理してるなんて、珍しいな」
リュックを放り、学園制服のネクタイを緩めながら近づく。魚を焼くにおいだ。
「前に失敗しちゃったからね~、次こそはうまくやるわ♡」
数日前に、美代子さんが買ってきてくれた夕食用の金目鯛を、ミナトが突然自分で焼きたいと言い出して、結果それを見事に黒炭にしてくれた。炭になっていないところをがんばって探して食べて、なんとか彼女の面目を保ったのだが……
「今日は炭を食べたい気分じゃないぞ」
「もお~!意地悪ね!ちゃんと学んだから大丈夫よ。今度こそ。たぶん」
後半になるにつれて声量が小さくなる。
「一度失敗したのに、また挑戦するんだな」
「そうよ!」
我が意を得たりといった表情で、腰に手を当てて自慢気に話す。
「私は一度の失敗で懲りないのよ。失敗から学んで改善することこそが、歴史なの」
大層なことを言っているが、つまりは1回目はなにも学ばずに挑戦したってことだろう?……とは言えず、俺は彼女の話に相槌を打つ。
「私は歴史が大好きだから、こうしてできなかったことができるようになることも、大好きなの」
俺は大抵、一度マニュアルとか説明書を読んだり、誰かにやり方を聞いたら一発で成功する。書かれている通り、聞いた通りにやればいいだけだからだ。何も難しいことはない。しかし、世の中はどうもそうではない人たちばかりでできているらしい、というのは学園生活で学んだ。しかし、俺はそこから、その事実以上のことを学ぼうとはしてこなかった。
俺にだって、出来ないことがあり、出来なかったことに対して即座に見切りをつけたりせずに何度も挑戦すれば、いずれはできるようになることがあるのかもしれない。そう、すぐに諦めてしまった、学園での友達作りのように。
そこをいくと、ミナトは一度の失敗では諦めずに何度も挑戦しているという。魚を焼けたくらいで誇らしげに胸を張ってそり返り、爪先立ちしている彼女が、なんだか急に眩しく見えた。
「今度は、うまく焼けてるといいな」
「えっ…………ショータくん、大丈夫?」
「は?なに……う、うわっ!」
突然ミナトは俺のすぐそばまで歩み寄り、目を閉じて俺に顔を近づけてくる。俺はとっさにのけぞったものの、目をつぶっていたら額に何かが触れた感触があった。目を開ける勇気はない。すぐそばに唇があるはずだから。
「熱は無さそうね♡」
そうだろうか。現に俺の頬はもうどうしようもないほどに熱を持っていた。
そして夕食。
「「いただきます」」
「……」
「……ミナト」
「どう?おいしい?」
「味噌汁に出汁入れ忘れてるだろ」
「……あれ~~?私、またなにかやっちゃったかしら?♡」
「それは本当にポカしたときには使わねえんだよ」
◇ ◇ ◇
午前6:00。ぼやけた視界には、カーテンの隙間から入り込むはずの朝日が入ってこない。
季節はもう冬。まだ明けていない景色を見るために、常夜灯の光だけを頼りに起き上がってカーテンを開いた。
カーテンを開けた時点で、いつもだったらとっくに眠気も覚めているはずだが、今日に限ってはなぜかまだ眠い。
恐らく理由としては、夕べなかなか眠りにつけなかったことであろう。その原因は他でもない、ミナトが夕べの額同士を合わせて体温を測ろうとしたことだ。あんなに顔を近づけたのは、久々だった。
しかし、なぜ今更あの程度で。俺は過去にミナトを抱いている。それも何度も。なのに今更、額をくっつける距離に顔を近づけられたくらいで。確かにキスしそうな距離だったし、あの頃のキスを思い出したけども。そのせいで、夕べは全然寝付けなかった。自分で慰めても、なかなか寝付けなかった。
ミナトのぬくもりが欲しい。
恋しさは募るばかりだった。無性にベッドへ戻りたくなって、珍しく二度寝を決め込もうとする。しかし、今まで自分がいたベッドは温もりが薄まっていて、余計に虚しくなるだけだった。
朝食の準備をしなければ。今日は休日だが、いつだってこのルーティンは欠かさない。きっといつか、幸せだったあの頃に戻れると信じて。いつかきっと。
下田の方へ買い物に出るために身支度をしていると、ミナトが声をかけてきた。
「あら、どこかへ行くのかしら〜?」
「ああ、ちょっとそこまでな。え?ミナト、その格好は……」
「うん、どうかしら♡」
ミナトの格好はいつもの黒ずくめの格好ではなく、黒のロングスカートの上には白のブラウスに真っ赤なジャケットを羽織っていて、かなりアーバンな服装だ。おまけにマフラーやベレー帽まで装着済みだ。
「ずいぶんとお洒落をしているな、ミナトもどこかへ行くのか?」
「ううん、この服はね、協会が送ってくれたの。もう冬だからね。可愛いから、早速着てみたのよ。ねぇ、それでどうかしら♡」
はぁ。口に出さないといけないらしい。恥ずかしいが……
「……ああ、可愛いと思う。似合っているぞ」
俺のその言葉に、満足げに息を大きく吐くと、スタスタと歩み寄ってきた。
「じゃあ、このまま横浜でも行きましょ〜!」
「な、なんで急に!」
ガッチリと腕に絡みつかれる。有無を言わせない雰囲気だ。ちょっと下田まで生活品を買いに行こうとしていただけなのに、気が付けば都会へとショッピングデートすることになってしまっていた。
……デート?
伊豆急行に乗って熱海で乗り換える。ホームで隣に立つミナトを横目で見ると、白いブラウスと赤いコートが本当に良く似合っている。彼女が記憶を失くす前もずっと思っていたが、美人を隣に連れていると妙に誇らしく感じる。まぁ、周りからはミナトが見えないわけだが。
「でね、平成初期の頃は熱海駅で新幹線に乗る人は平均して1日に7000人くらいいたんだけど、今は2200人くらいしかいないの。旅行と言えば熱海!って感じじゃ、なくなっちゃったのね」
相変わらず歴史を語り続けるミナトに、俺は「ふぅん」と返す。確かに熱海で降りると分かるがやはりシャッターは目立つし、新婚旅行を熱海でというのはもはや聞いたことがなかった。昔はそうだったらしい。
「じゃあミナト、今は新婚旅行というとどこに……えっ」
「ん?」
俺たちのすぐ後ろに並んだ2人組の女性、見覚えがあった。西洋人形のように綺麗な、脚まである灰色のウェーブ髪が特徴的なでんこを連れた女性。彼女も俺の視線に気付き、顔をこちらに向ける。
「あっ、キミは……」
「ステーションマスター……ですよね」
確かめるように恐る恐る訊くと、彼女は微笑んだ。
「やっぱりそうだ!久しぶりだね」
初めて声を聞いた。綺麗な声だ。高くて澄んでいる。
落ち着いた色のブラウスとロングスカートをかっちりと着こなした物腰柔らかそうな女性で、全体的に優しそうな雰囲気が漂う。
「ええっ!ショータくん、お知り合いなの?」
ミナトが警戒心を露わにしながら問いただしてくる。
「いや、知り合いっていうか、なんというか……一度会ったことがあるんだ。だよね、お姉さん」
ミナトも会ったことがあるはずだが、当時の記憶は消えているはずだ。
「私もキミと同じ、ステーションマスターなの」
そう言って、隣のでんこへと目を向ける。恥ずかしがり屋なのか、注目が集まっているのを感じた幼い見た目をしたでんこは、マスターの腕にしがみついた。
「岩国、みづほです……」
「みづほちゃんって言うのね!可愛いわ!♡」
ミナトはみづほに目線を合わせるように屈み、笑顔を見せる。みづほと名乗るでんこは、ミナトがでんこであると気付き、笑顔を咲かせた。
「聞いてはいたんですけど、俺以外にもステーションマスターって、本当にいるんですね」
「私もキミが初めてで!本当に驚いたんだぁ。ねぇ、今から時間あるかしら?他のステーションマスターのお話、聞きたいの」
年上のお姉さんからきた突然のお誘いに、俺は驚いてしまう。しかし、ミナトは俺よりも更に驚いた様子だった。
「え、えっとぉ〜、残念だけどもうすぐ電車来ちゃうから……」
「どうしたんだよミナト。別にいいだろ電車一、二本後にするくらい」
「こらこらいけないなぁ〜ショータくぅ〜ん、この後大事な用事があるでしょぉ〜?」
「は?いやそんな用事なんて何も無かイタタタタタ!」
ミナトのやつ、足を踏みつけて重力制御を緩めやがった!
「き、キミ大丈夫?どうかしたの?」
「な、なんでもないわ!ほほほほほ」
い、痛えー!しかもなんだミナトのその高笑いの誤魔化し方といい、踏みつけといい、古(いにしえ)すぎるだろう。
「そう……?まぁいいや、それにそうよね、確か前会った時もそうだったけど、確かキミとでんこちゃん、なんだかすごいラブラブな感じだったし、邪魔しちゃうと悪いかしら」
「いやっ!えっと!それは違うの……私とショータ君は……いやでも違わないっていうか……ああ嘘!やっぱり違うの」
ミナトは慌てふためいていて、何が言いたいのかわからない。確かに俺たちは前回会った時ラブラブを見せつけてしまっていた……主にミナトの暴走によって。
「確かそうだったよね。前は手も繋いでいたし……当たってたら申し訳ないけど、もしかして別れちゃったの?」
「別れたっていうか……そもそも付き合ってたことはないっていうか……!いや付き合ってたことはあるんだっけ……?で、でもでも、手を繋ぐのなんて、ほらっ、付き合ってなくても別に普通よ!」
と言い、突然俺の手を強く握った。俺とミナトが手を繋いだのは、あの日々以来だ。途端に今度は俺の心臓が跳ねる。
「ミ、ミナト……!」
反射的に振り払おうとしたものの、心がそれを拒否し、動かなかった。繋いでいたい。あの時からずっと届かなかったこの手、ずっとそのまま繋いでいたい。
「そうなの?とても仲良しなのね。私とみづほも、いつも手を繋いでるから仲良しよっ」
『ねー?』と、みづほというでんこに対して同意をとるステーションマスターのお姉さん。みづほはこくりと頷く。基本的に口数が少ないタイプのでんこのようだ。ウチとは大違いだ。右隣にいるミナトを見る。目が合いそうな感じがしたので慌てて手元に視線を落とした。半年ぶりに繋ぐ、ミナトの手。熱くて、細くて、柔らかい。俺の手からじんわりと手汗が出ている気がする。
「どうしたの?大丈夫?」
心配する声に、俺は大丈夫だと返事をするだけで精いっぱいだった。
みづほとそのマスターのお姉さんは、結局カフェに行くからと立ち去ってしまった。気を遣わせてしまったな。だってお姉さんたちも俺たちが今いるホームに来たということは、俺たちと同じように高崎行に乗るつもりだっただろうに。
お姉さんたちが立ち去ってから、ミナトはずっと黙っている。特に何かを言う必要が無いと言えば無いが、しかし俺たち2人の間には、妙な空気が流れていた。
手を、握ったまま未だに離していないのだ。
もうお姉さんは目の前にいないのだから、別に離しても構わないのだ。俺は離したくないけど。
前回会った時と雰囲気が違うことを指摘されたのを誤魔化す為に手をつないだのだから、お姉さんが目の前からいなくなった今、手を繋ぎ続ける理由は何もないはずなのだ。俺は離したくないけど。
どちらも手を離したり手を繋ぎ続けていることを指摘することもないまま電車が到着し、俺たちはそれに乗り込む。シートに隣り合って座った後も、手を繋ぎ続けていた。俺たちは謎の合意を共有しているようで、不思議と心が通じているような気がした。
『お互いに指摘しない限りは、手を繋ぎ続ける』
そんなモラトリアムの約束を無言で交わしたような感覚を信じ、実に1時間半近くもの間、ずっと手を握り続けていた。その間、俺たちは全く話すことはなかったし、また離すこともなかった。
電車から降り、しばらく歩いていると、ついに改札までくる。解っていた。ここでどうしても手を離さざるを得ない。握っている右手を使って、右ポケットにあるスマホを取り出さなければならないからだ。俺は立ち止まると、右手の力を抜き、ゆっくりと手を離した。ミナトが、「あっ……」と小さく声を上げる。俺はポケットからスマホを取り出し、自動改札機にかざす。改札機を抜け、俺は振り返って改札機を抜けてくるミナトを待つ。少ししょんぼりしたような表情のミナトが近づいてきたとき、俺は。
「……ん」
ミナトはしばらく、差し出した俺の手元を見て固まり、そして満面の笑みを浮かべてから、再び差し出された俺の手を握ったのだった。
実のところ、繋いだ2人の手の間にじんわりと染み出した手汗は、鐘太郎のものではないかもしれなかった。
記憶が消えているミナトにとって、鐘太郎の手を繋いだのはこれが初めてとなる。しかし、自分の記憶の中には無くとも、公には過去に手を繋いでいたという事実があるらしく、それが不思議なことに勇気をくれたような気がした。『過去に何度も手を繋いでいる』という事実は、例え自分の中に記憶がなくとも心理的ハードルを下げてくれたようだ。手を繋いだ時、ミナトは妙な感覚を抱いていた。少年ながらも自分よりわずかに大きい手。ごつごつとした関節。目の前の男の子は、どうしようもなく『男の子』だった。なんだか安心する気持ちがありつつ、しかしそれ以上に緊張していた。
ミナトは思い返す。自分から手を握ってしまった。彼の方から男らしく手を取られ、主導権を握ろうと奔走する男の子を大人のお姉さん目線で見守り、時には主導権を握られる振りをし、時には狼狽する少年をからかい、強くまっすぐな想いをぶつけられてお姉さんの心はいつの間にか少女へと戻っていく……そんな理想的な関係を、彼は今のところ理想的に演じてくれているし、さっきからいつまでも握った手を離したがらないところは可愛いと思えるが、しかしやはり最初に手を繋ぐのは彼の方からがよかった。男らしくダイレクトにでも、緊張しながら恐る恐るでも、どちらでも大歓迎だったのに。
そんな妄想はいつだってしてきたのに、結局アプローチをするのは私からばかりだ。もはやそういうものなのかもしれない。無理に相手からの進展を待つよりは、私の方からぐいぐいと行くべきなのかもしれない。それがお姉さんの役割なのかもしれない。しかし最後の最後、大事なところは……と、ミナトは結局頭の中で何も進歩していない結論を繰り返し続けた。
駅前のショッピングモールを、何を探すでもなく散策をしていると、化粧品の店に差し掛かった。ミナトは目に入ったものを何気なく手に取る。
「化粧水、欲しいのか?」
化粧水を手に取っているようだから何気なく訊いてみると、彼女はこちらも見ずに応えた。
「違うわ、見ているだけよ」
そしてミナトは、俺に見せつけるように化粧水を掲げた。
「昔はね、これくらいしかなかったそうよ」
「化粧水、しか?」
「1980年頃、まだアンチエイジングという考え方自体が無かったころは、お肌は保湿することしか重要じゃなかったそうよ」
歴史の話だな。やれやれ、聞いてやるか。
「そこから、小麦肌に焼けてこそという時代があったり、一転して白くて透明感のある肌が一番美しい……とか、色々価値観も変わっていったのね。そこから『シミを消したい』とか、『いつまでも若い顔でありたい』とか、女の子はいつまでも綺麗でいたいのよ」
いつまでも綺麗でいたい、それは女性が持つ普遍的な価値観だろう。
「でも私も、憧れはあるわ」
「そりゃあ、お前も女の子だしな。いつまでも綺麗でいたいだろう」
「違うわ」
不正解よ、と言いたげな、寂し気な顔を見せる。何か言葉を間違えたのだろうか?
「私は、いつまでも綺麗だもの」
何を傲慢なことを……と言おうとして、はっと気付き口を噤んだ。
ミナトはヒューマノイドだ。見た目はずっと変わらない。少女のままだ。
「私が憧れるのは、『年相応でいること』よ。その時その年齢の考え方を大切にしたい。そりゃあ、いつまでも若く見られるのは嬉しいことでもあるわ。私も女の子だし。でもそれと同じくらい、私は自然体でいたい」
「自然体……?」
「若いときは可愛く、華やかに……妙齢になれば凛々しく艶やかに……壮年になれば淑女らしく落ち着きのある女性に……変に背伸びせず、変に若返らず。私は私が年を経るまま、楽しく生きたいの」
それは一見、変わった考えのようにも思えるけれど、俺はそれを笑うことなどできない。だって彼女にはそれが『できない』のだから。17歳程度の見た目の身体を持って生まれ、たくさんの歴史に関する知識を持って生まれ……そしてそれは衰えることがない。
普通に年を経て、普通に老いて、その年代ごとに合わせて生き方を変えていくということは、ミナトにとっては憧れなのだ。だってそれが、
「それが私の『歴史』、でしょう?」
歴史に人一倍の憧れを持ち、なのにその彼女自身の歴史を重ねることが許されない。こんな悲しい運命って、あるのか。でも……
「こういうのを見ると、やっぱり私って人間じゃないんだなぁって、感じるわね……」
ちらりと俺を見て溜息を吐きながら、化粧水ボトルを陳列棚に戻す。
「確かにお前は、見た目は変わらないかもしれない」
「……」
「でも、それが歴史を積み重ねられないこととは、違うと思う。いつまでも綺麗かもしれないが、ヒューマノイドだって機械だ。いつかは壊れる。それを死と言うなら、人間となにも変わらない。大事なのは、自分の意志で何をするかだろう」
「ショータくん……」
「老いることより、老いないことより、何を求めて何を為したか。それをもって歴史としたいな、俺は」
その言葉がミナトにとって、衝撃を与えたわけでも、ミナトの心に一陣の風が吹いたわけでもないが、何かが染みるようにゆっくりと、心に満ちていった。自分の為したことが自分の歴史となるのならば、私は私の行動次第で私の歴史を作れる。自分で動けば、どんな歴史だって。
「ショータくん」
心が晴れやかとは、このことだろう。私はヒューマノイドだけれど、自分で自分の歴史を作ることができる。私は、なぜずっとこの思いを認められなかったのだろうかと考えていた。それは彼と歩んできたはずの歴史が私には無く、逆に彼の方は私を抱いた歴史があることによる余裕の差だったのかもしれない。だって私は、お姉さんだから。でも、手を握った時に彼の手汗を感じて、ああ、まぁ、それなら構わないかなという気持ちになった。
歩き出そうとした鐘太郎の裾を掴み、強く引っ張る。苛立ち交じりに向き直る鐘太郎に、私は……
「ショータくん、私ね……っ!」
その瞬間、ミナトは目を見開き、しばらく虚空を見つめた後、眉尻を下げて手を離した。
「なんだよミナト、ほら行くぞ」
「う、うん」
何事もなかったかのように笑顔を作り、2人は歩き出す。
ミナトは、言わなかった。
“メンテナンス通知”が、再び届いたことを。
第二章-10 すれ違う日々
ミナトが、笑わなくなった。
これまでと変わらず普通に暮らしているのだが、これまでの暮らしの中からミナトの笑顔だけがすっぽりと抜け落ちてしまった。変な言い方になるが、特に不機嫌なわけでもないのに、機嫌が良くないように感じる。何が無くとも笑ってばかりで常にご機嫌だったあのミナトが、いつの間にか別の誰かに替わってしまったかのようだ。
思えば一昨日2人で行ったあのショッピングモールからだった。あの時に何かまずいことでも言ってしまったのだろうか?それとも体調が悪くなったのか?理由を聞いても応えてくれない。最初のうちはどうしたんだと何度も訊いたが、そのたびに特にないわという返事しか返ってこず、これ以上訊いても埒が明かなさそうだしわずかな苛立ちをミナトから感じたからこれ以上訊かないことにした。
しかし、あれから2日経つが未だに元に戻らない。あの時手を繋いでくれたのが嘘のように、常に距離を取って過ごしている感じがする。今もそうだが、食事は一緒に摂る。一緒には摂るが、それ以外は自室に籠りっぱなしのようだ。俺のことを嫌ったり怒っているような感じもしないから、余計に不気味だ。『同じ家で寝食を共にするだけの他人』のような扱いで、気持ち悪い。原因がはっきりしていて俺が反省したり改善したりすることで元に戻るのであれば簡単なのだが、原因がわからなければどうしようもない。
「なぁミナト」
俺は箸を置いて、意を決してミナトに話しかける。話しかけるのは夕飯が出来たことをミナトに告げた時以来だ。彼女は無感動に食事を続けている。
「頼むから、いい加減教えてくれないか、理由を」
「なんでもないわ」
返事はするが、食事は止めない。真面目にとりあう気がないのか。
「なんでもないことないだろ。以前のミナトはこんな感じじゃなかった」
「確かにそうだけど、でもなんでもないのよ」
「俺が悪いんだったら意地悪せずに言ってくれよ。じゃないとずっとこのままじゃないか」
「鐘太郎くんが悪いんじゃないし、ずっとこのままでもないわ」
「じゃあどうしたら元のミナトに戻ってくれるんだよ!」
「元には……元にはもう……」
ミナトは箸を置いて、聞こえないほど小さく御馳走様と告げて、俺の制止の声も無視してそのまま2階へと上がってしまった。
俺は脱力して椅子にもたれかかる。見上げた先のシーリングライトが眩しいのに、嫌な夢の中にいるようなぼんやりとした気分は晴れなかった。
俺ではどうしようもないのか。俺のせいではなく、ずっとこのままではない。どういう意味なのだろう。このままなし崩し的に、ステーションマスターの仕事も終わるのだろうか。元々やりたくて始めたものではないが、今では鉄道を守ることに一役買っているということに誇りを感じている。ただそのモチベーションも、ミナトと一緒にやっているからというところが大きい。ミナトと一緒に出来ないのなら、俺は……
◇ ◇ ◇
昼休み、ひとり屋上で座り込み、雲を見ながら授業時間が来るのを待つ。身体はとっくに冷え込んでいたがそれでも教室へは戻る気にならず、空になった牛乳のブリックパックを持ち続け、何もせずにただ時間が経つのを待った。
ドアが開く音に、少し驚いた。姿を現したのは須崎だった。
「また一匹狼気取りかい?」
俺は何も返事を返さなかった。そんなことすらもう面倒くさい。
「何か悩んでいるんだろう。そんな顔をしているよ鐘太郎くん」
何か悩んでる顔って、どんな顔だよ。悩んでますって額に書いているわけでもないのに、俺の何が分かるというんだ。
俺は更に無視を決め込んだ。すると須崎は、俺の隣に座り込み、
「ミナトさんのことだろう?」
と言った。
「その顔は当たりだね」
「なんでもねーよ」
奇しくもミナトが俺に言った言葉が、俺の口からも出た。言いたくなかっただけなのだろうか、ミナトも。
「本当になんでもなかったら、そんな態度は取らないんだよ。鐘太郎くんは」
「なんでもないのになんでもない以外どう言えばいいんだよ」
「『助けてくれよ』じゃないのかい?」
「バカにしてんのか!」
大声で威嚇したその瞬間、俺は衝撃を受けた。左頬が熱い。コイツ、殴りやがった。何をしやがるんだこのぶっとび青春野郎が……!
「てめぇ!今時殴り合いで問題が解決するとでも思ってるのかよ!漫画じゃねえんだぞ!」
そう言いつつ、素早く須崎の胸にストレートを叩き込む。反射的な動きだった。
「……思っているよ。だって僕らは今、そういう年齢だ」
お前まで、その年齢に合った考え方を……だなんて言うのか。それが歴史を積み重ねること……だなどと、まるでミナトのようなことを言うのか。
打撃を受けてずれた眼鏡を直すしぐさで、須崎の表情は読み取れない。しかし俺の方を真っ直ぐ向き直すと、その眼鏡の奥の鋭い瞳で俺を射貫きながら、須崎は吼えた。
「何日も何日も……拗ねたままひとりで不貞腐れて、いい加減にしろ!」
身体つきの大きい須崎が、タックルをしかけてくる。このままマウントポジションを取って俺を倒すつもりだろう。俺はすんでのところでそれを躱す。格闘技はやっていないが、体格差が大きい相手に挑むときにやってはいけないことはなんとなく本能的に分かった。ほとんど反射的に動いて、夢中になって防御と攻撃を繰り返した。何も考えられない。ただ目の前の相手を倒さないと、何も解決しないから────
漫画のようにお互いボロボロになって息を荒らげながら倒れこみ互いを認めて友情再確認みたいなことをしたくなくて、さっさと数撃で青春野郎を倒してしまいたかったが、格闘技をやっていない弱いパンチではお互いを倒すこともできず、結局疲れが先にきてボロボロになったままお互い倒れこんだ。
「くそ」
「はぁ、はぁ、とりあえず、何があったかだけでも言ってくれよ。力になりたいじゃないか」
「ミナトが……少しおかしくなったというか、冷たくなってな……」
なぜだか、素直に話し始めていた。これが殴り合いの効果か。
「え、ミナトさんは、元々クールなタイプではなかったか?」
「いや、違うんだが……」
すごく言いたくなかったが仕方なく、ミナトは普段俺以外には冷たくて俺にだけは温かく接してくれて最近まではほぼ恋人のようにデートもして手を繋いでいたこと、そして今は態度が豹変してしまっていることを話した。
「やはり青春パンチではなくしっかり殺すべきだったようだね」
「な、なにを言ってんだよ須崎、話せって言ったのはお前だろ」
「冗談だよ、鐘太郎くん。しかし、それは意味が解らないね。横浜でデートをしているときに突然何の脈絡もなく態度が変わったのだろう?」
「そうだ。しかし、その何かが解らない」
「やはり君が怒らせる何かを言ったとしか思えないが」
そう言うだろうと思った。俺は性格が悪いやつで通っているからな。俺もその可能性ばかり考えていたが、やはりどうしても俺が原因で怒らせたとは思えない。それに、ミナト本人もそうではないと何度も言っているし、そこを疑う気にはもうなれない。
「俺は……どうすりゃいいんだろうな」
「どちらにせよ、鐘太郎くんには言えない、言いたくない何かが原因であることには間違いないからね、それを言ってもらわないことには」
それは確かにそうだが……しかしそれができれば苦労はしない。現にもう何度も拒否されているし、これ以上言ってもいたずらに相手を刺激するだけだ。
「青春パンチはしないぞ」
「当たり前だろう鐘太郎くん、相手は女性だ」
それに、勝てないだろうしな。乗りかかられて重力制御装置を切られたら終わりだ。
「でも鐘太郎くん、何もしないでいるのは後悔しかしないよ」
「それは、そうだが」
「このまま、なにもしないまま、ふらっとミナトさんがどこかへ行ってしまってもいいのかい?」
◇ ◇ ◇
「ただいま、ミナト」
「…………えっ」
夕方に家へ帰り玄関の扉を開けると、ちょうど階段を上がろうとしていたミナトにばったり会った。
どうせ冷たく返されるだろうと思っていたが、意外な反応を見せた。
「どうしたのその傷……!大丈夫……?」
「あ、い、いや……ちょっと喧嘩というか」
「ちゃんと消毒したの?どうしよう大変だわ……!」
救急箱を取りに走る姿は慌てふためいている。ミナトのこんな姿を見たのは久しぶりだった。
「なんというか、ミナト、もう体調?は良くなったのか……?」
「今はそんなこと、どうだっていいの」
間髪入れずに話は却下され、擦り傷や打撲傷に手当を施していく。俺は黙って施しを受けた。
腕に包帯を巻いたり、顔に傷テープを貼る時にもミナトと密着して俺はどきどきしていたが、ミナトはお構いなしの様子だった。
「これでよし……!なにがあったかは知らないけれど、喧嘩はしちゃだめよ?」
お前のことについて喧嘩をしたんだよとは言えず、ああ、と短く返す。
「ミ、ミナト……あのさ」
ミナトは思い出したかのように澄ました顔になり、さっさと自室へ戻ろうとする。
「待ってくれ!ミナトには、たぶん俺には言えないことがあるんだと思う。でも……」
「ごめんなさい、私もう寝るわ」
意を決した言葉も、ミナトは聞き入れてくれなかった。俺は落胆して、その場にへたり込み胡坐をかく。
しかし俺は、何か変化を感じていた。それになにより、自分から動かなければ歴史は動かない。左腕に巻かれた包帯を見つめる。ミナトが巻いてくれたその包帯の奥で、じんわりと傷口が熱くなる感じがした。
第二章ー11 時が阻む別れ
鐘太郎の目覚ましが鳴る時間は、いつも6時。鐘太郎は、目覚ましが鳴るまでは絶対に起きない男の子。今ならまだ、バレずに帰ることができる。
鐘太郎の部屋のドアを見つめる。逡巡したのちに、わたしはそっとドアを開けた。
部屋の中は暗く、常夜灯の明かりしか見えない。季節は本格的に冬になり、5時台では空も白んでいないだろう。
鐘太郎はいつものように姿勢良く仰向けに眠っている。この寝相の良さは、夜中にちゃんと寝返りを打っているのか怪しいほどだ。
最後に愛しい姿を目に焼き付ける。私に残っている記憶の中では、ついに叶わなかったこの恋。彼のマスターから解任されることになった今、この心はもはや邪魔になるだけだ。しかし、でんこ自身に感情エミュレーターを停止する機能はなく、この内なる気持ちに振り回され続けてしまった。つい先日も、平静を装っていたが鐘太郎が怪我をして帰ってきたときは我を忘れて手当をしてしまい、危うくぼろが出るところだった。全てを諦めて縋ってしまいそうになった。それもようやく、今日で終わる。
「…………」
一目だけでも、と思って部屋に入ったが、逆に離れられなくなってしまいそうだ。踏ん切りをつけるため、最後に大きな想い出が必要だ。そう自分自身を納得させ、顔を近づける。勢いのまま触れさせようとするも、直前で止まってしまう。本当は分かっていたはずだ。最後に顔を見る為に部屋に入ったのではなくて、最後に唇が欲しかったから部屋に入ったのだと。しかし、経験のないことをするのは怖い。時間はどんどん迫ってくる。早くしなければ目覚ましが鳴り、鐘太郎は起きてしまうだろう。迫る時間に背中を押されるように、目を閉じて顔を押し付ける。
ロマンチックのかけらもない、一方的でほんの一瞬。なのに、全身が震えるほどの快感を得てしまったミナトは、逃げるように部屋を出た。
玄関の扉を開け外に出ると、もう既に空は白んで朝焼けが始まり、冷たい空気がミナトの火照った頬を撫でた。後ろ手で扉を閉めると、自分の唇に指を当てる。大きな思い出も手に入れてしまい、いよいよ現代から未来に帰らなければいけなくなってしまった。
後は、転移装置を作動させるだけ。ボタンも何もない。私の中のプログラムを起動して同意するだけ。それだけの味気ない手続きだ。そうすれば、自分とその周囲の安全な範囲を三次元的に空間ごと切り取り、未来へと飛ばす。
思わずこの玄関前まで来てしまったが、思い返せば鐘太郎との出逢いの場もここだった。皮肉な話だ。出会いの場所と別れの場所が同じだなんて。あの時は、酷いことをしたな。でも、仕方ないじゃない?わたしには記憶がなかったんだから。でも、あの時の彼の絶望的な表情を思い出すと胸が痛む。わたしが未来に帰った後、目が覚めてわたしを探す彼は、きっと同じ顔をするだろう。ひどい女だ。しかし、奪取er協会に作られたヒューマノイドである以上、指令には逆らえない。拒否しても強制的に戻されるだけだからだ。
現代に初めてきた時は、夢にみた歴史の舞台、未来から見た過去に飛べたことが嬉しくて、ワクワクしていた。お世話になるマスターに会うのも楽しみだったし、マスターが住む家に行ってみると、明治から昭和ごろの間に作られた日本屋敷なのもワクワクしたし、玄関の呼び出しチャイムも歴史的で面白かった。何度も押してしまったっけ。この時代にインターホンと呼ばれているそれを、真ん中にある黒くて四角いボタンを、押さないように、思い出を慈しむように、優しく撫でる。さぁ、もう帰る時だ。
「さよなら……ショータくん……!」
小さく口に出すと、あれだけ泣いたのにまた涙が溢れ出した。前が見えないが、もう目を開く必要もない。これでよかったんだ。現実を打ち明けて、鐘太郎に悲しい思いをさせるくらいなら、何も知らずに去ったほうがいい。恨まれるだろうけれど、絶望よりはずっといいはずだから。強く目を閉じて、転移プロセスを起動する。身体が光に包まれていく。涙がまぶたに押し出され、頬を伝っていく。その瞬間、目の前の玄関扉が、勢いよく開いた。
◇ ◇ ◇
目覚ましが鳴ると、俺は反射的に腕を伸ばして止める。覚醒までのわずかな微睡の中で俺は考えていた。昨日の須崎との会話。あいつが俺を殴ってまで、目覚めさせようとしてくれたこと。須崎がミナトを諦めたことによって、俺に託したいという思いもあったのだろう。どうせ手が届かないのなら、絶対に幸せにしろよという思いが、あいつの拳には篭っていたように勝手に感じている。
俺は告げなければならない。関係が破綻することになるとしても。いや、最近のミナトの態度を見るに、とっくに破綻しているのかもしれないが。それでも、俺は一番愛してきた女性を、過去から未来まで、ずっと愛していきたい女性を、もうこれ以上遠ざけたくない。もっと近くにいたい。誰よりも近くにいたい!
布団を蹴り飛ばし、隣の部屋へ向かって足を踏み出す。隣の部屋とは、もちろんミナトの部屋。勢いよく扉を開けると、そこには誰もいなかった。起きてトイレにでも行っているのだろうか。ふと枕に目がいき、それに触れてみる。
「……ッ!」
反射的に部屋から飛び出る。この時間にミナトが起きているはずはない。俺が起きてきたばかりのこの時間なら、ミナトは挑戦的な前衛芸術のような姿勢で眠りこけているはずだった。だとしたなら、どこにいるのか。リビングにもいなかった。トイレにもいなかった。書斎にもいなかったし、玄関に靴がなかった。
────玄関に、靴がない?
嫌な予感がして、俺は急いで靴を履く。わからないが、恐らくまだそう遠くまでは行っていないはずだ。ミナトの部屋のベッドには、綺麗に掛け布団がかけられていた。普段なら掛け布団はどこかへ吹き飛んでいるはずなのに。そして枕は……濡れていたのだ。
どこまで走っても探し出してみせると気合を込めて玄関の扉を開けると、目の前に探している女性がいた。
「ミナトッ!!」
飛び出した勢いのまま抱きしめる。ミナトは身体中が不思議な淡い光の粒に包まれていた。
「ひゃっ!……しょ、ショータくん!?」
「ミナト……!おれ、俺……!」
ミナトは困惑しているようだが、もう俺は決めた。俺の中にある気持ちを、ミナトにちゃんと告げると決めたんだ。もう逃げない。
「ど、どうしてここにいるって分かったの?」
「そんなことはどうだっていい!俺、やっと決心がついたんだ」
「……ッ!ダメ!言わないで」
間髪入れずに拒否されてしまう。まるでこれから言う内容が分かっているかのような反応だが、それでも関係ない。伝える。とにかく伝えるんだ。
「いや聞いてくれ!最近ミナトが俺を避けていることは分かっているが、それでももう構わないんだ」
「やだっ、ダメ、離して!」
目の前でミナトが大きく首を振り、銀髪が大きく波打つ。抱きついた俺の腕を引き剥がそうとしたり、胸を押したりして離れようとする。やはり拒否されているのは変わらないが、もう俺は俺の気持ちを抑えていたくはない。
「俺は!俺はミナトが」
「イヤよ聞きたくない!」
「ミナトのことが好きなんだ!」
「………………」
早朝の住宅街に大きく声が響き、そして静寂が訪れる。
「…………ぐすっ」
強く抱きしめているせいで顔が見えないが、ミナトはどうやら泣いてしまった。
「ばか……どうしてよ……あんなに冷たくしたのに……ッ!ばか……」
「好きだ」
「ばか……っ」
そう言って、暴れる気力も失せたのか脱力していく。
「わ、わたしはショータくんのことなんか、ただの弟みたいなもので、恋愛感情なんて……最初から……」
「ミナトが記憶を失くす前から、失くしてからも、ずっと好きだ」
「忘れちゃう前はそうだったかもしれないけど、勘違いさせちゃったかもしれないけど、今はもう違うから……」
「それでも、好きだ」
「もうわたし、帰らなきゃいけないの……だからね、ショータくんは、わたしのことを忘れるの」
「嫌だ」
「忘れるのッ!!」
「嫌だ!」
「忘れなさいって言ってるのよ!!!」
強く拒絶するように、俺の胸を叩く。しかしその力は弱かった。
「忘れたくない!たとえミナトがまた未来に帰って、2度と会えなくなったとしても、忘れたくない」
「うぅっ……ああ……!」
ミナトはうなだれて身体中の力を抜いた。俺は受け入れられたと思い、再び強く抱きしめる。その直後、ミナトの身体からはより一層の光が溢れ出した。その光の強さに、ミナト自身が驚いて急に焦りはじめる。
「やっぱりダメ!離れて!今すぐ離れて!危ないの!」
「ミナト……?」
ミナトは信じられない強さで俺を引きはがそうとする。
そして俺たちは、一際まばゆく輝く光に包まれていき、何も見えなくなっていく。
「ダメなの!!ショータくん、だめえええええええ!!!」
その光が消えるころには2人の姿もまた、消えていた。