エッセイしか読めない

 最近エッセイしか読めない身体になってしまった。なんでだろう。本屋さんに行くのは好きだし、隙があれば本屋さんに行って本を眺めているのだけれど最近はもっぱら雑誌かエッセイかを買うことが多くなった気がする。小説が嫌いになったわけではないし、偶にタイトルとか装丁とかが気になってパラッと中身を見てビビッときたら買うこともあるんだけれどなぜか読めない。エッセイ集はやっぱり読むハードルが低いのだと思う。1つ1つが短いし、途中でやめて時間を置いてから読んでも1つ1つが独立しているからまた読み直しやすいし。小説は1回時間を置いちゃうとキャラクターの名前や時系列とかをすぐ忘れちゃうからなかなか読み直すのが難しいという思いが先行してなかなか手を伸ばせない。
 今日は燃え殻さんの新作エッセイ集「それでも日々はつづくから」を読んでいてやっぱりエッセイって面白いな、と思ったので文章に残してみる。燃え殻さんの作品は以前「夢に迷って、タクシーを呼んだ」というタイトルのセンスが秀逸すぎるエッセイ集を読んで面白かったので新作も買ってみた。やっぱり面白い。エッセイの面白さって人の日常を垣間見ることが出来ることだと思う。自分では体験しないこと、でも確実に世の中で起こっていたことを追体験出来るのは楽しい。珍しい体験は勿論だけど、なんてことない日常を美しい言葉、変わった視点からの言葉で書かれているのも読むのも楽しい。書かれていることは現実で実際に起こったことなので、それに憧れたり、ちょっと真似したくなったりする。心地よい現実味があるから、世の中そんなに捨てたもんじゃないなって気分を少し前向きにしてくれるエッセイが好き。だからこそ、今をときめく有名人とか意識が高い系の人とか、そういった人のエッセイではなく、あくまで等身大な、作家さんには本当に失礼なんだけれど自分とそう変わらないような日常を送っている人の書くエッセイがいい。努力してのし上がる成功談とかいらない。なんとことない日常のひとコマを、そのゆったりとした空気感を魅力的に表現することが出来る作家さんに心から憧れる。
 それでこの日記を書きつつ本を読むという集中力がない中で今読んだ「まーまー好きな人」というタイトルのエッセイが今晩は一番のヒットになりそう。「世の中まーまーいいものからなくなっていく」「まーまーいいものが実は大事だったりする」というのに共感。たしかにふと振り返るとコンビニとか大手チェーンの店とかは無くなっても「ふーん」で終わるけど、ふらりと寄って「ここの料理美味しいからまた行ってみたいかも」となんとなく思ってた店ほど、後々ふとした拍子に調べてみると無くなっちゃってたりすることが多い気がする。店に限った話じゃなくて、人間関係も、めちゃくちゃ仲いい!って人はあんまり増やさなくてもいいなって思う。本当になんでも話せる、それこそ身の上相談からめちゃくちゃくだらないことまで話せる友人はひとりでもいたらいいんじゃないかって大人になってから気付いた。めちゃ好き!じゃなくて、それこそ「まーまー好きな人」を沢山作っていくことが出来たら人間関係はスムーズなのかも。特に仕事は。仕事終わりとか休日とかに頻繁に遊びに行くような関係じゃなくて昼休憩の時とかちょっとお茶の時間とかに何気なーく雑談できる関係。
 「まーまー好き」っていう程度な雑さが心地よくて好きな表現で、誰からもそう思われるような人間になるのが個人的には理想かもしれない。書いてて気づいたけど「まーまー好き」って宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の「ホメラレモセズ クニモサレズ」とちょっとだけ似ているのかも。
 

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