その、どちらでもない。
『もうすべてが叶って、揃ってる基盤。』
に自我が安心して暮らしていると、
現象に対する “自我の努力”という加力が
徐々に弱まってきます。
もうある前提が普通になってくることで、
現実に今見えていても、みえていなくても、
叶っていることに変わりないことが馴染み、
そこまで物に執着する必要性が、
なくなってくるからです。
すると、ゆだねる。みたいな感覚が
自然と作動してきます。
(本体への明け渡しみたいなこと)
ここで言う ゆだねる。というのは、
ゆだねたことで現実が変わることを期待した
自我が努力してするものではなく、
既にぜんぶ揃っていることに 安心している自我が、
ただありのままにあることと
共振できている状態の『ゆだねる。』です。
この場合、
自我が、まだ起きてもないことに、
もう仕方がない。とか、
これは絶対にそうなる/無理だろう。
の様な判断も持てなくなるので、
自我の無加力な状態が、
本質にあるありのままを映し出すことができ、
現実そのものが楽になってきます。
わたしが思うに、
このゆだねるって時期はそれぞれで、
昔はポチポチだったのが、
時代と共に増えて、
いま、けっこうまとまった数のゆだねる。が
色んなところで起こってきてます。
これが世間で次元の上昇とか言われていること
だと思いますが、
何をしたからどうだとかではなく、
常に、今。誰にでも起こりうることで、
進化の過程。とか、
生き易くなることとセットで起こること。
と思ってみると分かりやすいです。
その過程では、
これまでで歪んでしまった
光と影のバランス調整がある為、
底を見たりしながらも、楽になって→
を繰り返して見ていく感じで、
生き方が変わる前兆となるわけです。
その中でもみんな必ず通るのが、
☆どんな現象を見るか。
ということに大きく関わってくる、
『自我のポジション』の変化で、
自我が自分の立場を
(意識に)ゆだねる。という
ニュートラルな視界の本格的始動により、
生き易さ=自我の安心。
現象の円滑さ=自我の向かい風の無い状態。
が、やっと顔を上げれることになります。
もし、自我に、
『本体はあなたじゃないから、
意識の方に全部ゆだねてね。』と頼んで
うまくいくと楽ですが、
例えば、自我にとっての
ゆだねるってことの意味することは、
= 諦め。のような、
(自分に選択の余地はないなら)もう仕様がない。
ってことだと思うので、
現象で見えてしまったことは、
確かにそうでも、
これから見ること。
まだ現象にみてないこと。に
もう仕様がない。を見てしまうと、
こうしたいという明確な意図はあるのに
それが通らなくても仕様がない。と
認めているようなもので、
自我の思考の中で、
すべては揃っていない、叶っていない、という
現象を選び直すことと同じとなります。
これだと本当の意味で全てを任せることには
ならないんですね。
なので、自我が自分で
委ねることを選ぶのではなく、
本体の自分の力によってのみ、
変わることとなります。
本意でのゆだねるってことは、
YesでもNoでも、
諦める。ことでもない。
全てを含んだ中心。
この中心とコネクトしている自我が、
安心の中で無加力の状態にある。
と私はおもっているんですが、
このことが起きて初めて、
世界は意識にあるありのままを映す。
というよりも、
世界がこれまでよりも
ありのままにあれる地帯へと変わっていくことで、
このことに自我が自然と慣らされていく。
といった感じでしょうか。
おもしろいですね~。
なので、現実の私たちが頑張らずにも、
そうなっていく。(生き易くなっていく。)
ことは、覚えておいてください。🌟