「マリオガン~THE END OF VIOLENCE~」第1部・5章「馬舜豪(マ・シュンハオ) 」
次の日からミカリとの連絡が取れなくなる。メッセージしても既読がつかず電話をかけても無視される。理由が分からず混乱する。
ブランカの魂の憑依が解けて昨日のことに嫌気が差した?モデルが必要なくなったから僕との関係も終わりってこと?ベッドで正気に戻ってからは親密な感じになれたのに───どういうことだ?何なんだろう?
学校にも来てないことを知って混乱は丸ごと心配に変わる。まさか病気になったのか?二ヶ月近く絵に集中して体を酷使してきた状態で、スーパーナチュラルな体験をして、メンタルにダメージが入ったのかな?
マンションへ行きたい衝動を抑える。また噂になるようなことはできない。ただ待つしかない。会いたいな。元気にしている姿が見たい。一週間が経ち、二週間が過ぎ、夏が始まり、一学期が終わる。終業式の日の朝にマリオのスマホにメッセージが届く。
二枚の絵が完成したので、
終業式の後で見にきてほしい。
迎えの車をやるから校門の外で待っていて。
先輩だ。うわぁ。元気そうだ!心の底から安堵する。嫌われた訳ではなかったみたいだ。連絡を絶って休んでいたのは絵に没頭していたからかもしれない。嬉しさに舞い上がりながら登校する。終業式後のホームルームが終わると同時に教室を飛び出し、胸を高鳴らせて校舎を出る。
校門の外にリムジンはいない。代わりにランボルギーニが停まってる。運転席側のガルウィングが開いて若い男が下りてくる。さらりとした長髪。浅黒い肌。スーツの上からでも野性的な体つきをしているのが分かる。黒曜石みたいな黒い瞳がギラギラと光を放ってる。マリオの体がブルッと震える。浮かれた気持ちが瞬時に消し飛ぶ。
「草薙マリオ?」話しかけてくる。明るくて深みのある声だ。発音で大陸系の人間だと分かる。警戒して訊く。「誰ですか?」「馬舜豪」と男が名乗る。「乗れ。ミカリが待っている」ミカリ、と呼び捨てにしたことと命令口調にかなりのヤバさを感じる。
誰なんだろう、この男。ついて行って大丈夫なのか?視野の端にいるルカの反応を伺う。大丈夫、と頷いて言われる。行っていい───いや、行かなければならない。
首都高速に乗ったランボルギーニはミカリのマンションがある湾岸地区を素通りし、海寄りのインターで一般道に降りて、埋立地の広々とした道路を走る。「どこへ行くんです?」「俺の店」店。何の店だろう?「先輩はそこに?」「ああ。いるよ」
運転しながら悠々と答える馬を、助手席から横目でマリオは伺う。華やかさと凶暴さを一緒くたに発散させている。唐突に暴力を振るってきそうな気配がずっと途切れない。何一つ状況が分かってないのに対決の予感がひしひしと高まる。
なのに不安も恐怖も感じない。驚くほど腹が座ってる。視野の右上で力強く輝いている金色の星と、血になって全身を巡っている紅い拳銃のおかげだ、とマリオは思う。
埋立地の行き止まりまでランボルギーニは走っていく。金網で囲まれた駐車場のゲートをくぐって真ん中にで停まる。敷地の奥に長方形の黒くて大きな建物がある。馬が車から降りて建物へ向かう。マリオも降りてついていく。近づいてくるエントランスの壁に、
飛 頭 蛮 FLYING WILD HEAD
というロゴが深々と彫り込まれている。
雰囲気からしてクラブのようだ。馬に続いてエントランスの中へと入る。受付フロアにも通路にも店員の姿は見当たらない。人の気配がまったくない。今日は休みなのかな、と思いながら、ブラックライトで照明された真っ黒な通路を歩いていき、真っ赤な内装のエレベターに馬と乗り込んで地下へと降りる。
エレベーターを出ると、巨大で無人のダンスフロアがフラットな照明に照らされてる。天井はブチ抜きで恐ろしく高い。その真ん中から、翼を生やした天使の頭の巨大なスカルプチュアが吊るされていて、フロア全体を見下ろしている。
なるほどね、飛頭蛮だ、と思ってマリオは目線を下ろす。そしてバーカウンターの横のソファに座っているミカリを見つける。
マリンブルーのワンピースを着ている。黒い髪や白い肌とのコントラストが鮮やかだ。こっちをじっと見つめている。先輩、呼びかけようとして息を呑む。佇まいが緊迫している。何かが起こってしまっていることがそれではっきりマリオに伝わる。
馬がステージの上に登ってDJブースのコンソールを操作する。フロア右側の大クリーンに金色の馬に跨がって駆ける紅い男の絵が映し出される。左側のスクリーンには黒い馬に乗った白骨の絵が映る。二枚とも完全に仕上がっている。息を呑んでマリオは見つめる。
「ミカリの描く絵はこれまでに何度か見たことがあるけれど」とブースのマイクとスピーカーを使って朗らかな声で馬が言う。「欲しいと思ったのは初めてだった。売ってくれと頼んだら断られた。幾ら出されても駄目だって。スキャン画像を取ることしか許してもらえなかったんだ」「・・・・」
フロアの真ん中に立ったままマリオはじりっと馬を睨む。「紅い男のモデル、お前だってな」馬がブースの外へ出ながら言う。中から持ち出した棒状のソフトケースを下げている。ステージの端に来て立ち止まる。小首を傾げてマリオに言う。
「ミカリとやったろ」「は?」「絵を見れば分かる。やったよな?」反射的にミカリを見る。上を向いて目を閉じている。左の頬が腫れている。頭の芯が白熱して腹の底がカッと熱くなる。「殴った、のか?」怒りで喉が詰まる。馬が頷く。「俺の女だからな」マリオは大きく息を吸い込む。吐き出す息が激しく震える。
視野の左端で馬に向けてルカがまっすぐ右手を伸ばす。ぐり、とダイヤルを操作するように何かを掴んで手首を回す。それでマリオの頭の中に馬の記憶が流れ込んでくる。
湾岸地区のミカリのマンションを訪ねる。柔らかく話して部屋に入る。ミカリを押し倒して強引に抱く。抵抗されて殴りつける。それが四日前の出来事だ。それ以前の記憶も流れ込んでくる。何度も何度も何度も何度も二人は体を重ねてる。
マリオはすべてを受け止める。目を逸らさずに正面から。火で炙られるように胸が痛む。ミカリを見る。ミカリも見ている。漆黒の瞳に陰りはない。馬に殴られ抱かれたことで心にダメージを負ってはいない。ただ何かを見極めようとしている。金と青の二つの星に僕と先輩は試されている───嫉妬と痛みでかき乱された心の奥でそう感じる。
「十二才の時から、ずっと続けていることがある」愉快そうに言いながらソフトケースのジッパーを馬が下ろす。中からロングバレルのショットガンを抜き出す。ルカがすっと目を細める。マリオの視野の中央がズームして馬の手元がアップになる。ショットガンの構造が半透明に透けて見える。
スラッグ弾が装填されてる、と静かな声でルカが教える。あれをくらうと頭が吹き飛ぶ。
「俺の金と女を盗んだ奴は、必ずこの手で殺してるんだ」馬がショットガンをポンプして銃弾を薬室に装填する。本当にマリオを殺す気でいる。顔に朗らかな笑みが浮いてる。歓喜で瞳がギラリと光る。心底マリオは驚いてしまう。一体どういう奴なんだ?
伸ばした右手で何かを掴んで、ぐい、とルガが手前に引く。それで幼少期から今に至るまでの馬の記憶が塊になって頭の中に入ってくる。長い映画を数秒に圧縮して観るようにマリオは馬を知る。
大陸で十人殺していた。日本に来てから四人殺した。父親が政界の権力者だった。十二歳で母親が死んでから父親の代理人に育てられた。すぐにドロップアウトして裏社会の若者たちの仲間に入った。騙されて大金を奪われた。騙した連中を一人ひとり追いつめて全員を殺害した。
父親が事件をもみ消した。親の威光を利用することを覚えた。十四歳にして商売を始めた。鋭いビジネスセンスがあった。表と裏の両方の社会を行き来しながらパートナーを増やした。鬼子として一族から遠ざけられつつ父親から資金を引き出した。
二十二歳で列島へ渡った。首都圏のイベント業界で人脈を広げて店を持った。野心と恋愛の邪魔になる人間は東京湾の沖に沈めた。人を惹きつける強烈な磁力と、殺人に対する躊躇のなさは、同じ一つの資質から出ていた。共感能力の完璧な欠如───馬は罪悪感を全く抱くことのできない、重度の反社会性パーソナリティ障害者(ソシオパス)だった。
どんな苦痛も、悲惨も、憎悪も、悪意も、憤怒も、怠惰も、腐敗も、喪失も、飢餓も、恐怖も、不安も、支配も、収奪も、暴虐も、すべて娯楽だ。鮮やかな遊びとして許されている。そうでなければ俺はとっくに十二才で淘汰されてる。
だから、今生きてここにいる俺のすべては自然の摂理に叶ってる。底なしの自由、底なしの俺。誰もがそうだ。知らないんだ。知らないことも自由だ。許されている。騙され、利用され、食らい尽くされ、殺されることだって、鮮やかな遊びだ。
それが馬のマインドだった。境遇こそルカとよく似ていたが、愛と暴力が背中合わせの複雑さを馬は持っていない。鰐のようにシンプルで純粋だ。撃ち合うしかない、とルカが言う。「でも」とマリオは確かめる。「紅い拳銃の炎では魂しか焼くことができないんだ。この場で馬を倒せないよ」
ルカが首を横に振る。拳銃は変質している、お前が撃つなら分からない。言われてマリオは思い出す。最後に見た紅い拳銃はフォルムがかなり変わっていた。百数十年前のリボルバーには見えない形になっていた。
「・・撃ってみないと何が起こるか分からないんだろ?」ルカが頷く。笑っている。アウトローらしくこの状況を楽しんでる。実はマリオもそれは同じだ。撃ち合いになる状況に昂っている。シャツを脱いで上半身裸になる。
「は?」と馬が可笑しそうに言って、ショットガンをマリオに向ける。マリオが左手を胸に当てる。一瞬で全身が紅く染まる。ギョッとして馬が目を瞠る。ミカリがソファから立ち上がる。マリオの右手から血が溢れ出し凝固して紅い拳銃になる。
両手でグリップを握って構える。馬の額に狙いをつける。弾けるように馬が笑う。「どうなってんだ!何だその拳銃??」答えずマリオは撃鉄を起こす。馬がショットガンの引き金を引く。轟音がフロアに響き渡る。
一発弾が回転して迫ってくるのをスローモーションでマリオは観る。ルカが首を右に傾げる。マリオの首も右に傾く。左耳のすぐ横をスラッグ弾が通過する。マリオが拳銃の引き金を引く。振動も発光もほんの一瞬で、金色の光が銃口から走って馬の額を直撃する。
馬の体が燃え上がる。半透明の金色の炎が吹き上がって天井に届く。驚愕してショットガンを取り落とす。マリオの拳銃は不発だったのに額を撃ち抜かれたようなダメージを感じる。何かが体から吹き出して蒸発していく感覚がある。目には見えない恐ろしいことが我が身に起こっているのが分かる。
馬の魂が金色の炎に焼かれていくのをマリオは見る。体を覆っている魂の膜が、爪先や指先から頭へ向かって蒸発するように剥がれていく。頭の先まで魂が完全に焼き尽くされてしまう。馬が吠えるような叫び声を上げる。抜け殻になった肉体が炎の中で立っている。
燃え方が少しずつ穏やかになり、金から青へと炎の色を変える。頭から手や足へ向かって魂の膜が〝再生〟を始める。透明なコーティングが滑らかに全身をくまなく覆っていく。指先と爪先に同時に届いて炎が消える。馬が倒れる。気絶している。
息を吐いてマリオが拳銃を降ろす。呆然としながらルカに訊く。「今、あいつ・・・書き換えられたよね?」ああ、と目を見開いて驚きと共にルカが答える。魂が一度焼き尽くされて、再構築された───俺のときと同じだ。
足音が近づいてくる。振り返るとミカリが立っている。「何をしたの。殺したの?」馬を見ながらミカリが訊く。黒い瞳が底光りしている。その横顔にマリオは見惚れる。
あんなに乱暴に扱われたのに、本当に心にも魂にもまったく傷がついていない、ダイヤモンドみたいだ、と思って震える。嫉妬の炎が滲むように消える。「大丈夫、生きてる」と笑って答える。「でも、別の人間になってるかもしれない」
飛頭蛮の外へ出るともう夕暮れになっている。リムジンを呼ばずにしばらく歩く。対岸の街並みのシルエットが輝きながら揺れている。馬はステージの上に放置してきた。体はどこも壊れていない、しばらくしたら目が覚める、とルカが言ったのでそれを信じた。
馬との過去の関係についてミカリは何も話さない。マリオの方からも訊かない。訊きたいことは別にある。「わたし、確かめたかったの」と隣りを歩きながらミカリが言う。「馬と向き合ったマリオがどう見えるか。自分が何を感じるか」
そうだよ、それが訊きたかった。鼓動を高鳴らせながら問う。「どう見えたの?」艷やかな瞳がマリオを見つめる。二人は自然に立ち止まる。ミカリの右手がマリオの左耳にそっと触れる。銃弾の衝撃波で耳たぶがほんの少し裂けている。固まった血が赤いピアスのようだ。
マリオの肩に手をかけてミカリがつま先立ちをする。胸の膨らみが左腕に当る。唇が耳たぶを優しく含む。温かい舌が傷を舐める。「あ」と思わず声が出る。ぞくぞくと背中に震えが走る。離れてミカリがマリオを見つめる。頬が桃色に染まっている。「絵を見てほしい。部屋に来て」
ミカリが呼んだリムジンに乗って湾岸地区のマンションへ行く。リビングの真ん中に三枚の絵がイーゼルに載せて置かれている。マリオが見たことのない一枚は鮮やかに描かれた抽象画だ。「これを描くのに夢中になってて、気がついたら十日たってたの」と絵の横に立ってミカリが言う。
「期末テストが全部追試になっちゃったけど構わない、あの時にしか描けない絵だったから」ああ、本当に絵に夢中になってたんだ、そうじゃないかと思ってたんだ、と頭の隅で考えながらそれをマリオはミカリに言えない。目の前の抽象画に暴力的に心を奪われている。
明らかにその三枚目の絵は、金色の星と、青い星をモチーフにして描かれている。「自分とあなたの姿を描いた・・・出来上がった絵を見てそう思ったの。飛頭蛮のフロアに入ってきたとき、あなたは馬より大きく見えた。目が合った時、はっきり分かった」
ミカリがマリオの手を握る。「祖父以外でわたしが初めて出会った〝星の男〟なんだって」
心の底から待ち望んでいたその言葉をマリオは聞けていない。青く輝くミカリの星と、その横で膨れ上がって破裂してしまい、真っ白に縮んだ自分の星───三枚目の絵に描かれた二つの星の、数十億年未来の状況と思われる異様なヴィジョンに唐突に襲われ、その圧倒的なインパクトによって、記憶の蓋を完全にこじ開けられてしまってる。
鼓動が高鳴り、体温が下がって、呼吸が浅く短くなる。冷たい汗が全身から吹き出し、耳鳴りがして頭が痺れる。かつて三才の自分がやった全てのことを鮮やかに思い出しながら、激しく体を痙攣させてリビングの床に昏倒する。
びっくりして自分の名前を叫ぶミカリの声を聞きながら、ああ、そうだ、僕は最初から〝化け物〟だったんだ、とマリオは思う。
<続く>