タイにいって、タイにいた、あの日とこの4時間

いつかタイにいったときのこと。旅行はほとんど自分でいくことはないしあるお仕事でありがたくもいけることになり、それは10年以上前でまだ僕は前の劇団をやっているころで、「撮影のためにタイに行く」という自分にとってはふしぎな状況で急いでパスポートを取って、そのときにとったパスポートは10年のものだったんだけど、結局そのあと一度も国境を越えることなく終わってしまった、というパスポートを手に、公演の楽日から2日後とかそういうスケジュールで、ばたばたの中で飛行機に乗った。

2006年のことで、前の劇団でやった「空に消える時」というタイトルの公演中に、自分のことではない、とても悲しいことがあって、そのきもちも持っていった。タイまでは6時間のフライトで僕は飛行機の中で、こんなに飛行機のことを考えることなんてあるかな、っていうくらい飛行機のことを真剣に考えて、浮力についてとか地上からの距離とか家族のこととかそういうことを必死に考えて、ガチガチに緊張しながら、一睡もできないまま、やがてぶじにタイに着いた。むわっと温度と湿度がたかくて全身がいつもちょっとした水蒸気にくるまれている感じがして、それは不愉快なものではなかったし、建物の中は冷房がガンガンのギンギンに効いていて、「どうして?」と思ったけど、タイではそういうものらしいので、「そういうものか」と納得した。

宿泊先はとてもいいホテルで、食事もおいしくて、仕事の合間にちかくの屋台で食べたパッタイも日本円で160円くらいで、運命の出会いだったといま振り返ってもそう言えるくらいの美味だったし、とにかく素敵な日々を過ごして、高層ビルの高層階から見わたしたバンコクの街並みは林立するビルたちと点在する高層ビルと、薄汚く見える屋根たちと。全然オリエンタルじゃなくて地球の内側から近代化が皮膚を破って出てくるみたいな、衝動みたいなものと衰退した皮膚組織のようなものが同居していて、そのうえ異常な熱気がかさなっていて、そのとき僕は、数日前にあったとても悲しいことを思い出していて、それもあって自分が見ている景色を目に焼き付けておこうと思いながら、目に焼き付けようとした。いまもすこしだけそのときの風景は思い出せる。でも、ちょっと薄まっていてそれはそれでちょっとさびしい。

そのとき、冗談みたいにちょうど、大学のサークル時代の同期がタイで生活していて、どうにか会えないかなとホテルからタイ語&英語のみのパソコンを駆使して、アルファベットでメールと「届け!」という念とを送ったら、数時間後に返信がきて、それはけっこう「ユーガットメール」とか「ホリデイ」みたいな心おどるメールのやりとりで、海外で、見なれぬホテルの使い慣れないパソコン、日本語入力だけでなく操作そのものがよくわからないパソコンを駆使して出したメールがちゃんと届けたい相手に届いて、届いてほしい相手から返信メールがきた、というできごとは初めてファミコンソフトの「ドラクエ3」の箱を開けるときみたいにドキドキした。会う算段を付けて、夜にルンピニのナイトマーケットで待ち合わせをして会って、ご飯をたべて、ひとりは仕事でタイにきてて、ひとりはタイに住んでいるというふたりが、通信機器もおぼつかない中で、出会えるなんてテンション上がってしまうし、その子は恋人が送ってくれていて、「彼が待っててくれてるから20時くらいに帰るって言ってあるんだ」と言ってて、つまりその彼氏は僕と同期の子が変な感じにならないか心配だったんだと思うけど、それで2時間くらい待っててくれるタイ人の彼氏ってどんなひとだろうって思ったけど、日本のことが好きで、お金持ちで、PS3を持ってて、日本製品をたくさん持ってて、この子のことをちゃんと好きというひとなんだということを一通り聞いて、その子はウェイターに「ヘニャヘニャー」って言っているように聞こえる流ちょうなタイ語で僕にオススメ料理を頼んでくれて、一緒に積もる話をしたんだったか、ぽつぽつと話したんだったか、ぎこちなかったんだったか忘れてしまったけど、全てを照らしすぎない照明のぐあいと、蒸し暑さと夜気と、遠くのオープンステージから流れてくるタイのポップスに包まれていると、あんまり現実味はなくて、同時にこれも一生わすれない思い出になるんだろうなとそのときに思ったのは覚えている。

彼女と彼氏を見おくって、彼氏には結局ちょくせつは会えずに、遠目に見ていただけだけど、よく似合っていた、という感想だけがいま残っていて、僕はひとりでマーケットをほっつき歩き、320円くらいのTシャツを3枚、自分用と当時仲のよかった友人へのお土産用に買って、なにしろ怖ろしいくらいの金欠だったのでそれで精いっぱいで、ほろ酔いで地下鉄に乗ってホテルに帰った。王様の誕生日が近いとかで、町では黄色い服を着ている人がちらほらいて、そういえば食事をしていたときにその子が「黄色は王族の色で、タイのみんなは王様がだいすきなんだよ」と言っていた。情勢とかよくわからないまま、「そうなんだ」と聞いていた。

2019年6月28日に東京芸術劇場で「プラータナー:憑依するポートレート」を見た。タイの作家ウティット・ヘーマムーンの小説をチェルフィッチュの岡田利規が舞台化したものだ。1992年から年代を追って、タイ人の役者によって語られるある人物のものがたりは、タイの政況とリンクしながら、あるいはかい離しながら、私的なできごとをつむいでいくもので、4時間という上演時間も気にならないほどのうみつだったし、そこで語られたタイはニュースやあるいは自分があの数日間皮膚や肺をとおして感じていたタイとはまたちがう顔をしていて、僕はその時間、たましいがタイにいた。タイでは黄色と赤色が対立していて、僕はそのことを13年前は知らなくて、いまは知っている。

たくさんのことばが飛んできたなかで、とりわけ残っていたのは、見ているときに、覚えていたいな、と思ったのは、たぶん他にもたくさん大事なセリフはあったし、文脈もいろいろとある中でのセリフだったのだけど、「芸術を志すあなたが政治的な主張をしたいならそれは、芸術を通してするべきだ」というような、そういうセリフだった。台本も収録されたドキュメントブックも買ったのであとで再確認するとして、それらは僕の中にも確実にぶっすりと、届いた。

だれもがむかんけいではなくて、それはぼくもむかんけいではなくて、そのなかでできることはつまり、そういうことで。そもそもぼくが関わっている世界はそういうことをあらわすためにある。そのぶん、ふだんは笑ったり泣いたり、じゆうに解き放たれていていい、とか思ったりしている。いまこうして書いている瞬間はすくなくともそう思っている。そう思わないときもある。あいまいだ、自分なんてだいたいが。

タイの繁華街で巨大なデパートの中の紀伊國屋書店に寄って右も左もタイ語のうずまき、「ドラゴンボール」さえタイ語になったその場所を見とどけてまんぞくして、それからぶらぶら町を歩くと、タイのシルク王と呼ばれたという「ジム・トンプソンの家」というものがあって、僕はのこのこと入った。入館料は必要だったのかどうか、払ったか払ってないかわすれてしまったけど、「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」とかに出てきそうな、というと語弊があるかも知れないからちょっとわすれてもらって、丸太がたくさんつかわれたリゾート地に建てられるような邸宅の中が公開されていて、展示があったのかどうかももうすっかりわすれてしまってるんだけど、室内を見て回って、タイシルクのお土産が売っている売店を見て、目が満足したところで外に出ると、ガリガリののら犬が道路に寝そべっていた。いくつか路地を越えると街並みが暗くなって、まるでスラム街みたいな場所があって、そういった乱暴なグラデーションを目の当たりにしたけど、これは別にタイに限ったことではないなと思ったことを覚えている。

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