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「認識手段」の言語から「生態系」の言語へ

ある日、カタルーニャ出身の友達が次のようなことを言ってきた。
「日本語ってすごいね!いろいろなものに数を数える単語をつけるんだけど、それを一瞬で峻別するなんて!」

確かに単数形と複数形を区別する印欧語族の話し手にとって日本語の単複の認識の仕方は奇妙に思えるかもしれない。

しかしながら、それぞれの言語にはそれぞれのルールがあり、それにより人の認識は整理整頓されていることは一種の事実であろう。

例えばカタルーニャ語の「本」の基本の数え方はとてもシンプルだ。

Un libre → Uns Libres

カタルーニャ語は他のロマンス語同様、基本的な形として語尾に"-s"をつけて、単数形でないことを判別している(ただし、単複同形も存在する)。それに対して日本語は:

一冊の本→何冊かの本

「何冊か」という不定数を表す語が付加されていることを除けば、日本語は「冊の本」という部分が変わらない。カタルーニャ語の例とは異なり、数を数えるための独立した単語を付与し、数字だけが変わっていくというシステムを持つ。

そのため、日本語に慣れていない、日本語を学習して覚えた人は大抵、「数字+名詞」のような言い方を学習の最初によくすることがある。例えば「2りんご」だとか。「冊」や「本」のように、日本語の数字を受け止めるために用いられる単語、あるいは単位のことを助数詞と言うが、この助数詞を介さない方法で表現しようとするときがある。

私は逆に最初、英語を学ばさせられたときに「複数形は語尾に"-s"をつけるだけ」と聞いてひどく簡単な印象を受けた。ただ、それが基準にもなってしまってるので、アラビア語のような語中の母音の配置換えをして複数形を作る言語の構造などを勉強したとき、アラビア語がべらぼうに難しい言語のように感じたことは今も覚えている。

今のように「日本語式」、「英語式(印欧語族式)」、「アラビア語式(セム語式)」の3パターンの知識があると並大抵の文法事項では驚かなくなる。

だが、例えば型にはまらないパターンを持つ言語には今も心揺り動かされるのは確かだ。セム語に属する言語が「英語式」のような複数を表す語尾をつける方向性を見せたときは興味深く感じる。

例えばアムハラ語はアラビア語と同様、セム語派に属している言語だが、複数形の作り方としては「英語式」の複数形だ。下記は例えば「通訳(አሰተርጓሚ)」の複数形。母音終わりなので語尾に「〜ウォッチ(ዎች)」がつく:

አሰተርጓሚ → አሰተርጓሚዎች
(astärgwami→astärgwamiwočč)

おそらくちゃんとアムハラ語を勉強すれば、実はもっと例外が出てくるのだろうと思う。ただし、『ニューエクスプレス アムハラ語』で勉強できる範囲ではこのタイプの複数形しか学ぶことはできない。

しかしながら、このような「一つ」か「一つ以上」であるのかというミクロな点が組み合わさり、私たちの人間生活の大きな「認識」の総体となっていることは重要だ。そして言語が「情報を整理」し、私たちがどうすべきか働きかけているとするならば、それはもうすでに単なる認識の問題ではないのだろう。

思い当たる節はいくつかある。ハンガリー語のように「物事が限定されているか否か」で動詞に異なる人称語尾がつく言語もあるし、グルジア語の能格やクルド語がもつ能格的構造もそれぞれの「認識」する方法、情報整理する方法が異なるからなんだろうな。このように外界の認識の方法は言語によって大きく違う。

そこには「X言語において、対象Yを認識した。それはAだからBという風に言いなさい、Cのようにしなさい」というロジックがあるように思われる。そうなるとまさにそのロジックというは「生態系」と言えるかもしれない。

私たちは本当に自分で答えを出しているホモ・サピエンスなのだろうか、それとも動物的に答えを導き出させられているだけのホモなのだろうか。言葉を知るということはそのような問題にも関係してくると思う。




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