
本屋さんと「150年」
ぶらり途中下車
というわけで三鷹で途中下車して、散歩をしつつ無人本屋さんに。


ざっと本棚を見る限り、ちょっと気になる本もちらほら。この前神保町で購入した糸井重里さんの「ボールのようなことば。」があって、神保町でどの本を買うか迷ってた時に違うのを買っておけば良かったと少し後悔。「のりたまふりかけ」の本だったり「地球の歩き方 フィンランド編」だったりがあって買うか迷ったけれどカバンのキャパ的に断念。三鷹を後にする。
三鷹の次は荻窪に。文禄堂というオシャレ本屋さんがあるのでそこを目的地に設定。高円寺の文禄堂は何回か行ったことがあるけれど荻窪の文禄堂は何気に初訪問時。駅を出て文禄堂を探してぶらぶらしていると古本屋を2つ発見。外にある店を見ていると「日本古典文学 源氏物語」を発見。しかも200円。3冊で600円。買うかどうかを真剣に迷う。仕事で使うかもだし、持ってて損は絶対にないし、お手頃価格。でもいかんせん大きいし重いし嵩張るしで一旦保留にして文禄堂へ。
文禄堂。最高だった。入り口に雑貨コーナーがあったのだけれどそこで売られているグッズのデザインが可愛すぎる。ちょっと前にSNSで見かけていいなーと思ってたイラスト。ブックカバーの購入を即断。売られている本のラインナップも好みすぎて逆に辛い。選べない。カバンのキャパもあるしどうするか真剣に迷う。アニメのトートバッグもあったからそれに買った本は入れればいいかなと考えたけれど好きなアニメのものはなかったので諦める。泣く泣く本を厳選して「新しい、美しい日本の図書館」という図書館の紹介兼写真集と、くどうれいんさんの「日記の練習」というエッセイ、そして、「シルク・フロス・ボート」という漫画を選択。ビビッと来て、これはうちの本棚に飾りたい、と思った三冊。他にもいい本があって迷っていたけれどメモに残して家に帰ってから注文しようと決意。でも諦め切れなくて迷っていたら友人からLINE。予定よりも早く終わったとのことで焦る。文禄堂を出たら古本屋を堪能しようと思ってたけれど諦めて待ち合わせの池袋に向かう。ギリギリまで迷って結局、源氏物語を購入。紙袋をもらってなんとかしのぐ。後悔はしてない。
そして150年へ
そして池袋で友人と会って昼食を食べたら1番の目的の「150年」へ。立て壊す予定の建物をぶち抜いてくっつけていろんな展示があるイベントなんだけれど、表現力がなさすぎて「すごいものをみた」という感想が1番に出てくる。前に、さいたま国際芸術祭で「目[mé]」の展示を見たときは、どこまでがアートなのか分からなくなって日常と非日常がごちゃ混ぜになるという感覚で楽しめて、似たようなものかな、と事前になんとなく思ってたけれど、今回の「150年」は「なんかすごいものをみた」というチープな感想しかでてこない。でもすごく楽しかった。だけどそれじゃ、あんまりにも、もったいないので頑張って言語化してみる。
まずもって会場そのものインパクトがすごい。会場は、再開発によって取り壊しが決定している東池袋の一区画の全6棟の建築群。普通の民家だったりビルだったりと今まで、おそらく普通に人々が生活していた場所。民家やビルがそのまま会場になってて、建物と建物は壁をぶち抜いてたり、足場が組まれてて窓から窓へと移動したりする。危険があるということで誓約書を書くところから展示はスタートした。まずもって出迎えてくれたのは下記の作品。

見た瞬間、「ああ、こういう作品群なのか!?」と否応なくテンションが上がる。最初にマップと共に渡された作品リストを見ると作品名は「time hole atlas」で素材は「ぶち抜かれた壁」。最高だった。周りの店には工具やなにやら色々なものが置かれていて、どこからどこまでがアーティストの作為なのか、それとも元の住民の持ち物なのか判別がつかない。その感覚も楽しい。そして建物から建物へと移動する。

最初の作品を抜けて次の展示を見るために建物を移動。そこでまた衝撃。当たり前といったら当たり前なのかもだけれど、建物の内部に作品があるわけで、足場も組まれているから靴を脱ぐわけにはいかないわけで、つまるところ靴を履いたまま他人の家の中にあがって建物を散策する。これも個人的にはすごくゾクゾクした。例えばこれが、「民家をイメージした建物」であるならなんとも思わなかったかもだけれど、今回の展示は「ガチ民家」なので、靴を履いたまま廊下を歩いたり畳の上を歩いているとなんだかいけないことをしているような背徳感を味わった。

上の写真の通り、建物内部が全部作品展示になっているわけではなくて、中には、もしかすると住んでいた人が使っていたそのままにしているような「普通の部屋」が多くあって、そこに土足で上がり込んで散策するという行為自体がものすごく悪いことをしているような気にさせる。ベランダには洗濯物が干してあったり、本棚には本が残されてたり、タンスには下の写真のような落書きがあった。

個人的に好きだった下の写真の作品で、おそらく「ゆめゆめいぬいぬ」タイトル。おそらく、というのは最初に会場のマップが渡されるんだけれど、建物の図面で、でもその建物が複雑に入り組んでいるからどこがどの作品なのかちょっと難しい。作品リストの概要と素材もヒントに今自分がどこにいるのか掴もうとする。で、この「ゆめゆめいぬいぬ」は床一面に砂が撒いてあって展示に来た人の足跡が床に残されている。いわば、人が訪れる旅に作品が変化する。全体的に薄暗いのでどこに何があるのか判断するのが難しかったところ、床を他の方がスマホのフラッシュライトで照らすと色んなものが置いてあるのが浮かび上がってくる。ぬいぐるみ。野菜のおもちゃ。この文章を書いてて気付いたけれど、ぬいぐるみや野菜のおもちゃは流石にアーティストの作為的なものだとしても、じゃあこのソファーは?机は?仏壇は?当たり前のように「ああ、ここは元々家具が配置されててそこに砂を撒いたのか」って思い込んでいたけれど、どこまでがアーティストの作為したもので、どこからが自然なのか分からない。というかそもそも、元々あった家具とかをそのままにして作品に取り入れるのなら、それは「自然のままにする」というアーティストの意図がこめられているわけで、もう空間全体が「アーティストの作為」なのではないのかと今ふと思った。

また、ここには壁いっぱいの巨大な和紙でできた蛾がいてそれも空間の雰囲気を独特なものにしていた。しかも下の階からは「君が代」を加速させたり遅延させたりした音声が流れてきていてある種宗教的な雰囲気さえかもしだされていた。

その他にも布で作られた巨大な作品も会った。作品リストによれば、これは会場であるこの建物に残されたカーテンや衣服を集めて作ったものらしい。ある意味でこの建物の歴史そのものを具現化した存在なのかもしれない。



全体的的に「なるほど!こういう意味ね!」というすっきりメッセージが伝わるような作品はなくて、まあもしかすると自分の理解力がないからってだけかもだけど、建物全体が異界というような印象だった。建物が本当に入り組んでて、窓から窓、壁から壁、玄関から玄関、2階から3階とか移動しまくるから今自分がどこにいるのか分からなくなるのも異界化を促進していたように思う。よく見ると随所にあるカレンダーも日付バラバラだったし。ぶっちゃけ最後は出口が分からなくなってリアル迷子になってた。単に地図が読めなかっただけかもだけど。でも「民家で遭難」ってなかなか、というか、ここでしか感じられない経験だったと思う。「来訪者のイマジネーションを暴走させる」と企画者の方は書いていたけれど、正直展示を見ていた時間はその雰囲気に圧倒されっぱなしで、冒頭のような「なんかすごい」というような感覚ばっかで、でも、帰りの電車の中でこうやって写真を見返しながら文章を書いてると色々な気づきがあって、これがもしかしたら「イマジネーションの暴走」なのかもしれない。明日で展示は終わってしまうけど、こうやって自分の感想をまとめてからもう1回行きたかったな。もうすぐ家に着くけれど、この余韻は多分なくならないような気がする。今日は、いい日曜日だった。