現状についての断章
私は私の現状――ここ数カ月の私の行動がもたらした結果――について語りたくない。それは相対化されない今・ここと尾ひれのように繋がっているからであり、現状の危機は私自身の堕落として容易に換言し得るからだ。
私の受験勉強が不完全であることの恥ずかしさは、過去として決別された事態の失態として証言できない。勉強が不十分であったのが過去のことだとしても、勉強が不完全であるのは今も同じであり、その事実において私は恥ずかしいのである。
私は誤解をしている。それは大学に入れば継続的な学習ができ、数々の表象を語り得、私もその表現者に参画できるという誤解である。過去から現在にかけて不十分であるならば、未来においても不十分であることは言を俟たない。私の堕落の原因をこの私自身の内に認めないとすれば、それは私を取り巻く環境というより、私という文脈に認めるべきであろう。それは習慣であり、性癖であり、アイデンティティであるのだが、それは私の固有性を示すだけにとどまってはくれない。私の意識は変革しても、私の文脈は決して変わらないのである。そして文脈が変わらないということは、往々にして私の環境も変わらないのだ。
私は誤解をしている。それは、今が人生の岐路であるような、そして舵を切るための努力をしない自分が楽観的であるというような誤解である。私は人生の岐路にすら立ってはいない。無数の選択肢はこれから開けるのであり、私は今その選択をする舞台に立つための服を着ている状態なのだ。芸に秀でない私は一般受験という形でその舞台を目指さなければならない。そして舞台に立つために身だしなみを整えることは、つまり数学や英語や古文といった学識を身に着けることは、公共の場所で裸ではないということでしかないのである。英語が読めるというシャツを着て、古文が読めるというズボンを履き、数学の計算ができるという靴を履いて、ようやく選択することができるのだ。それを身に付けないということは、学問の場で選択ができないということを意味する。その有限性は得てして見えないのであるが。
自由意志を認める以上、私は学問の道を志しているのだから、私は私のコンテクストを切らなければならない。それは私という存在を分断することであり、私という存在を解体することであるのだが、きれいな湯飲みを作るにはまず意図しない形で固まった粘土をこね直す必要があるのだ。この切断は、今の私の価値観を絶対視するものであり、非常に危ういものだと思ってきた。しかしそうではない。この判断は過去―現在の私と理想像として描き出される私を比較して得られたものであり、決して絶対的なものではないのだ。また、仮に私の理想が変わったとしても、例えば私のプレイしないゲームの動画を見たりすることが私の将来に資するとはどうしても思えない。この考えは間違っているだろうか。無論、答えなどない。自由意志を認める以上、判断の根拠は全て「私がそう思ったから」としなければならないのだから。
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