2018 横浜国立大学 都市科学部 都市社会共生学科 小論文 模範解答
問1.
筆者は、ソ連の強制収容所での経験から、共生とはせっぱつまったかたちではじまると述べる。なぜなら、抑留者が過酷な環境で生き抜くためには、相対するもう一つの存在に耐える必要があるからだ。その結果、他者への不信感や憎悪が人間を共存させる強い結びつきとなる。さらに、不信感や憎悪、自己嫌悪をも含んだ上で生まれた連帯は、強固な形で持続すると同時に孤独をもたらす。孤独とは単独な状態ではなく、連帯のなかにはらまれている。また、この連帯は別の条件では解体し、単独な個人から新たな連帯が生まれる。つねに変わらず存続するのは一人の人間の孤独であり、このような連帯と解体の繰り返しから秩序が存在するようになる。(295字)
問2.
これまで家族はイエや血族関係において、基本的な人間集団の単位を成し、共生の一般的な形であった。しかし、現代社会において核家族化が進んだ結果、家族のつながりや規範の中心となるのは、もはやイエの制度やしきたりではなく、個人の価値観となっている。価値観が異なる家族の成員がいれば、そこには摩擦や軋轢が生じることになる。それが激化すれば、家庭内暴力や親族間殺人などにつながる事態も出てきている。それゆえ、家族とはいえ、価値観の異なる個人どうしが共生するためには、家族の間においても譲歩や妥協が必要となると考える。したがって、筆者の述べる共生のように、家族のなかでも相対する他者の存在に耐える必要があると考える。
他方で筆者に倣って、憎悪や不信感にもとづく結びつきによる家族のあり方というのは、維持することができないと考える。そもそも家族がいっしょにいる必要がなくなってしまうからだ。筆者の述べる憎悪や不信感による連帯は、収容所における過酷な環境によって、強制的に生み出されたものである。しかし、家族は強制的に形成・維持されるものではない。家族であっても、縁を切ったり、離婚することが実際上可能だからだ。
これからも家族関係が維持されるとしたら、異なる価値観を持つ個人どうしが各々の価値観と上手く折り合いをつけながら、複数の個人が相互に他者の存在に耐えていくことによって、家族の共生が可能になると考える。(595字)