世界に赦されたかった
私は世界に赦されたかったらしい。
ひとつ前の記事を書いたら出てきたこと。
私の居場所はどこにもないように感じて、一歩外に出たらそこは未知の世界。
私の見えている世界とは別の世界が所狭しと広がっているようだった。
自分の見えているものが信じられず、自分の感覚が信じられず、私は何を見ているのかと思っていた。
少しずつ自分を取り戻し、自分を生きていると思っていたけど、それでもなお深いところでは私の居場所を探していたらしい。
私が自分を解明することは、私の居場所を見つけることであり、世界の赦しを得ることだったようだ。
"赦されてない" なんて思ったことは無かったけれど、それだけたくさんの "なんで私だけ" とか "何かが違う" とか "私とは一体何なのだ" とか、この世に私が存在する意味や私の立ち位置や私の価値を探し続けていたのだろう。
それだけ私の世界は危うさでいっぱいで、意識を保っていなければ今にでも崩れ落ちそうなほど、脅かされた状態だったのかもしれない。
それすらも分からないほどに、安心という状態を知らず、過去の闇の時期が長く深かったゆえに、浮上してきている今を認めることで精一杯だったのだ。
それだけ目の前のことに必死になり、愚直にここまで向き合いながら生きてきた。
正直今死んでもなんの悔いもないだろう。現時点までにできることはやったし、十分すぎるほど頑張った。これから先にまだ楽しいことはあっただろうとは思うだろうが、ここまでの人生に悔いは無い。
☽⋰
"この世に存在していい" という安心感はなんと心強いものだろう。
無条件に赦され、私という存在が認められ、ここに存在できるのだ。
何もしなくてもここにいていい。存在していることに価値がある。
この前提のもとに生まれる未来は、それだけで彩りと輝きが増して、柔らかく温かく柔軟な世界を生み出すような気さえする。
この前提があるとき、人との関わりも、今までより少し安心してもてるような気がする。
「 私はこんな人間です。」
それを示すことにどれだけの恐れを抱いていたか。それが一番の恐怖だったように思う。全ての終わりを意味するような一声ですらあった。
それでも私は今もなお存在していて、これからも存在していくのだ。
私は私のままで、あなたはあなたのままで、すでに十分すぎるほどの価値がある。
誰しもが、たくさんの難関を乗り越えて、必要なピースとして、この世に生まれている選ばれし者なのだ。
だから安心していい。
安心できないなら、きっと今は安心を探すピース集めの時期なのだろう。
きっとその先に安心は待っている。世界は味方なのだから。