海遊館編(3)海月銀河。
巨大水槽を後にし、館内を進む。自然光が徐々に薄まり、程なく差さなくなる。
前を歩く者もなく、後ろを歩く者もいない。
一人その廊下を歩く。
太陽光が届かない廊下。上下左右、四方黒い。
そんな廊下を抜けると、真っ黒な吹き抜けになる。
太陽光は届かない。
真っ黒な廊下から続く、真っ黒なエスカレーター。微灯が足元だけをほんのりと照らす。
エスカレーターは降る。
正面の壁、真っ黒な壁にミルク色の文字がくねくねと揺らいでる。
海
月
銀
河
投影されたミルク色の文字は甘ったるく滲み、その一本一本の線もこまかく揺れていて、それはまるで海月の触手のようだった。
エレベーターは降っている。
黒い壁と白い文字。
それ以外にはなんにもない。
遠くで聞こえていた音は徐々に潜み、微かに届く音の欠片も黒い壁に吸い込まれ反響せずにそのまま消える。
沈む、沈む。
そう、潜るという自発的なものではなく、沈むという能動的なものに近い。深海に沈む。そんな感覚。
ただ、潜り始めてもいる。自分の奥に、感性の奥に。
海遊館がわたしを呑み込む。
嚥下するようにゆっくり降るエスカレーター。
現が遠のく。
さよなら、さよなら。
エスカレーターが底につく。
さらに暗い通路をゆく。
クランク状の通路を抜ける。
ひらけた瞬間、宇宙空間。
足が止まる。息を呑む。ぼんやり視点が定まらない。
海月銀河だ。
わたしは海月銀河のほとりにきた。
黒い天井からは乳白い無数の『海月玉』がぶら下がっている。海月玉は銀河の星々のように天上に灯る。
そして、黒い壁、眩ゆい水槽。ミルク海月。
どこをみるというわけでもなく、漫然と眺める。
透明な水槽から放たれた白い光は、無数の海月のその半透明な体を、ぼんやり灯る乳白いランプにする。
乳白いランプは全身をポンプのように伸縮させて、のんのんと泳ぐ。
漂っているのではなく、泳いでる。
ポンポン泳ぐ、トントン泳ぐ、そんなかわいい擬音がよく似合う。
海月の川に魅了された人々が海月銀河を埋め尽くす。
人々は声を呑んで銀河に佇む。海月銀河はそのように静謐を保っている。
わたしは水槽を一つ一つ丁寧に覗く。腰を屈めたり、ガラスに顔を寄せたり、ちょっと離れてみたり。
眺めてる人々に目を向けてみると、みんなうっとりと水槽を眺めている。
色々な属性の人々が、その属性から離れて、裸になっている気がした。忘我ではなく、還我。
みんなの魂がすぅーっと抜けて、水槽の海月になって泳いでる。ぷわぷわ、ぷかぷか気持ちよく。
もう、戻らないかもよ
ちょっぴり怖くて、なんだかおかしかった。
わたしの魂もきっとそうだ。
そんなことを考えながら、眺める。
なんにも考えずに、ただ眺める。
ひらすら、きれい、美しい。
思考は流れる、結びはない。
海月の空間は美しい。
海月銀河は深淵の裏ボス。
何人たりとも素通りさせない。