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覚えてもらえるということ

1年ほど前に書いたこの記事。

3000字超にわたる長ったらしい書き残しだが、簡単に言えば
「中高6年間にわたって使った駅のタクシーの運転手さんが、3年ぶりに見る私を覚えていてくれた」
ということである。

今夏も同様に声をかけてもらって、あ、これこそ私が求めていたものだ、と改めて思った。

しかも、声をかけてくださるにとどまらなかったのが、一昨日のこと。

就活で本州に1日だけ行くために、駅まで車で送ってもらい、小さな駅舎で電車を待っていたとき。
例のタクシーの運転手さんがこちらへ近づいてきた。

運転手さん(以下「運」):「おはよう、そんな大量に荷物持って、もうあっち(大学)帰るんか」
私:「いや、本州に用事あって、1日だけ。すぐ戻ります」
運:「なんや戻るんか、今どこにおるんぞ」
私:「〇〇県です」
運:「なんや近いなあ。お、なんか飲むか(自販機を指して)」
私:「え、…いや、お茶あるんで、そんな」
運:「いや飲めよ!何がええぞ、お茶か」
私:「え、いいんですか、ありがとうございます!…えっとじゃあ、(小さいサイズのお茶を指して)これで…」
運:「喉渇くやろ、もっとでかいのにせえや」
私:「…あ、じゃ、こっちの大きいので…」
運:「おう、持ってけ持ってけ、きいつけてな」

まさかまさか、ただ電車を待っていただけでお茶をいただけるとは思わず、終始しどろもどろの応対になってしまった。
なんとも押しが強いのだが、そこに愛を感じる口っぷりである。運転手さんと別れてから駅のホームに入って、少しだけ涙ぐんでしまった。



就職活動をしていると、自分がなんなのか分からなくなる。自己分析をしっかりしてるね、と先日面接で言っていただけたが、それが業界と結びついているかはかなり問われた。何が向いているのか、本当にそれはこの職でいいのか。仮に受かったとしても、前向きで挑戦心あふれるこの会社でやっていけるのか、そもそもこの土地が自分に合うのか…。

色んなことでアイデンティティも何もかも揺らぐ中で、ただただ、この人が私を覚えてくださっていたこと。それだけでなんだかもう、充分じゃないかと思うのだ。

名前すら知らない人で、今後あの人が何年タクシードライバーを続けるかわからない。次帰ったときにはやめているかもしれない。そんな関係の人が、私を知っていて、お茶までいただいて、帰る度に声をかけてくださる。

それ以上の幸せが、どこにあるというのだろう?

成功、成長、挑戦、給与、充実した福利厚生…。そんなキラキラしたワードなんかより、ここに生活の実感があって、私はこの人に覚えていてもらえるだけで満たされてしまうというのに。

結局承認欲求の塊でしかないのかもしれない。大学で誰とも深い繋がりを持てなかったが故の反動かもしれない。
それでも今の自分が、このことを幸せに思える状態にある、というのだけは忘れたくない。

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