2021年度 岐阜大学 地域科学部 小論文 模範解答
I
問1 150字程度
「家」とは、自分がすみずみまで知っており、日常の生活と密接に結びついた親密な空間である。「家」にまつわるこうした特徴に基づいて、地域への所属感や周囲の家庭との一体感も生まれる。これに対して、日本という「国家」については、私は生まれ育った場所以外のほとんどを知らないため、「家」とは呼べない。したがって、国家は筆者にとって「帰る場所」にならない。(172字)
問2 400字程度
筆者がオリンピックを苦手なのは、オリンピックでは人々が「その国家を構成する国民」という枠にはめ込まれ、国家に支配、統治されているという現実に直面させられると同時に、競技における争いが国民感情の衝突を生み出し、相手国へのバッシングやヘイトスピーチがあふれるからである。
私も、こうした筆者の立場に賛成する。オリンピックでは、国家(ないしそれに準ずる地域)ごとの代表選手が競い合うことで、私たちは物事を見る際、「どの国か」という単一の視点しか使わなくなる。たとえば、「日本(あるいは別の国)が勝った」というように、国家が主語となることで、そこに属する国民全体に一定の評価を押しつけることになり、実際の国家内部に存在するさまざまな差異を塗りつぶすことになる。これは、現実の対立から目を背け、人々があたかもひとつの国家の国民として団結できているかのような錯覚を生み出すことにつながり、現実の問題の解決を妨げることになりかねない。(409字)
II
問1 50字程度
労働の満足とレジャーの満足は表裏一体であり、労働がまったくなければレジャーの特別さもなくなり、満足を得られなくなるから。(60字)
問2 100字程度
レジャーのなかに、一時的なものであるという性格が入り込んだ結果、同じく一時的なものである仕事との区別が曖昧になり、レジャーが枠にはめられ、「仕事らしさ」という性格を持つようになったから。(93字)
問3 400字程度
働きすぎが生じるのは、退屈を逃れようとして休日を仕事化したからである。私たちは、無為の時間(本来の休日)がもたらす退屈に大きな苦痛を感じる。そこから逃れるために、私たちは、何もしなくてよいはずの休日にさまざまな予定を入れ、規律で拘束する。その結果、たしかに休日は退屈なものではなくなるが、同時に一種の仕事になり、厳しいスケジュールの管理に追われる日に変貌する。こうして、平日よりも休日のほうが、しなければならないことが多いという本末転倒の事態が生じる。そうなると、私たちの生活にはリラックスできる時間というものがなくなる。私たちは、仕事のときも休日も、つねに効率的な時間の使い方を追い求めているのである。このように、私たちは休日を一種の仕事にすることで退屈を排除したが、その結果、本当に休むことができなくなり、働くことが常態化して、過労死につながってしまうのである。(383字)