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物忘れ

ある男性と出会った当初はそれほど、何とも思わなかったけれど一緒にいる時間が長くなるにつれて彼は物忘れが激しいなと思うことがよくあった。

彼は私に「あなたの気持ちがずっとそのままならいいな」と言った。なんなら、いつかそんなこと言ってたね!と言うと言ったことさえ忘れてしまっていたようだった。そしてあることがきっかけの一つになったかは定かではないが、その人は私から離れていった。

ある日、彼の誕生日にとある商業ビルに行った。そこには洋服屋さんから雑貨屋さん、楽器が売っているお店など様々なお店が入っていた。その人は楽器が好きだった。ギターの弦の替え時だ、と言って楽器屋の方を見ていた。しかしもうすでに雑貨屋さんでプレゼントを買い終えた後だったので、それも買う?と聞いたがまだ買わなくて大丈夫!と言っていた。

その数ヶ月後、ギターの弦の替えを持ち「この前買ってくれた弦!」とその人は笑顔で言った。きっとその時私の表情はすごく曇っていたと思う。「他の人じゃないの?」と言ったが「そうだったかな?一緒に◇◇で弦、見たよね?」とその人は続けた。
私が忘れているのか?と思ったけど、いや、雑貨のプレゼントを買った後だったし、その人が遠慮したのをよく覚えているのでプレゼントをしたのは絶対に私ではないのだ。
きっと他の人から貰ったものを間違えたのだろうと一瞬思ったけれど、私を傷つけたりする人でもなくそんな冗談を言う人ではない。でも恐ろしくて記憶を思い出すお手伝いが、その時はできなかった。

「◯月くらいに会いに来てね」と言ったことはちゃんと覚えてくれていて、ちゃんと会いに来てくれるような人だった。そして、私自身が言ったのを覚えていないような些細なことはしっかりと覚えていてくれた。私の言ったことは大抵、ちゃんと覚えてくれていたのだ。
彼は、きっと、頑張って必死で傷つけないように忘れないようにしていたんだろうなと思うし大変な思いを沢山してきたのだと思う。

2人の思い出を掘り返す時に、私がほんの少しだけ引き出しを開ければ、その人は色んなことを思い出せた。だからその度に「物忘れが激しいから、そうやっていつでも思い出させてほしい」ってその人は言った。私は引き出しをほんの少し開けるのにも慣れて、それをきっかけに思い出してくれるのが嬉しかったし、私自身もやりがいを感じていた。

でもあの時だけは、ちょっと辛くなって何も出来なかった。多分、黙り込んだと思う。今でもそれがずっと心残りだ。

願望を事実かの如く記憶を塗り替えていたのだろうか。私は結構やりがちなのでわかる。
好都合で生きようとする、は人間の必然だ。
本当に誕生日に欲しかったのはギターの弦だったのだろうか。

本当のところはどんな理由で居なくなってしまったかはわからない。私に多少なりとも欠陥があったのだろうし沢山傷つけてしまったんだと思う。だけどきっと彼は私を傷つけないように離れようとも思ったのかもしれない。

いつでも彼を信頼して、彼が申し訳なく思わないように上手く引き出しを根気強く開け続ける人が今、彼の身近に居ますように。

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