『類は友を呼ぶ』って言うけど真偽不明だよね
幼いころから、いろいろな環境に身を置いていた気がする。
スポーツクラブにも所属していたし、習い事もある程度通わせてもらった、部活動、アルバイト、学校、社会...etc.
嫌になることはたくさんあったし、辞めたいと何度も思った。それでも続けていたのは何故だろうと考えたとき、ふと思った。
自分は、人に恵まれていたな、と。
自分が今までやっていたこと
簡単に、私が今まで属していたものをまとめてみる。
~小学生まで
・習い事
・スポーツクラブ
・地域の集まり
この辺りまでは、本当に当たり障りのないものが主。
ただ、遊びは好きだけど練習は嫌いだった私にとって、簡単に成長できない事柄は好きではなかった。特にスポーツクラブに関しては、監督が怖くて苦手で、行くのが嫌だった。
まあ、どれもこれも、今やってみると全部楽しいから、もっとちゃんとやっておけばよかったな、とか、真面目に練習したらどれくれいのレベルになれたかな、なんてことは思ったりもする。
~高校まで
・部活動
それ意外には属していなかったかな。
委員会や生徒会にも入らなかったし。
部活動は、中学、高校の場所は違えど、同じことをやっていた。そこは今回は特に関係ないけど。先輩も後輩も同期も大好きで、何より部活動そのものが好きだった。学校帰りに寄り道したり、ひたすら語り合ったりしたのも、とてもいい思い出。
~大学まで
・アルバイト
サークルとか部活動とか、キラキラなとこにも属してよかったかなとも思ったけど、どうしても働くことを選んだ・・・と、思っておきたい。
休日は潰れるし、学校の後にもいかなきゃだし、テレビも見れないし、遊びにも行けないし、なんでこんなことしてるのかなって、思うことも多かった。お金と、アルバイト先の人と話すことが、唯一の楽しみだった。
~現在まで
・会社
かれこれ7年目になるようだ。会社の中でも部署が分かれているかもしれないけど、私の会社はほとんど同じ空間で働いてる(隔てる壁があまりない)から、ほぼ全員と関わっている。
途中で辞めなかった理由
前述でも何度か出てきたが、あまり得意じゃないものや、辞めたくなったことも何度もある。
だが、どうしても辞めなかった。
どれもこれも、途中で投げ出したものはない。
習い事に関しては、部活動や学校生活との兼ね合いで、続けることができなくなってしまい、辞めざるを得なかったのだが。
正直、それも辞めたくはなかった。
よくよく考えたら、別に全部好きだった訳ではない。
休日潰れるのも嫌だったし、接客も得意じゃなかったし、練習してもいつも必ずうまくなるわけでもなかったし。面倒くさい、やりたくないばかりの気持ちだった。
やり続けたのは、「人がよかったから」だ。
変なことを言うが、クラスでも何でも、一人ぼっちになったとこはない。
どのクラスに属しても、周りに知ってる人はいたし、ピラミッドの上の人たちから何故か好かれていた。いろいろなジャンルの人と話しすぎて、「何であの人と仲いいの」「何でそんな普通に話してんの」と言われることもよくあった。それもよく考えたら、習い事やスポーツクラブにそういう人たちがいて、その類の人たちと関わることにも慣れていたからだ。
広く浅くの人間関係を築きすぎなくらい築いていた。
そういう人たちに囲まれて、今私はいる。
辞めたくなったら、真剣に話を聞いてくれる子もいた。不満があったら、愚痴に付き合ってくれる子もいた。悩んでいたら、一緒に悩んでくれる子もいた。途中で道を外れそうになると、そういう子が必ずいて、いつも手を引いてくれる。まるで、余計なお世話と言いたくなるくらいに。
周りにいい人ばかりいて、本当に自分はこんなに恵まれていいのかと思ってしまうこともある。甘えすぎてしまっているのではないか、周りは嫌になっていないかと考えることも多かった。だが、いつしかそんなことを考えるのが馬鹿らしく思えるようになった。嫌なら勝手に離れていくし、気分が乗らないときは少し遠くにいる、そんな子ばかりだと気づいたからだ。
恵まれて、恵まれて、恵まれすぎて、自分は何もしなくていいのではないかと、麻痺しそうになる。そういう時は、少しだけ、自分自身に冷たくしていた。
少し話は逸れたが、そんな環境下に身を置いている。昔も、今も。
必然なのか、偶然なのか。
私は偶然だと思っているのだが。
『類は友を呼ぶ』って?
属する場所というのは、自分が興味のあることだ。
したがって、そこに集まる人たちは同じく興味のある人である。
それはきっと、自分と同じような趣味、志向を持つ人ではないか。
そういうことだ。
はっきり言って、これが全ての友人、知人に当てはまるわけではない。
時には、性格が真逆な人や、苦手な部類の人がいるかもしれない。それはいて当然なのだ。100人の人から好かれるなんて、誰もできないのだから。
それならどうして、私がこの話をしているのかというと、『結局、自分の周りって、同じような奴ばっかだな』と思うからだ。
少し違うタイプの人でも、よく話してみると考え方が似通っている場合がある。
「こんなことがあった」「これが気に食わなかった」「これは楽しかった」そんな話をした時、「わかる」「私もそう思った」「だよね」そんな反応が返ってくると、あれ、なんだこの人、私と同じだなと思ってしまう。
自分の意見など、一意見に過ぎないので、ある事柄に対して何通りもの考えがあるに決まっている。まったく違う考えや、自分としては納得のいかない考え方を持つ人だっている。時には、何でそんな考え方になるんだろう、と思ってしまうこともあるが、周りの一人一人の考えを聞いてみると、自分と似たような考えや、納得できる考え方をしている場合が多い。
自分は結構まっすぐものを見がちだが、時折捻くれた見方をすることもある。そういう時にも、同意してくれる人も多くいる。
なんとなく、『受け入れてくれる』『受け入れられる』という人が周りに多いのだと思う。
だからこそ、その人たちと付き合っているのである。
私の経験上、私の周りにいる人は、本当にしっかりしている、ちゃんとした考えをしている人が多い。
という話をしているのでお気づきかと思うが、私自身もいろいろな事柄に対して、自分の意見を持つのが好きなのである。何故、何、何で、ということを常に考えてしまう。面倒な思考を持っている。そういう人が集まるということなのだ。
でも、あくまでこれは趣味、思考の話であり、性格や中身がそうとは限らないのではないか。
性格的な観点
私の周りは、優しすぎるくらい優しい人が多いし、白黒つけたい人が多い。
駄目なことは駄目、ちゃんとしてほしい、やることはやる、そう思っている人がたくさんいる。
でも、私はどうだろう。
みんなみたいに性格が良いわけでもない。
悪口も陰口もいうし、約束を無断で破ったこともある、人の嫌なこともやってしまっているかもしれない。それなのに、周りは優しい人ばかりだ。
困っていると助けてくれて、苦しんでいると手を差し伸べてくれる、泣いていると慰めてくれるし、責められていると相手に怒ってくれる、そんな人ばかりだ。性格的に合う、合わないはあっても、そういう人たちに何故か囲まれている。自分にはもったいないと思ってしまうが、傍にいてくれる。
『類は友を呼ぶ』というには、明らかにほど遠い。
しかし、人は、このような場合、「あなたが良い人だから、いい人が集まる」というのだ。不思議な話で、結局そこでも『類は友を呼ぶ』が活かされている。
私にはもったいないような人たちが私と同じ部類なら、この人たちはきっとこんなにいい人じゃないだろう。そう思うのだ。失礼な話だが。
でも、もしかしたら、誰かにとってのいい人は、誰かにとってのとても嫌な人の場合もある。
“いい人”の定義は人それぞれだ。私のような考えを持つ人もいれば、そうでない人もいる。
万人に好かれる人はいない、というのであれば、もしかしたら
『その人が良い人である所以を自分は持っている』
のかもしれない。
知らず知らずのうちに相手に好かれて、過剰なまでの同意を得られているのかもしれない。きっとそうだ。おそらく、誰しもがそうなのだ。
私だってそうだ。
優しくしたい人もいれば、優しくしたくない人もいる。
意地悪をするとか、そういうことではなく、別にいいだろうと突っぱねたくなる人がどうしても存在してしまうのだ。そういう人にとっての私は、きっと“いい人”とは程遠い存在なのだろう。
よく考えれば、一人の人の印象に対し、「あの人すごい優しいよ」という人と、「あの人すごい怖いよ」という人がいる。前者にはとても優しいようでも、後者にはとてもきつく接しているのだろう。前述したとおり、自分にとってのちゃんとしている人と、ちゃんとしてない人に同じ接し方はしない。きつい言い方をすると、時間や労力の無駄だと思ってしまうから。
誰だってそうだろう。
みんな、よく考えてほしい。
得意な人に対する態度と、苦手な人に対する態度を。
分け隔てなく接すると言われても、食べ物と同じで、よくよく見れば同じようになんて接していない。ある人には打ち明けられる話もあれば、ある人には絶対話したくない話もある。食べ物の好き嫌いがあるのだから、人にだって好き嫌い、得意不得意があって当然だ。
人の中に壁は必ず存在する。
その壁がどこまでの範囲に設定されるかによって、相手に対する態度は変わるだろう。もしかしたら、とても高い壁かもしれないし、足元程度にしかない壁かもしれない。目の前にあったり、ほど遠くにあったりもするかもしれない。そこをどう攻略するかなのだ。
私は、一度苦手になった人には簡単に壁を作り、厚さを調整していくタイプの人間だ。厚くなったり、薄くなったりするが、結局壁は壁のままなので、その人を克服することは容易ではない。
ということは、自分の周りの人はそれなりに、少しは、自分のことを好いてくれているのかもしれない。そして、どこかで同じ感覚を持っていることを見抜き、壁の位置や厚さ、高さを少し調整してくれているのかもしれない。
そうであってほしい。
極論が驚くほどにプラス思考なものになってしまった。
結局、自分の周りの人は、広く見れば自分と同じような人たちなのだ。
現状
複雑に考えながらも、どこか納得しながら生活している。
何故こんなにもいい人ばかりなのか、そう思いながら、その環境を有難く、過ごしやすいと思っている。そんな生ぬるい環境を生きている私だからこそ、生ぬるい人生を送っている。特段刺激があるわけでもない。
たまに刺激を求めて別の場所に移動するが、結局元の場所に戻ってくる。
『類は友を呼ぶ』ということかは定かではないが、少し違う場所にいるのは、居づらさが出てしまうのだ。
今の会社も7年目だ。こんなに続ける気はなかったが、いい人ばかりで、過ごしやすくて、ずっと居座り続けている。業務上、嫌になることも多いし、納得できないことも多いし、苦手な人も存在するが、優しい人達に囲まれすぎて、この環境を手放す勇気がでなくなっている。
考え方が自分より一歩も二歩も先を行く人や、何も言っていないのに助けてくれる人、たくさんの笑顔を引き出してくれる人、そんな人ばかりで、ありがた申し訳ない気分だ。
そんな職場の中で、自分が一番信頼している先輩社員が退職した。
ここ最近の話だ。
誰にも打ち明けられなかったが、恐怖と不安ばかりでどうしようもなかった時に、別の上司から言われた。
「みんなあなたのことは、頼りにしてるよ」
「自分が思ってるほど、何でもできてるから大丈夫」
その言葉が、このテーマの発端だった。
たくさんの人から助けられたからこそ、その人たちを助けられる人になりたい。その人たちがやっていたことを、下の人含め、周りの人にやっていきたい。その一心で向き合っている仕事も、もしかしたら少しは実を結んでいるのかもしれない。見られていないようで、見られている。出来ていないようで、出来ている。そんなことが、たくさんあるのかもしれない。
今の仕事もそうだし、習い事、部活動、アルバイト、全部途中でやめたかった私が、どれも途中でやめなかったのは、周りの環境のせいだ。
たくさんのいい人に出会えたからこそ、私も誰かのいい人で在り続けたい。
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