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はじめに

概念(テンプレート)。

社会に溢れるそれらに、違和感を感じ始めたのは、今から10年ほど前の事。
サッカー日本代表の試合が、きっかけとなりました。

W杯本戦だったのか、グループリーグだったのかは定かではありませんが、ヨーロッパの強豪国との試合だったと記憶しています。

格上相手ではあるものの、その頃の日本代表は《何かを起こしてくれるかもしれない》、そんな雰囲気を纏っており、元来ミーハーな私も胸を高鳴らせ、TVの前で興奮状態。

当時のマスメディアも期待を最大限に表現(絶対に負けられない〜的なコピーで)し、その熱も受けた日本中が熱狂していました。

しかし、結果は惨敗。

やはり、欧州のサッカーレベルは高い、まだ無理なのか…と、日本と世界の差をはっきりと見せつけられた試合でした。

ただ、時折見られたセットプレーの質や、パスを主体にした攻勢、選手個人のパフォーマンス等は、当時サッカー途上国であった日本の今後を、明るくそして楽しく感じさせてくれるものであった事も事実で、私個人的には大満足。

サッカー好きの友人達と、あの選手交代は早かっただの、サイドへの展開を意識して中央のスペースをもっと作るべきだっただのと、無責任な素人ファンの醍醐味である、レベルの低い考察で大いに盛り上がり、改めてスポーツって良いなと感じたものです。
いやー、楽しかった!

ところが…
その試合の翌日。

あれだけ日本代表を持ち上げていたマスメディアは一斉に手のひらを返し、監督の采配や選手個人の批判を行い、『よくも、がっかりさせてくれたな!』と言わんばかりの、怒りに満ちた報道や意見が目立つ様になります。

当然、日本代表の挑戦に対しての賞賛や労いの言葉もあるのですが、私の目からはマイナスな報道が多い様に見えました。

ただ、メディアはそんなものだよね…と、残念に思いながらも、あまり深くは捉えていませんでした。驚いたのは私のSNS投稿にコメントしてくれた友人の言葉です。

『日本代表、お疲れ様でした!ドキドキを、ありがとう!』と言った、他愛もない内容の投稿だったのですが、それに対して友人は、『皆が騒ぎ過ぎ。もともと力の差がある。日本が弱くて、ヨーロッパが強いだけ』と。

そんなネガティブな事を言わなくても…
そう思ったと同時に、ハッ!と気付きます。
ネットの書き込み!
そう、彼の言葉はネットの掲示板か何かで、賞賛でも批判でもない、『何盛り上がってるの?』と斜に構えるタイプが、頻繁に使っていた言葉と同じだと気付いたのです。

私の知る限り、その友人はサッカー好きではありません。
当然、ゴールまでのプロセスや、戦術戦略を見ながら観戦を楽しむ人ではない。

かと言って、自分以外の人間が盛り上がっている様を見て、真逆の反応をする程、天邪鬼でもない。

つまり、彼の言葉は彼のものではなく、ネットの中やTVで見聞きした言葉の中で、彼が最も使い易いと選択したものをスライドさせて、自分の意見であると錯覚しているのではないか。

そして、その事に本人は気付いていないのではないか。
そう感じたのです。

当然、
この世の中で起こる全ての事柄に対し、一定の理解を経て、その先に自分独自の意見を持つ事には、無理があります。

今起きている事柄は、今その時だけの現象であり、そこに至るまでの歴史や道筋は、全ての事柄それぞれに存在します。
知っているもの 触れた事があるものの中だけで考えても、自分独自の意見に辿り着ける事柄は僅かであり、知らないもの触れた事がないものの方が、圧倒的に多い。

なので、全ての事柄には、ある程度の会話が可能になる様、《概念》が付与されている。
その事柄に詳しくなくとも、知らなくとも触った事がなくとも、自分の意見として使える《テンプレート》としての《概念》が存在している。

この《テンプレートとしての概念》は、非常に使い勝手が良く、肯定せざるを得ない作りをしている事が多い様で、その為か拡散力も強い様に見えます。

上記の友人のコメントは、肯定せざるを得ないタイプではないですが、わざわざ友人のコメントを否定する為に時間をかける気にもならないので、スルー一択。
スルー=自分(友人)の意見が通ったと言う錯覚を生む可能性は、あります。

本来、話すべき時には話し、知らない事には口を閉じ、新しい知識を得れば良いとは思いますが、何に対してもアクションしやすく、またアクションしなければならない世の中ですから、反応してしまう事自体は仕方ありません。
私も同じく、です。

ただ、他人の意見をスライドさせる事を《理解》と呼ぶのではなく、自分で咀嚼し消化吸収した後の血肉を《理解》と呼びたい。

分かっている人理解している人の意見を扱うだけでは、《分かった気になる》だけであり、日常にも仕事にも人間関係にも活かせない。
応用が効かない。

友人のコメントを機に、そんな事を考える様になります。

その目線から世の中を眺めてみると、
この社会というコミュニティには、さまざまな考え方・意見がある様に見えて、その実一部の意見が概念として定着し、その後使い易い様にテンプレート化され社会に溶け込んでいる様に見えます。

《AはBである》
それは当たり前だというテンプレートを、皆が使う。
しかしながら、《Aは何故Bなのか》《AがBになるプロセスはどういったものなのか》、これを知る人は皆無といって差し支えがない。

仮に誰かが『Aは何故Bなのか?』と問えば、『そういうものだから』としか返ってこないシーンが見受けられます。
ある種、思考停止の様にも見える。

更にややこしい事に、この《テンプレート化した概念》は、利害を目的としない場合も多いので、意識しづらいという特性がある様です。

自分に利や害があれば、積極的に関わるでしょうが、それがないので、《自分の意見》と《他人の意見をスライドさせたもの》つまり《テンプレート化した概念》との区別が難しい。
加えて、友人のコメントの下りの様に、否定する為に時間をかける気にもならないので、他人からの指摘も少なくなってしまう。

知らず知らずのうちに、自分の頭の中にあり自我だと思っているものは、実は数多くの概念の集合体を処理しているだけに過ぎず、その処理が個人によって多少異なるだけなのかもしれない。

この事で、我々は何かを失っているのではないか?
何かしらの悪影響を生んでいるのではないか?私の頭の中で、常に疑問として存在し続ける事となりました。

かと言って、何をどうすれば良いのか分からなかった私は、当たり前 考えるまでもないと言われる事を、自分なりに分解してその構造を想像する事にしました。
今では、ライフワークの様になっています。

《概念の分解》

この言葉が私の中で生まれた頃、縁あって一つのテーマを深掘りすると言う活動を、私が暮らす地域コミュニティの中で与えられ、約1年間様々なテーマを分解考察してみました。

それは、あまりにも不完全であり、専門的な根拠のない戯言に過ぎませんが、私が暮らす日本の地方と呼ばれる場所の、そのまた田舎の活性化や、ひいては自分と自分の周りに居る人達の幸せに、か細くではありますが繋がっているという、確信に似た想いを持つに至りました。

今後も同じ活動は続けていきますが、最近になって、日常のアウトプットを増やしたい 他人の意見が欲しい SNSでは限界があると感じ、noteという場をお借りしようと思い立った次第です。

繰り返しになりますが、
私の考えには、専門的な裏付けや根拠は一切ありません。
とは言え、独り善がりにだけはなりたくありませんので、忌憚のない意見や会話が出来るご縁が生まれる事を、切に願っております。

不定期とはなりますが、
日常に溢れる《概念》を、私なりに分解してみます。
楽しんで頂ける方、ご興味を持ってくださる方が、一人でもいらっしゃれば、それに勝る喜びはありません。

これからどうぞ、よろしくお願い致します。

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