2017 京都教育大学 教育学部 国語領域専攻 学校推薦型選抜 小論文 模範解答
問一
(ア)判
(イ)履歴書
(ウ)謝り
(エ)促音
(オ)一目瞭然
問二
(a)あんど
(b)あこが
(c)きとく
(d)とうてん
(e)そしらぬ
問三
筆者が、ただ単に字や文章を綴れるようになることにとどまらない、識字を行う本質的な意味合いや課題を、梅沢さんとともに後に初めて学び知るようになることを示唆する意味があると考える。(八八字)
問四
筆者は文章を綴り、表現するということは、本質的に表現者に固有の表現を行うことであると考えるようになったことが伺える。しかし、「学校教育的なもの」とは、「正しい」文章の綴り方や表現法を指導することを重視し、漢字や文章に修正を施し、表現者に固有の表現を行うことを認めない指導法のことである。したがって、筆者は「学校教育的なもの」を排除すべきだと考えている。(一七六字)
問五
梅沢さんの作文における「おかさん」の表記とその音読によって明らかになった固有の表現から、筆者が識字を行う本質的な意味を学び知るようになり、識字のあり方を変えていったというエピソードと本のタイトルは、ことばを用いて表現することの意味を改めて問い直し、これまで用いてきたことばに対して新たな向き合い方を迫られることを示唆する点で関連していると考える。(一七三字)
問六
学校教育と識字教育において、基礎的なことばや文字の操り方、文章の表現の仕方を指導する点は、同様の役割を果たすと考える。一方で、学校教育では学習指導要領にもとづき、「正しい」表現法を指導することが求められる。他方で、筆者が考える識字教育では、人々が文字を取り戻し、「その人の生きてきた歴史」や「その人が大切にあたためてきたかけがえのないたからもの」をその人に固有の表現によって表すことを重視し、漢字や文章を修正することはないとする点が学校教育とは異なる。
以上のような学校教育と識字教育との相違を踏まえたうえで、小学校での書くことの教育はどうあるべきだろうか。まず、学校教育においては、ことばや文章について「正しい」表現を指導する必要があると考える。というのも、特に義務教育においては、国民として身に付けるべき日本語の運用能力を滋養していくための教育を受けることは、国民の権利でもあるからだ。しかし、そうした要件を認めながらも、筆者の考える「その人のそのままの文字や文章」によって固有の表現を行うことを重視する識字教育の本質は、学校教育から排除されるべきものではないと考える。なぜなら、識字教育が狙う、その人にしかできない、その人だけのことばや文章を通じて固有の姿勢やあり方を示すことは、子どもたちの情操教育上も不可欠だと考えるからだ。したがって、小学校においてはことばや文章を「正しく」読んだり、書いたりする力を子どもたちに身につけさせる一方で、ことばや文章を用いて自己の考えや感情を自由かつ豊かに表現するための指導を実践するためにも、識字教育に学ぶ点は大いにあると考える。
以上より、学校教育の目的が識字教育の目的とは異なることを認めながらも、識字教育においてなされている優れた実践を取り入れることによって、小学校での書くことの教育を豊かなものにすることができると考える。(七八五字)
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