東京学芸大学 2019 E類教育支援専攻 多文化共生教育コース 小論文 模範解答


問1
「ぼくは、日本の人に好かれていないからね、ほかの人にたのんでよ」
/「先生、ボク手がきたないから他の人に頼んでよ!」

ニューカマーの子どもたちは、生活様式の違いや言葉が通じないことから、差別やいじめを受けることが考えられ、この少年も自分に自信をなくし、他者との接触に積極的になることができないと考えられるため。(96字)


問2
 課題文から、ニューカマーの子どもたちは、言語の問題に加えて、いじめや差別、家族との関係にも困難をきたしているという問題を抱えていることがわかる。それでは、ニューカマーの子どもたちに対して、どのような支援策が考えられるだろうか。私は大きく三つの支援策を講じる必要があると考える。
 第一に、日本語に加え、母国語を学ぶことができる環境を整備することである。なぜなら、子どもたちが母国語を忘れてしまうことを食い止め、両親とのコミュニケーションを維持する必要があると考えるからだ。また、母国語を話すことは、子供たちが自らのアイデンティティを確立するためにも必要だと考える。第二に、ニューカマーの子どもたちの居場所となるような場を作ることである。というのも、子どもたちは、言葉の通じない異質な環境にいることから、対人関係に不安を抱えたり、疎外感を感じることは容易に想像できるからだ。したがって、そうした子どもたちの存在を受け入れ、子どもたちが安心できる場を学校や地域社会のなかで作る必要があると考える。第三に、日本の学校教育のなかでも、外国人の子どもたちと共に生きようとする意志を持ち、皆が多文化共生社会の形成に努めることを理念とした教育を展開することである。なぜなら、日本の子どもたちにも多文化共生についての教育を行い、異質な他者に対する差別や偏見、いじめをなくすことが急務だと考えるからだ。(590字)



問1
 下線部で述べられている事実からは、言語は世界を恣意的に切り取っているに過ぎず、言語があらかじめ区切られた独立の存在である物や概念の名前ではないことがわかる。したがって、言語は物や概念の名前ではなく、物や概念の「区切り方」のバリエーションであり、言語がなければ世界は区分されず、われわれが経験している世界は言語によって区分されるものの、本質的には境界線のない連続体であることを意味していると言える。(198字)


問2
 課題文において述べられているように、言語それ自身が思考形式であるならば、我々とは異なる言語の話者の思考形式は、我々とは異なるということになる。したがって、自身の言語による思考形式と他者の言語による思考形式との差異に無自覚であることは、意思の疎通において、誤解や理解の齟齬を生むことに加え、異文化を単に異質なものとしてしか受け止められなくなるという難点が考えられる。というのも、課題文で挙げられたいくつかの例にもとづけば、自身の言語にもとづく思考形式は相対的なものに過ぎず、絶対的な物の見方や唯一正しい事物のとらえ方というのは存在しないと考えられるからだ。
 上記の難点を克服するためには、どのようなことが必要だろうか。対象の分節の仕方が言語によっては異なるのであれば、同じ対象、同じ世界を目にしているはずなのに、私たちが見ているものは異なることになる。したがって、言語によるこの世界の分節の仕方の違いが、人々の物の見方の違い、ひいては文化の違いということになると考える。それゆえ、異文化理解においては自分の物の見方や考え方を当たり前だとは考えず、言語によって多様な世界のとらえ方があることを学び知ることが肝要だと考える。さらには、異文化を持つ異質な他者の異質性そのものを受け止めつつも、事物の見方の差異を相互に認め合い、共通点や差異を探る努力をとおして、はじめて異文化理解が可能になると考える。


いいなと思ったら応援しよう!