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ガニ股、全速力。
田舎の平野を占領するように無数の田んぼが寝そべっている。民家はおろか、小屋すらない。唯一、エヴァの使徒みたいな鉄塔どもが、手を繋いで延々と立ち尽くしている。
私はそんな田園を通年、行ったり来たりしている。
今から13年ほど前、
そんな大田園で、よくすれ違う自転車女子高生がいた。
自転車女子高生。
いつから彼女を認識したのかはわからない。ものすごい頻度ですれ違う彼女は私の母校の制服を身にまとっていた。
だからわかる。
学校、めっちゃ遠い。
私の通っていた高校は、すれ違いポイントからだいたい10kmぐらい離れている。
すれ違いポイントにでっかいコンパスの針を刺して、半径2キロメートルの円を書いても、円の中には文字どおり田んぼしかない。おもうに学校から彼女の自宅までの距離は最低でもそこからプラス2キロメートル。
即ち、少なく見積もっても、通学距離が12kmあることになる。だいたい往復24km。
そんな吹きっさらしの田園を彼女はペダルを踏み締めて、朝に夕に駆け抜ける。
彼女の漕ぎ方には特徴がある。
どんな時でも座って漕ぐ。姿勢は正しく、背筋を伸ばして派手なガニ股全速力。脇目も振らず、まっすぐ進む。
春の田園は代かきが魅せる。
代かきの時期、田園は湖のように水を湛えて水面のハレイションが眩しい。夕暮れ時には、茜色の空や逆光に沈む黒い鉄塔、遠くの山々を水面いっぱいに映し出す。私は毎年、この期間限定の美しさを楽しみにしている。
だが、田園はいつも穏やかなわけではない。
春のやたら風の強い日。
彼女は吹きっさらしの田園に、
地平の果てからやってくる。
前傾姿勢で座ってガニ股。エンジンピストン膝頭は最大トルクで上下する。
家を出る前に丁寧にといたであろう黒髪を、無慈悲な春の強風がめっちゃくちゃに吹き乱す。鬼神のような荒髪立てて、仏頂面でまっすぐ、まっすぐ。
初夏の田園。
初夏にもなれば一面は万緑の絨毯となる。遠くの山から流れ込んでくる青田風などは、面白がるように田園を駆け廻り、我がもの顔で青田を揺らす。風のかたちがそこにはある。
そんな田園もいつも穏やかなわけではない。
凄まじい豪風が、強烈な雨を引き連れて青田の絨毯をちぎるように吹き荒れる。
そんな朝でも、彼女は地平の果てからやってくる。
どんな風雨がこようとも黄色い合羽をしっかり着込み、てるてる坊主のようになる。傘は差さない。ペダルを踏みしめ雨水跳ね上げ、前髪ぺっちゃり。まっすぐ、まっすぐ。
盛夏の田園にはいっさい日陰がない。
酷暑。アスファルトが溶けだしてるのではないかというぐらいに陽炎が揺らめいている。
そんな陽炎の彼方から
揺らめきながらガニ股少女はやってくる。
半そでシャツをさらに捲って、おでこに冷えピタ爆速ガニ股。酷暑のせいか、油すましのような顔になり、一生懸命膝を上げ下げ。部活か補習かまっすぐ、まっすぐ。
秋の田園。
晩夏の金風が一斉に黄金色の穂を揺らしたかとおもうと、秋に入る頃にはすっかり刈り取られて、田園は齧られたとうもろこしのようになる。
そんな刈田の一角にはこんもりと盛った籾殻の山。そこから野焼きの細い煙が立ち昇る。
私はそんな野焼きを見るとどうしてもたまらない気持ちになる。あの野焼き特有の薫りも、少し黄色がかった稲の刈跡も、ゆるい風になだらかに流される細い煙もどれもたまらない。
田園にも、そんな穏やかな日はある。
秋晴れのやけに高い空の下、
地平の果てからやってくる。
秋晴れの日には拍車をかけてペダルを回す。ガニ股爆速、おでこ全開、車の脇を駆け抜けていく。苅田の薫りに包まれながらふんわり黒髪、仏頂面でまっすぐ、まっすぐ。
冬の田園。
クリスマスの頃には雪がうっすらと積もり、正月明けには真っ白な世界になる。そこにはたいがい猫の足あとがトトトとついている。
そんな田園はたいがい厳しい。
凍てつく大地をさらに凍てつかせるように北風が甲高い魔笛を鳴らして吹き荒ぶ。
そんな極寒の日にも、
地平の果てからやってくる。
色のたくさん使われたマフラーをギチギチに巻き、ぶくぶくに着膨れして、白く吹雪く田園を、翔ぶが如く自慢のガニ股。カラフルな雪だるまとなって、まっすぐ、まっすぐ。
啓蟄の頃になると、所々に残雪を残した田舎くさい泥田んぼが、ゆっくりと朝霧をあげて目を覚ます。
そんな寒さの緩んだ田園には、地平の果てまで朝靄が拡がっている。
真っ白な朝霧に小さく浮かぶ、黒い影。
うっすら浮かぶ黒い影は徐々に色を濃くしてゆき、やがてその姿を現せる。
ハンドルしっかり握りしめ、姿勢は正しく背筋はピン。座ってガニ股、常にまっすぐ、全速力。
自転車女子高生は、白い息を顔面に覆わせながら駆け抜ける。
膝の上下がすさまじい。
彼女は進む、まっすぐ、まっすぐ。
春夏秋冬、この吹きっさらしの田園を、雨にも負けず風にも負けず、自身の足で彼女は駆け抜けていった。
ガッツリ3年間、私は朝に夕にそんな彼女とすれ違った。
わたしの中で彼女はすっかり顔馴染み。
すれ違うたびに心の中で「よっ!」って言っていた。
ただ自転車を漕いでる彼女とすれ違うだけ。
それだけなのに、彼女の人となりがわかる気がした。
無事卒業したのだろう。
自転車の彼女とすれ違うことはもうない。
先日、息子がわっかりやすい仮病を訴えてきた。
だが決めつけはいけない。
疑惑の病人を連れて小児科へ行った。
小児科の待合室は人だかり。
その中に見知った顔があった。
いつかの自転車女子高生である。
あれから約12年。
いつかの自転車女子高生は、母になっていた。
伝説のガニ股によちよち歩きの男の子を乗せている。
私はあなたを知らないが、私にはわかる。
あなたはきっと素敵な母親なのだろう。
私はあなたを知らないけれど、勝手に想像しては勝手に感動している。
思わず、自称腹痛の疑惑病人をみた。
しょっちゅうLINEで〝車で送ってちょ〟〝お迎えプリーズ〟を打つ息子が、腑抜けた顔してスマホをスワイプしている。
ひとしきりその横顔を眺めてから、あらためていつかの自転車女子高生をチラッとみる。
いつかの自転車女子高生は、膝上の男の子を抱え込んで、覗き込みながら絵本を読んでいる。
その人生がどうか、吹きっさらしでありませんように。
番号を呼ばれて息子共々診察室へ入る。
おねつはありますか。
ろくどごぶです。
吐き気はするんですが、吐いてはいません。吐きそうにはなります…
疑惑の病人はペラペラ訴える。
先生、ニ度と病が出ないように、メスで腹かっさばいて徹底的に検査してやってください。
そして、息子にはもう少し強めの風をお願いします。