魔法使いは二度死ぬ、そして
大森靖子ちゃんの新しいアルバムが出た。
6枚目のフルアルバムのタイトルは「超天獄」。
1周目で確信したのはこのアルバムは人生レベルで聴いてきた全ての音楽の中でいっとうに特別に好きであるということ。
大森靖子の作品括りではなく3X年間ここまで生きてきた中でのいちばん。
3X年分の身体に蓄積した音楽を優に超えてしまったことは驚きというより必然のタイミングであるとしか思えない。
真夜中のカルチャーBOYでMC鈴木さんが「名盤とか最高傑作というと陳腐に聞こえるけど」と言っていたけどそうなんだよ、気持ちわかるよ、3X年で1番とかもはやとても言いづらい。
棺桶案件であるがその前に、ともに生きていく盤であるということが大前提として。
ひとつ思うことはこの「超天獄」というアルバムはサウンドやグルーヴの心地よさや聞きやすさとは裏腹に歌詞を読むととてつもなく深いところまで連れて行ってくれるし引き込まれるので(そして実は音でもとんでもない深度のところへ行っていることにも気づく)、出してくれている感情内臓に向き合う胆力が必要だなということ。
消える覚悟、命を懸けるってそういうことだよ。そういう覚悟で聴くものだと思ってる。
1曲ずつ何か思ったこと感じたこと捉えたことを書いていきたいところではあるけれど特に何を差し置いても大切な曲が「魔法使いは二度死ぬ」だからこれについて少し書いてみようと思う。
ラジオやインタビューなどの媒体で本人より言及もされているがいったんおいておいてわたしと「魔法使いは二度死ぬ」ということで。
大森靖子楽曲においての「魔法」とはとても大切で取扱注意でもありとても繊細でかつそれでいて結論そのものはわかりやすい。
冒頭でその答えは明らかにされるとともに、これまで歌ってきた「魔法が使えないなら」「音楽を捨てよ、そして音楽へ」へのアンサーであり地続きであるということを想うと言葉にならない。
一聴して魂の叫びみたいな心の中にいる小さい女の子の靖子ちゃんが見えるようで胸が苦しくなった、魔法少女。
魔法が使えないなら死にたい、の少女は魔法使いになったけど時を経て「魔法使いになんかならなきゃよかった」って思ってしまう刹那って一度でも魔法少女でいたことのあるひとや現在進行形での魔法使い(魔女、わたし)なら感覚として持ちうると思う。だって暴きたくなかった世界の秘密や自分の思想の証明をしてしまうんだもん。あこがれていた魔法は、ドロドロの現実を見せて世界の一歩先を見据える力でありkawaiiビームだけで誤魔化したとて自分は欺けないから。そんなん知りたくなかったよね。
だから魔法使いとしての超歌手である靖子ちゃんはAメロ(はっきり聴こえないほうがよいしかしここが本音である)で膿のような気持ちをさらけ出しそこにおける風景を描いた自分だけがその風景から抹殺されてゆく=音楽を聴くってことだよ、と導く。
こんなのあんまりすぎる。
少し脱線するけれど1曲目のVAIDOKUで強く思ったのが「諦観」で、このアルバムを通してもその「諦観」は続くしそれでもと手を伸ばす先に見える一筋の光がうたわれていることの一貫性がすでにもう現世、、と言わざるを得ない。
「趣味がスーサイドってな毎日で 一日を生き伸ばす膨大な価値を抱きしめてるから さみしくないわ」
さみしいでしょこんなん。さみしくないわ、はさみしい、なんだよ。
これをやってくれているのが「今日もなんとか」だよ。膨大な人数に生き伸ばす価値をくれて日々抱きしめてくれてありがとう。
1人でもリプライをくれる人がいる限り辞めないと言っている「今日もなんとか」という言葉の魔法、孤独な部屋から孤独な部屋へ届くからこそ意味がある魔法。たくさんの価値と引き換えに削られていたとしてもきっと使い続ける宿命、さみしくないわけない。
「指ハートで潰した誰かの気持ちをぐっちゃぐちゃにかき混ぜて 致死量の愛 ウケる こんな気持ちがまだあったなんてね」=音楽をやれってことだよ。の構図。どれだけ考えてもたとえあたしが魔法使いだとしても同列に語ることのできない宿命。
自分の中にある致死量の愛に気づいたときひとは往々にして「ウケる」はずないから。しかしながらひとは絶望に気づいたときすべてを通り越して「ウケる」になるの、それはわたしもそうしてしまう気質であるのでここはわかる、の話。例えば(これは実体験です)モラハラを受けていた時期のこととか不意に思い出したり誰かに話す機会があったときに「まじウケる、わたしだもん仕方ないよねぎゃはは」っていうことがしばしばあるのだけれど、それウケないよってなる周り。でもこちらは絶望とかとっくに過ぎた感情だから悲しいとか思ったり出来なかった当時のままなので「こんなことあったのまじつらすぎたわウケる~」に脳内変換されるの。そんな感じ。
自分の中にもうなくなってしまったと思っていたはずの純粋さや愛情やまっすぐさ、ちゃんと悲しんでいいんだっていうことに気づいたとき、きっとそんなはずないのにあったんだ、ウケる、になる。あんまりだそんなことを思わせるなんて。
靖子ちゃんはまっとうに愛されてまっとうに悲しみ怒り喜びをもって生きていいことなんて当たり前のことなのにそんなこと忘れてしまうくらいの痛みを受け続けてきたから、純粋な愛情持ってる自分にウケちゃうしその結論が「(それがまだ残っている限りは)音楽をやれってことだよ」なの。
「音楽をやれってことだよ、」の声聴いて自分に残された最後の仕事(背負う宿命)を全うしようとしている気がしてそれが魔法少女のだした結論なんだね、と正面から受け止めた。それが結論ならばこちらも覚悟を決めるよ。
その導き出した答えに呼応するのが「魔法使いにしかやっぱなれないよ」。不当な扱いの上にある労働の愛そして先に触れた「一日を生き伸ばす膨大な価値」を抱きしめたとて打ち勝てない、だから必要なのは魔法を使うこと。自分を守るための魔法がないともう、打ち勝てない、ということを言わせるところまで来てしまったんだよ、そんなのってないよ。
だからもう一度「魔法使いになんてならなきゃよかった」に立ち返って、なんかの棒や派手な服と呪文で武装し、愛と正義 少女の震え 犠牲と祈りを抱きしめてるからさみしくないわって言うの。でもそれがあるから打ち勝てるとも読めてここはちょっとまだ自分でも解像度低めになってしまうのだけれど。ここは本当にさみしくないのかもしれない、とも感じる。
大森靖子が大森靖子を守るために抱きしめてるのであればそれは打ち勝つためのものだし、もし自分だったらに置き換えたらその武装でその想い抱きしめてたら生きていける気がする。魔法使いとしてのわたしの場合はだけれど。
「あってもなくてもいいムダなものにしかときめくことがもうできないの」
それはきっと靖子ちゃんにとって音楽なのかもしれない。
音楽をやることにしかときめくことができない、そんなのありかよ。
それが宿命であることへの諦観。
でも、音楽は。
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