「なんで?」から主体的・対話的
毎日のように娘に「なんで?」「なんで?」と聞かれる。
あげく「なんでこの人は赤い服を着ているの?」とテレビの出演者への疑問をぶつけてくる。
こんな幸せな日常が増えてきたことで、少しずつ心も安定を取り戻してきている気がする。
「これは何?」の答え
この「なんで?」が「何?」ではないことがポイントなんだと思う。
これは「何?」と娘に聞かれて、もちろん答えはする。
これが中学生の生徒に対してだったら、私はどんな対応をしていただろう。
これは「何?」
と聞かれれば、おそらく「一緒に調べてみよう」と返しているかもしれない。
これは「なぜ?」と聞かれれば、「一緒に考えよう」と返しているかもしれない。
「know How」よりも「know Why」を大切にする教育のことを記事で見た。
私の日常でも、生徒が「どうしたら、わかるようになるか」とか、「どうすればできるようになるのか」を私自身が考えることが多かった。
だが、これからの社会にでる未来の大人たちには、この「どうしたらわかるのか」を自分で考える経験が必要だと思う。
今まで、教師がやってきた「どうすればわかるようになるのか」を生徒に渡すことによって、少なからず考える経験になるのではないか。
そこから、「これは何?」と問われたとき、「どうすればわかるようになるかを考えるために、一緒にしらべてみよう」ということが出てくるのだと思う。
教科書を調べてみればわかるし、インターネットを使うとすぐにわかるだろう。何かのつくり方を調べたければ、youtubeに誰かがアップしている。
「これは何?」答えは、もうすでに出ているのである。
「この名称を答えなさい」は、まさにこの問。
「なぜ?」の答え
一方、「なぜ?」の答えはすでに出ているとは限らない。
「なぜ、赤い服を着ているの?」という答えは、本人にしかわからないし、もしかしたら本人もわからない。
そこで、想像することが生まれる。
問いによっては、「なぜ」から、調べて答えにたどり着くこともあるだろうし、「本当に必要?」まで発展するきっかけになり、「そもそも」まで行くかもしれない。そして自分自身や他人と議論が生まれる。主体的・対話的でなければ解決できない。
「そもそも」や「本当に」が想像できると、今社会で本当に必要なことが見えてきたり、自分が本当に必要なことが見えてきたりするのではないだろうか。
「カズレーザーが着ている服の色は何色?」
「カズレーザーはなぜ、赤い服を着ているのか?」
この違いです。
私がしたいこと
その力を養うために、「これは何?」という答えのわかっている問いを授業で発問するよりも、「これはなぜ?」という、それぞれが考えることのできる授業づくりをしたい。