一歩下がって立てること②
前回の続きを書いていきたいと思います。
前回同様、自分の経験から思うことを
ただひたすらに書いていきます。
もし、興味のある方は前回の①から
見ていただければと思いますので貼っておきます☺︎
前回のなかでは"先輩"という
自分の人生で初めて出会う存在に対して
理不尽だな、と思う出来事と
反対に尊敬できるような出来事
2つの経験したことを書いてみました。
今回はまた視点を変えて書いていきます。
1.田舎文化で触れてきた当たり前の男社会
話は大きく前回とは変わりますが、
私の両親の出身はどちらとも同じ地で
かなり田舎の出身である。
両親は仕事の関係で
田舎から栄えている市街地に出たので、
私は市街地の方で幼少期を過ごした。
市街地で生活をしていましたが、
お正月やお彼岸、お盆、法事など
各行事ごとに田舎にある両実家へ帰っていた。
幼少期は歳の近い従兄弟も多く、
従兄弟と朝から晩まで外へ出て、室内へ入り
また外へ出て遊ぶという繰り返しが
物凄く幼少期の自分には楽しく、
田んぼ道を車を気にせず
永遠に走り続けられる楽しさが
市街地に住む自分にはかなり新鮮でした。
また、祖父母にお小遣いを貰って
近所の駄菓子屋へ従兄弟と買い物へ行く
最大のイベントももあり、
幼少期は実家へ帰ることがとても楽しみであった。
幼少期はただひたすらに力尽きるまで遊び、
お腹が空いたら宴会をしている大人達に混ざり
大人達がつまみとして食べているオードブルや
煮物、実家で漬けている漬物、
母親達が子どもたちが食べられるようにと
握ってくれるおにぎりを片手間で食べ、
また外へ出るという繰り返しだったため
この大人の世界というか、
田舎あるあるに気づいたのも高校生くらいになってのことだった。
私や従兄弟達も高校生、大学生と成長し、
外へ出て遊びまわることは無くなったが
落ち着いて食事を楽しみながら
近況を話したり、悩みを相談したりと
年齢に伴った関係が今でも続いている。
特に自分たちの両親は
私や従兄弟に対して、
あれをやれ、これをやれなどといった事を
うるさく言ってくることもないが、
私たちも大人になったので
なんとなく空気を読んで動くようになった。
私たち女性は法事やお彼岸、
親戚の集まりがある時はほとんど台所にいて
大きな鍋に煮物を煮たり、
茶の間で親戚中集まった男性達が
宴会をしていて
「ビールが無くなった」と叫ばれたら
瓶ビールを待っていき、
「こっち来い〜」と旦那に呼ばれれば
旦那のそばに座り、
周りの男性たちへお酌をしながら話に混ざる。
なんとなく空気を読んで
自分の番が終わったと感じたら
そっと台所へ戻る。
これが私が感じた田舎で生きる女性の姿。
では田舎の男性たちの姿は、というと、
歳上のおじさんたちは
お酒を飲み顔を真っ赤にし酔っ払いながら
歳下の男性たちへ話を振る。
歳下の男性たちが話を振られたため
自身の話をすると、
それを全否定するよう自分の持論を重ねて
自分が正しいと言わんばかりに気持ちよさそうに説教まがいに話を進める。
歳下の男性は、
その間も周りの年配者に酒を注ぎながら
酒やつまみがなくなれば台所へ声をかけながら
歳上のおじさんが持論を気持ちよく話せるよう
下手に出ながら、自分の意見を押し殺して笑顔で聞く。という世界だった。
私の従兄弟は私含め男女共にいたため
年配の方が酔っ払って眠ったり、
各自の家に帰るまでは
各自の持ち場についていた。
女性は台所仕事、
男性は酒を注ぎながら年配者の話を聞く。
台所も片付き、
茶の間の方たちが酔って
その場で雑魚寝していたり、家に帰ったりと
落ち着いた中で私たち従兄弟はやっと落ち着いて全員で話ができるようになる。
という環境であった。
上記にも書いたが
別にこれは強制させられているわけでもない。自分たちがただ空気を読んでなんとなく自分の持ち場についているだけだ。
現に私なんかはかなりの大酒飲みに
成長をしたので、
台所にいつつも茶の間にフラっと現れては
年配者にお酌をしながらも
適当に相手をし
私も一緒にお酒を飲んで
楽しむような形を近年は取っている。
一人ひとりお酒を宴会の場で楽しめるのならば男女関係なくそこの場へ入ってもいいと思うし
男性でも、お酒を飲むよりも料理の方が好きであれば宴会の場にいることよりも台所にいてもいいのではないか、と感じるのだが
私のとっているこのスタイルはこの田舎では
新しいというか、なんというか
とにかく、今までにない形であり、
女性で瓶ビールを飲むというか
飲めてもあのような場で飲むというのは
母達世代からしてみれば新しいようで
"貴方だからできることよね"
なんていう謎の特許を取得した。笑
2.祖父を亡くして改めて気づいた
数年前に祖父を亡くした。
今まで生きてきて
たくさんの葬式には参加してきたが、
誰の葬式なのか
父から関係性を説明してもらっても
自分がその人に対しての思い出や関係性を
認知できていないほど疎遠の人だったため
人が亡くなることは悲しいことだが、
自分の身の回りに起こる人が亡くなること
=悲しい
というのが自身の中で結びついていなかった。
20歳を超え、
働き始めても大好きな祖父だったので
月1くらいは会いに行っていた。
亡くなった日の連絡を貰った日も
その2日後に会いに行く予定だった。
祖父は認知症になっており
もう私自身のことなど覚えてはいなかった。
けれど幼少期にたくさん祖父から貰った
温かい気持ち、大好きな気持ちは薄れることはなく、祖父が私のことを分からなくてもいいと思えるくらい大好きだった。
そんな祖父が亡くなって、
始めて人が亡くなるってこんなにも悲しいのか
文章にならない感情、気持ちがかなり渦巻いた。
通夜や火葬、葬式の際にも何度も何度もありえないくらい涙が出てきて
涙は出しても出しても枯れないんだな
なんて思えるくらい泣いた。
それくらい悲しかった。
田舎ということもあり、通夜も実家で行い
火葬が終わっては家に集落の人が来て
供養が終わっては、家に集落の人が来た。
茶の間で集落のおじいさんたち、おじさん
腰の曲がったおばあさんたちが
亡くなった祖父の話をしながら、
私たちが作った煮物や手配したオードブル
瓶ビールを飲みながら食べていた。
もちろん、供養膳という言葉もあるように
亡くなった人を惜しみながら食事を摂ることは
よくわからないがきっと大切な供養の1つの形なのだと思う。
けれど私は必死に台所で
稲荷寿司を作っていた。
平常心を取り戻せる時もあれば
どうしてもふとした時に
祖父のことを考えては涙が出た。
涙を止めても止めても、
この家には祖父との思い出がありすぎたのだ。
どこを見ても、台所一つでも
祖父の作ったニラ玉炒めが美味しかったななんてことも思い出してしまい涙が出てしまうのだ。
そんな中煮た油揚げの中に酢飯を詰めていた。
私の母も母の姉妹も
実父が亡くなっているのにも関わらず
必死に料理を仕上げていた。
「大変だね」とぼやきながら、
時々思い出しては涙を流しながら。
茶の間では集落の人が酔っ払っては
また持論を振りかざし、
私の父がその人の機嫌をとりながら酒を注ぐ。
祖父が亡くなったということもあり、
精神的に不安定になっていたこともある。
けれど、なんて世界なんだ、って
こんなことあっていいわけがない
こんなにも悲しい親戚が
どうして祖父の側にいられないのか
こんなにも悲しいのに
どうして台所に立たなければならないのか
そして茶の間で持論を振りかざして話している
お前は誰なんだ、
祖父の話をするのならばまだ許せた。
けれど今、お前の持論を聞くために
私たちは必死に台所で飯を作っているわけではない。
祖父を惜しむために作っている。
お前の持論なんて誰も聞きたくない。
私の父だって悲しみの中
なんでお前にお酌をしないといけないんだ。
お前は親戚でもなんでもないだろう。
祖父が体調が悪くなった時も
家に1度も来たことないだろう。
お見舞いにだって来たことないだろう、、。
怒りが込み上げた。
けれど親族として、祖父が旅立つ日をしっかりと用意してあげなければならない。
大好きな祖父のためにも
私にとっては怒りの対象でしかない
この持論を振りかざす生き物も
祖父にとっては
生前のかけがいのない人なのかもしれない。
そう思ったら結局は何もできなかった。
何か言える勇気もなかった。
ただ、思い出しては泣いて、料理を仕上げて
また思い出して泣いてということしかできなかった。
1番悲しいはずの親族が1番大変な葬式だった。
悲しむ間もないというのはこのことなのか
と感じた。
男性とか、女性とか、
色々性的な役割がまだ深く根付いているのかもしれない。
それに対して抗うつもりはないし
郷に従う。
けれども立ち位置とか年齢とか
そういう場ではもう少し考えて、
悲しみに浸らせてくれ、というか
少し別れを惜しませてほしい。
と思ったのがかなりの本音だった。
始めて性差というものと、
縦社会というか、年齢というか
そのようなものを実感した。
持論を振りかざす生き物に飯を出して
ビールを注ぐ意味なんてあるのかと
腹ただしくて仕方がなかった。
かなり長くなってしまいました。
まだまだ続きそうなのって引き続き
次回書いていきたいと思います。