どうして僕は自己肯定感が低いか
僕という人間は自己肯定感が死ぬほど低い。
死ぬほど、なんて安直な表現はしたくないけれど低いもんは低い。
何故か。うちの親は他の家庭よりは(たぶん)過保護だったりそれなりに厳しかったりしたが、世間で言ういわゆる「毒親」では無い、と思う。断じてない、と言いきれないのが僕の悪い所なのかもしれない。でもたぶんあの人たちはわりと善良な方だと思う。
では何が僕の自己肯定感をここまで地の底に叩き落としてくれたのか?
たぶんそれは、歩いてきた人生における周りの人達のせい。人のせいにするのはよくない、とか言われそうだけど、自己肯定感って自分一人のせいで地の底に落ちることはないと思うのだ。
僕の人間関係は、ソシャゲのガチャで例えるなら、人より多く☆5を引くが、それ以外が全て本来出るはずのない☆2以下といった感じなのである。
一部の人からは可愛がられ好かれたり慕われたり、または面倒を見るべき存在として扱ってもらえるが、それ以外の人からは蛇蝎のごとく嫌われる。そうでなくても評価が皆一様に低い。
僕の性格というか性質の問題もあるのだろうが、趣味や思考が周りと合わないことが多々あった。同年代と話が合わない。よりにもよって一番近い立場で長い時間を共にするクラスメイトたちと、共通の話題がない。だから壁ができる。それを見て多くの大人たちは「この子は駄目な子だ」と判断する。大抵どこでもこの無限ループに嵌る。
もちろん皆に合わせる努力はしてきた。根が暗いので一軍、陽キャと呼ばれる人たちとは付き合えないと早々に判断したが、友達グループの好きなアニメや漫画は興味がなくても確認して話が合うように頑張ってはいた。
僕はそもそも三度の飯より、それこそ寝るのも忘れるくらいに本が好きだが本を読む友達はあいにく少数派で好きな系統の作品も全く違ったため本の話は控えていた。
僕はかわいい女の子の出てくるアニメやゲームの方が好きだったが、友達の皆はかっこいい男性キャラクターがメインのアニメや乙女ゲー厶が好きだった。だからそっちに合わせることにした。新しいものを見るのは嫌いではなかったので見ているうちに面白いとは思えてきたが、「僕の好きな物」の話はとうとうできなかった。
僕は普通になりたかった。普通、というものに価値を感じる人間だからだ。普通であれば石を投げられない。ここまでの文章を読んで自己憐憫に浸っていると思われた方もいるかもしれないが事実何度も痛い目にあってきているので今だけは許して欲しい。
僕が僕という一人称を使うのも今この場が初めてだ。だって僕は周りから見たら「女の子」だったから。加えて僕が自分のことを「僕」と呼んで許されるキャラクターではなかったから。
一人称なんて好きにすればいいと思うし、他人に関しては全く気にならないが自分のこととなると話は別。残念ながら世の中の普通の女の子の一人称のスタンダードは決まってしまっているらしかったから、僕はずっと、「私」として生きてきた。もうひとつの顔と言っても過言ではないTwitterの世界でだって「私」だった。だって排斥されるのが、そうでなくても指摘を受けるのが怖かったから。
唯一の取り柄だった学業も精神の疲れで続けることが難しくなり、いよいよ人から馬鹿にされるようになったあたりから、急速に元々低かった自己肯定感がさらにすり減って行ったように思う。
結局僕は自分のアイデンティティを他人依存の評価基準に頼って確立していたから、鬼のように自己肯定感が低い状態になってしまったんだと思う。
僕には、「自分」がなかった。
僕が僕自身を愛せない理由はおそらくそこにあるのだと思う。