ヤマト政権の政治制度を理解したい

参考文献
①朝尾直弘ら(1996)『角川新版日本史辞典』角川学芸出版
②佐藤信ら編(2017)『詳説日本史研究』山川出版社
③塚原哲也(2018)『読んで深める 日本史実力強化書』
④野沢伸平(2017)『山川 詳説日本史図録(第7版)』
以下、引用する際には①~③の番号で出典を示すこととする。


まず、①で【ヤマト政権】を調べてみると、「6C.ころの大和政権は、氏姓制度・部民制や国造制を形成し、地方支配を含む政治組織を整備した。」とある。この3つを中心に考えていきたい。
※振り仮名は、単語の後ろに半角カタカナで示すことにする。

(1)氏姓制度

以下①
【氏姓制度】
 氏(ウジ)を基本とし、姓(カバネ)によって氏を序列化した大化前代の政治制度。氏はヤマト政権に使えた政治的集団で、氏姓制度によってすべての氏族集団が支配されたわけではない。大伴・物部氏のように氏の名が職掌を表す連(ムラジ)系と、蘇我氏のように居住地の地名を名にする臣(オミ)系から、ヤマト政権の最高執政官である大連大臣が出て朝廷の政治に参加した。氏姓の賜与や変更は大和政権の固有の権限であり、王の一族には氏・姓がない

【氏】
 大化前代、ヤマト政権に仕えた、祖先を共通にする政治組織。氏の長を氏上といい、氏人のほか奴婢(ヌヒ)などの隷属民から構成された。(後略)

【氏人】
 古代、氏上に率いられた氏の構成員。(後略)

【姓】
 古代の氏に対し、その地位や政治的序列を示す呼称。氏の成立以前から使われてきた尊称が、氏の成立後、それを秩序づけるための姓に作りかえられたという。大和政権から賜与され、その変更も政権固有の権限であった。賜与される姓の種類は、氏の出目や職掌によって定まった。(後略)

 氏姓制度は比較的平易であろう。基本は大和政権が「中央集権的な国家体制を目指(②)」して「大王と豪族の関係が支配と被支配の関係へと変化(③)」していく中で作られた制度だと思われる。豪族は血縁で氏という政治組織を形成した。氏の名には「葛代・平群(ヘグリ)・巨勢(コセ)・蘇我など本拠地の地名を冠したものと、大伴・物部・土師(ハジ)・中臣・膳(カシワデ)など職掌に基づくもの(伴造系豪族)とがあ(②)」る。氏は大王が姓を与えることによって序列化される。姓には「臣・連・君・直(アタエ)・造(ミヤツコ)・首(オビト)・史(フヒト)(②)」がある。

 臣:氏の名が地名を表す豪族に。主にヤマト地方の有力豪族
   (例)葛城・蘇我・吉備・出雲
 連:氏の名が職掌を表す伴造豪族に。
   (例)大伴・物部・中臣
 君:地方の有力豪族に。
   (例)筑紫・毛野(ケヌ)
 直:国造に任じられた地方豪族に。
   (例)凡河内


 また、③によると、臣・連から最も有力な豪族がそれぞれ大臣・大連に選ばれ、「それ以外の有力豪族のなかから大夫(マエツキミ)が選ばれ、大王の王宮に出向いて政務を合議した」らしい。
 姓の実例には岡田山1号墳(島根)出土の太刀がある。この太刀には「各田阝臣」とあり、これは「額田部臣(ヌカタベノオミ)」と読める。6世紀後半には氏姓制度が確立していたことが読み取れる。
 

(2)部民制

以下①
【部民制】
 大和前代、伴(トモ)部(ベ)の制度に関する政治的社会体制を示す学術用語。伴と部は、中央および地方の伴造(トモノミヤツコ)に支配・管理される。一般的には次の3種類に区分される。(1)大王や王族に関連する名代・子代。(中略)(2)大和政権を維持するうえで必要な社会的分業を構成する、いわゆる職業部。これは一部の説で「品部」という。(後略)(3)部曲とよばれる豪族所有部。(中略)これらの部民は、生産物・貢納物を収納する施設でもある屯倉田荘と密接な関係をもつ。(後略)

【伴】
 大和前代、大王・王族の宮や中央豪族の居館に出仕し、舎人(トネリ)・靫負(ユゲイ)などの職務に従う人。伴を統率する人を伴緒といい、伴造に支配・管理された。伴の出仕にかかわる諸費用を在地で負担する集団がである。

【部】
 大和前代、大王・王族の宮や中央豪族の居館に出仕する伴や、王族・中央豪族および中央政府に必要な生産品などの貢納物を提供する在地の集団。地方の部は、中央および地方の伴造に支配・管理された。(後略)

【名代】
大和前代、部民の区分の一つ。大王や后妃の名を冠した部民。(中略)なお、子代と実態は同じ。
【子代】
大和前代における部民の区分の1つ。大王が王子の扶養のため設けたといわれる。(後略)

【田部】
 屯倉に所属する田地の耕作に従った部民。職業部の農民。国造クラスの在地首長が支配していた農民をさいて設定されたが、一部には百済系などの渡来人を集めて設けた。

【品部】
 大和前代における部の区分。(中略)解釈で2説に分かれる。(中略)「品部」を「職業部」とする説と、(中略)部一般とする説である。(後略)

【部曲(カキベ/ウジノヤッコ)】
 大和前代の部民の区分の一つ。(中略)豪族所有部をさし、大化の改新で敗死された。(中略)この「部曲」は、①民部をさすとする有力な学説と、②民部・家部を意味するとする説に分かれる。(後略)

【屯倉】
 (前略)大和前代の農業経営の拠点で、屋・倉などの建物や田地からなる。大和政権の直轄地といわれることが多いが、本来は大和政権が領有する特別な「やけ」で、建造物の所在する場所であった。大化の改新詔でともに廃止された田荘と実質的な経営形態は同じ。耕営には田部や、国造や所有する周辺の農民が動員された。(後略)

【田荘】
 (前略)臣・連・伴造・国造・村主らが所有した大和前代の農業経営の拠点。屋・倉等の建物と田地からなる。大化の改新詔でともに廃止された屯倉と経営形態は同じ。豪族所有の奴婢や周辺農民の労働力によって耕作された。(後略)

【伴】に舎人・靫負とあるが、これを理解するには国造制を知らなければならない。詳しくは後述するが、国造は「地方行政単位である”国”の首長」と考えてもらいたい。その上で、次の記述を見てほしい。「国造は、みずからの統治権を認められるかわりに、ヤマト政権に対して、子弟(舎人(トネリ)・靫負(ユゲイ)として)・子女(采女(ウネメ)として)の出仕、地方特産物や馬・兵士の貢上などを行った。また、屯倉(ミヤケ)や部民(ベミン)を管理する伴造職を兼務したり、国造軍を統率してヤマト政権の遠征に参加したりした。(②)」ここで、舎人・靫負・采女についてみてみよう。

以下①
【舎人】
 古代の下級官人。天皇・皇族に近侍し、護衛を任とした。令制以前の舎人は、名代(ナシロ)・子代(コシロ)として大王宮・王子宮に出仕した部民であった。(後略)

【靫負】
 大和前代、武力をもって王権に奉仕した集団。(後略)

【采女】
 後宮の女官の一つ。天皇に近侍し、主として食事のことに携わった。令制度以前には国造など地方豪族が貢進していた(後略)

 国造は、地方の有力な豪族が任命されるものである。任命された地方豪族は、一族の男女をとして王宮や中央豪族の居館に派遣しなければならない。伴は中央で舎人・靫負・采女という官職に就くことになる。そして、伴の出仕にかかる費用を負担するために在地に置かれたのがである。中央で伴を統括する者と、在地で部民を統括する者を、合わせて伴造と呼ぶ。
 また、国造は屯倉の管理も任された。屯倉はヤマト政権の直轄地であり、農業経営の拠点である。実際に屯倉を耕作したのは田部だ。

 次に部を具体的に見ていこう。部には【名代・子代の部】【田部】【品部】【部曲】がある。なお、諸説ある用語については②③に従うことにする。

 名代・子代の部 王族直轄民。王宮に各地の生産物を貢上
 田部      屯倉を耕作
 品部      専門的な職業でヤマト政権を支える
 部曲      豪族私有民。田荘を耕作
 

(3)国造制

以下①
【県(アガタ)】
 大化前代における大和政権の地方行政単位。その首長が県主。(中略)国の下位組織とみる説と、国造に先行して設置され、その後再編されて国が造られたとする説がある。(後略)

【国造(クニノミヤツコ/コクゾウ)】
 大和前代の地方行政単位である国の首長。7C.前半までに下位組織として県(コオリ)が設けられたらしい。(中略)姓は直が多く、臣や君もあった。(後略)

【国】
 前近代の地方行政区画。『漢書』以来、中国では古代日本の地方自治集団を「国」と認識し、倭人自身もそれを「くに」とよんでいたことが『随書』所見の「軍尼(クニ)」によって知られる。この「くに」の支配者の系譜をひくのが地方豪族の国造であった(後略)

【県(コオリ)】
 大化前代における大和政権の地方行政単位。稲置が管轄。近年では、県主が首長をつとめる県(アガタ)とは区別する。『随書』倭国伝などによれば、国造が治める国の下位組織と考えられる。

【稲置(イナキ)】
 大化前代、国の下位に大和政権が設置した県の地方官職名。(後略)


 まず厄介なのが【県(アガタ)】と【県(コオリ)】だろう。【県(アガタ)】には2つの説があるが、ここでも②に基づいて「国造に先行して設置され」たものと考える。具体的には、「初期のヤマト政権では、ヤマト政権に服属した地方の地域共同体のうち、重要視されたものが県(アガタ)とされ、その首長が県主とされていた(②)」らしい。「それに代わる地方支配体制として順次設定されたのが、国造制である」。【県(コオリ)】は、国より細かな地方行政単位と考えればいいだろうか。つまり、

 大和初期    県(アガタ)〔首長:県主〕
             ↓
 6C.-7C.はじめ    国〔首長:国造〕    ー 県(コオリ)〔管轄:稲置〕

のように考えればいいか。


 次に、国造についてだが、概要は(3)で触れてある。大王から国造に任命された地方豪族は、大王に伴の出仕や屯倉の管理、必要に応じて軍事動員の要請に応じるなどの任を負った。また、場合によっては屯倉を経営する権限も認められたため、総じて、国造は「地域人民への支配をヤマト政権から保証された」とみてよいだろう。

まとめ


 氏姓制度は、小国連合的な邪馬台国から脱して中央集権的な国家体制を目指すヤマト政権の制度である。豪族は血縁に基づいてをつくった。首長を氏上、構成員を氏人と呼ぶ。氏の名には本拠地の地名を冠したものと、職掌に基づくものがある。氏は、大王からという称号を与えられることで序列化された。氏・姓には以下のようなものがある。

【氏】
 本拠地の地名:葛代・平群(ヘグリ)・巨勢(コセ)・蘇我など
 職掌に基づく:大伴・物部・土師(ハジ)・中臣・膳(カシワデ)など

【姓】

臣・連・君・直(アタエ)・造(ミヤツコ)・首(オビト)・史(フヒト)がある
 臣:氏の名が地名を表す豪族に。主にヤマト地方の有力豪族
   (例)葛城・蘇我・吉備・出雲
 連:氏の名が職掌を表す伴造豪族に。
   (例)大伴・物部・中臣
 君:地方の有力豪族に。
   (例)筑紫・毛野(ケヌ)
 直:国造に任じられた地方豪族に。
   (例)凡河内

 臣・連から最も有力な豪族がそれぞれ大臣・大連に、それ以外の有力豪族のなかから大夫(マエツキミ)が選ばれ、大王の王宮に出向いて政務を合議した。
 また、姓の実例に岡田山1号墳(島根)出土の太刀がある。

 
 部民制国造制は合わせて考えてみよう。国造制が成立する以前は、地方の行政単位として県(アガタ)が置かれていた。それに代わる地方支配体制として順次置かれたのがであり、県(アガタ)の首長を県主と呼ぶのに対して、国の首長を国造と呼ぶ。そして、国の下位組織として県(コオリ)が置かれた。県(コオリ)は稲置が管轄した。

 大和初期    県(アガタ)〔首長:県主〕
             ↓
 6C.-7C.はじめ    国〔首長:国造〕    ー 県(コオリ)〔管轄:稲置〕

 国造には地方の有力な豪族が任命された。任命された豪族は、必要に応じて軍事動員の要請に応じること、大王の直轄地である屯倉の管理、一族の男女をとして王宮や中央豪族の居館に派遣することを義務付けられた。場合によっては屯倉を経営する権限も認められたため、ヤマト政権から地域人民への支配を保証されたといえる。伴は中央で舎人・靫負・采女という官職に就くことになる。また、伴の出仕にかかる費用を負担するために在地に置かれたのがである。中央で伴を統括する者と、在地で部民を統括する者を、合わせて伴造と呼ぶ。

【国造】
 軍事動員
 屯倉の管理 
 伴の派遣  → 舎人・靫負・采女〔伴造が統括〕
       → 部が在地で伴の費用を負担〔伴造が統括〕


また、部には以下の種類があった。

 名代・子代の部 王族直轄民。王宮に各地の生産物を貢上
 田部      屯倉を耕作
 品部      専門的な職業でヤマト政権を支える
 部曲      豪族私有民。田荘を耕作


 以上を構造の面から見てみよう。大王の直轄地は屯倉であり、屯倉は国造が管理して田部が耕した。大王の直轄民は名代・子代の部であり、これは、つまり国造の一族から出仕されたものが就く。豪族の私有地は田荘で、同じく私有民である部曲が耕した。

大王 直轄地:屯倉(国造が管理)→ 田部が耕作
   直轄民:名代・子代の部
豪族 直轄地:田荘       → 部曲が耕作
   直轄民:部曲


いくつか表現が気になる部分や、誤字が散見されると思うが、受験まで割と余裕がないのでご容赦願いたい。こちらの都合で省いた部分があることには謝りたい。それでもわかりにくいのだからたまらない。愚痴を言っても仕方がないので、ここで筆を置くことにする。大きな誤謬はないと思うが、これで記述に間違いがあったらたまらない。それでは。

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