鳩の群れ
母の身体を拭いていた。いつの間に梅雨が明けたのだろう。満足に降ることもなくぐんぐん気温が上がっていた。20年選手のエアコンが室外機と同じような音を立てて冷風を懸命に吐き出していた。身体を横にしてシーツを取り替える。いつも母を抱えるたびに、身体が小柄でよかったと思う。しかし痩せてきているかもしれない。タオルケットをかけて、枕元に置いているノートを開き、ヘルパーさんにメッセージを残す。お昼、食欲があるようなら普通に食べさせてあげてください。「じゃあ行ってくるね」。声をかけて立ち上がろうとしたとき、母が服の裾をつまんだ。何かを言おうとしている。再びしゃがみ込み、母の言葉を待つ。唇がまんまるになった。
お……たんじょうび、おめでと。
昨日は声枯れるよ、と注意するほどぺちゃくちゃと大声でしゃべっていたのに、どうして今朝はささやき声に?ああ、枯れたのか、声。
ありがとう、と返して立ち上がる。内心、誕生日じゃないけど、と添える。うれしそうな母を見ていると、違うとはっきり指摘してはいけないと思えた。
出勤途中、キヨスクでひげそりを買った。あろうことかひげを剃り忘れていた。キヨスクの店員さんが、はい、お誕生日おめでとう、と言った。驚いたがすぐに理解した。20円のお釣りね、というところを20万円のお釣りね、と返す売店ジョークがあるのだ。いなせなしぐさだ。しかし最近はトラブルの原因にもなるから、自粛していると聞いたことがある。本当に20万円を出せと恐喝する人がいるという。冗談の通じない人のさもしいことよ、と当時思っていただけに、誕生日ジョークをかまされたあとの自分の返しも自ずと決まってこよう。ありがとうございます!景気よく返事をして電車に飛び乗った。
自分のデスクに、花束やプレゼントの包が山のように置かれていた。それぞれにはメッセージカードが付いており、どれもが誕生祝いだった。フロアを見回すと、目が合う同僚はみな、目で祝福を送ってくる。以前恋の告白をし、きっぱり断られた先輩の八代氏が拍手をはじめた。いややめてください、と言おうとしたがもう遅かった。フロア中に拍手が満ち、それらは全て自分に向けられていた。へこへこと頭を下げていると徐々に拍手が止んでいく。訪れた静寂。みんなの視線だけは変わらずこちらにとどまっていた。絶対何か言わないとダメなやつだ。ハハッと軽く鼻で笑ったあとに、「あのー今日は誕生日ではないんですけど」と言うと、フロアがどっと湧いた。”誕生日なのにそれを否定するギャグ”と受け取られた笑いだった。仕方がないので「うれしいです、今日は朝から最高の誕生日になりました、ありがとうございます」と続けた。指笛も響く喝采。人生初の指笛だった。
お昼、用意したお弁当を出そうとカバンを漁っていると、「こちらお届けでえす」とUber Eatsの人が3人来て、トントントンとテイクアウトの箱をデスクの上に重ねた。松のやのとんかつ定食(テイクアウト)、コメダ珈琲店のカツカリーパン(テイクアウト)、いきなりステーキのワイルドコンボ(ステーキ150g+ハンバーグ100g/テイクアウト)の3品。どうしろと……。
「誕生日おめでとうございます」
Uber Eatsの3人の配達員さんが口々に言った。一斉に、バラバラでぶっきらぼうだった。めでたい気持ちは湧かなかった。そういうとき、逆にちゃんとお礼ができる。感情が入らないほうが、言うべきことを正しいタイミングで言えるんだ、自分は。とんかつ定食とワイルドコンボは社内でも食いしん坊と定評のあった小園氏に譲った。自分も一口ずつ食べたので、仁義は守れたのではないか。カツカリーパンは公園まで持っていき、鳩に与えた。恐ろしい数の鳩が集まってきた。雀も顔をのぞかせていたので、ほら雀!と投げたが、すべて鳩がかっさらっていった。鳩!違うぞ!雀にあげたんだ!と叱ったが、無視だ。もし自分が神に、人間!ちゃんとしろよ人間!と言われたらどうだろう。その言葉を全て受け取ることはできるだろうか。人間という言葉の示す範囲が広すぎて、自分ごとにはできない気がする。人間!お前にやったわけじゃないんだ!オラン・ウータンにやったんだ!と言われても、目の前に大トロにぎりが10貫あったら手を出してしまうだろう。100羽近い鳩に囲まれながら弁当箱を開いていると、年の頃4才くらいの女の子がそばに来た。おたんじょうび、おめでと、と言いながら、こちらに手を伸ばした。女の子の手のひらには小さなスニッカーズがむき出しでのっていた。ベトベトに溶けていた。ありがとう、気持ちだけもらっとくね、それ、代わりに食べてくれる?と伝えると、女の子が泣き出した。食べてほしいのにい。慌ててベトベトのスニッカーズをすくおうとしたところ、女の子は右手にあったスニッカーズを左手で持ち上げた。スニッカーズが伸びた。食べてほしいのにい。食べる食べる。お腹で鉄棒にぶら下がっている人みたいな形に伸びた、ほどんど液状となったスニッカーズを掴み、口に入れた。女の子が頬に涙の筋を残しながら見つめてきた。ひとしきりむせたあと、おいしい、と言ってほほえんだ。女の子のそばに秋田犬が駆け寄ってきて、女の子の両手に付いたチョコレートを舐めはじめた。きゃははは。嬌声を上げ、女の子が満足気に走り去っていった。秋田犬が追いかけていった。
電話が鳴った。母からだ。ヘルパーさんがかけてくれたのだろう。
あのね、誕生日だったでしょ、おめでとう。
8ヶ月前だけど、ありがとう。
こちらが返事をしている途中で電話が切れた。なんなんだ。
半休をもらうことにした。ものすごい量の鳩に囲まれながら、会社に電話をかけた。公園からもよく見える我が社を見つめながら、電話口でちょっと半休いただきます、と上司に伝えた。上司は、誕生日だもんな。おめでとう。ゆっくり祝ってもらえよ、誰だかは知らんけど。とほてった声で言った。誰といると思っているのだろうか。あそれと。電話を切ろうとしたときに上司が加えた。八代がお前のこと探してたぞ。上司は八代氏と自分との顛末を知らないはずだ。告白とかじゃないか。冗談めかして笑った。連絡してみろ。
終話後、そのままスマートフォンでツムツムをした。気がついたら30分経っていた。何やってんだ誕生日に。我に返った。
急にむしゃくしゃして鳩に悪態をつきながら公園を出た。映画を見よう。スマートフォンで検索すると、フェリーニ特集上映の文字が目に入ってきた。今日なら『フェリーニのアマルコルド』と『道』が見られる。すぐに名画座へ向かった。チケット売り場でチケットを購入したとき、スタッフから「ひょっとしてお誕生日ですか?」とささやかれた。あーそうなんです、と答えたとき、かすかに胸が傷んだ。しかしその痛みは朝よりも弱くなっていた。「握手してください!」と興奮気味に手を差し出された。言われるまま手を握りふんふんと振る。ありがとうございます!と興奮気味にスタッフがいった。
上映後、しばらく映画館のベンチで考えていた。自分がいま見た映画は何だったんだろう。『フェリーニのアマルコルド』だったのだろうか。2本目は『道』だったのだろうか。『アマルコルド』の方はフルカラーというかデジタル撮影っぽい安っぽい画面で、ナレーションもなく、ひたすら焼き菓子が映し出されていた。手作業ではなく、工場のプレスやラインを見続ける80分だった。『道』は時代劇だった。勝新太郎の『座頭市』だった。壁にある上映ラインナップ告知を見た。フェリーニはフェリニーだったしアマルコルドはアマンドだった。道は道だった。座頭市だったが道だった。券売所の先ほどのスタッフを見ると、こちらの視線に気が付いたようで、目を輝かせて脇のあたりで手を振ってくる。手を振り返した。映画館を出るとすっかり日が暮れていた。先ほどのスタッフが隣にやってきた。「こちらです」と言った。誘導に従った。高田馬場駅のロータリーにやってきた。「こちらです」。再びスタッフは言った。お立ち台があった。上に乗った。後ろで爆音が轟いた。振り返ると花火が上がっていた。視線の先には高田馬場BIGBOXがあり、ビルの垂れ幕に「お誕生日おめでとうございます!」と書かれていた。花火が次々と打ち上がっている。メガネを取って、鼻根の皮脂を指で拭い、またメガネをかけた。近くにはもう、あのスタッフはいなかった。通行人がみな立ち止まってこちらに拍手と歓声を送ってくれる。仕事帰りのスーツの人、ベースを担いだ革ジャンの女性、初々しい若いカップル、アジア系顔立ちをした4人組、日能研のカバンを背負った少年、交番から出てきた警察官。それからたくさんの人たちがみな、こちらに祝福を送っていた。帰宅ラッシュと重なり、高田馬場ロータリーはあっという間に人でごった返した。誰も立ち去ろうとせず、喝采を送っている。ロータリーの一角にDJブースが組まれ、両腕と首にちいかわのタトゥーが入ったDJがハウスとジャングルを中心に爆音でターンテーブルを回しはじめた。重低音が空気を激しく震わせる。ロータリーから溢れた人々が道路にもこぼれていき、車通りを完全に止めていた。ビートに合わせて人の波がうねっていた。花火の光と轟音が人々の理性を弾けさせた。歓喜の声が満ちていた。ペットボトルの水が、何本も頭上に撒かれた。花火とともにペットボトルが次々と上空に飛び上がっていく。熱狂が自分の立っている場所を中心として放射状に広がっていた。圧倒的な空気。情熱に当てられて、自分もたまらず奇声を発した。ジャングルに轟くオラン・ウータンの奇声。しかし、声を出す直前、その静寂は訪れた。無音室の中、音が全て吸収されてしまったような静けさ。奇声は高田馬場でひたすらまじめに響き渡った。狂乱していたはずの人々が豆鉄砲を食らったようにこちらを見ていた。DJも、両目と口を大きく開いて固まっていた。いまや何千人という人々が、こちらを見て沈黙している。耳の痛くなるほどの無音。だが、
今日は誕生日、ふう〜〜〜ッ!!
振り絞るように叫んだ。
街に、叫び声だけが巡っていった。無音がまた生まれ、次の瞬間、音が返ってきた。これまで以上の歓声がコダマのように遠くから押し寄せてきて、高田馬場はもみくちゃになった。花火もDJもクライマックスへ向かっていた。誰も彼もが汗を飛ばしながら踊り、叫び、命を燃やすような夜。周りの騒乱にかき消されながら、いまなお、お立ち台にいた自分はまた「今日は、誕生日!」と絶叫した。スマートフォンが震えた。メールだ。母からだった。ポップアップにメッセージが表示されていた。
「間違えてたね。あんた今日誕生日じゃないじゃん」
スマートフォンをポケットにつっこみ、叫びつづけた。それは二度と言葉になることはなかった。