「マリオガン~THE END OF VIOLENCE~」第1部・6章「日南(ひな) 」
草薙日南がその男に会ったのは、南海岸の都市で画家になって二年目のことだった。ふらりと個展会場に入ってきた。とても大きな男だった。鷲のような顔つきをしていて瞳が水晶のようだった。ひと目で心を奪われた。会場を出た男を追いかけモデルになってほしいと頼んだ。
男の名前はアタリといった。オートバイで北の大陸を旅をしていた。自分のことを話そうとしなかった。一か所に長く居られないと言った。犯罪者かもしれない、と思った。構わなかった。関係なかった。報酬を支払いモデルとして一ヶ月拘束した。
三枚目の作品を描いている時にアトリエで体の関係を持った。日南の方から誘いをかけた。描いては交わり、交わっては描いた。あっという間に一ヶ月が過ぎた。六枚描いたが描き足りなかった。
次に向かうのは南西部にあるネイティブの聖地だとアタリが言った。同行して彼を描くことに決めた。画商に旅行のプランを伝えて新作の絵を全部渡した。数人の出資者を確保できた。貰った資金でキャンピングトラックを買って、アトリエに使えるよう改造した。
出発の朝は晴れていた。トラックの運転席で待っていると遠くで大きな爆発音が響いた。空気が震えて鳥が騒いだ。オートバイに乗ってアタリがやってきた。後に続いてトラックを出した。走りながらパトカーや消防車とすれ違った。爆弾テロが発生したというニュースがラジオから流れた時には、二人は都市の外へ出ていた。
五日間走り続けてネイティブの聖地の荒野に着いた。アタリが土地の人間と話して好きな場所で描けるようにしてくれた。日南は彼らに金を渡した。クワーウムル・ハミが一緒なら私らのガイドはいらないな、とトラックの駐車場を提供しくれた老人が言った。
クワーウムル・ハミ、がネイティブたちの間でのアタリの呼び名だった。意味は教えてもらえなかった。アタリに訊いてもはぐらかされた。バイクにタンデムして荒野をロケハンした。十数箇所のポイントを見つけてすぐにスケッチの作業に入った。
アタリを完全なヌードにして紅い台地の上に立たせた。描き始めて少ししてから日南は目を疑った。アタリの姿が風景の中に溶け込むように見えなくなった。動くとふわっと現れた。夢でもなければ幻覚でもなかった。目に映るままをスケッチした。
どういうこと、と問い質しても、アタリは笑って答えなかった。スケッチブックと記憶を持ち帰ってキャンバスの上に夢中で写した。風景とアタリが融合したような作品が凄いスピードで仕上がった。描く手がまったく止まらなかった。
土地全体から日南の中にエネルギーが流れ込んでいるのが分かった。吐き出すスピードが追いつかなかった。はち切れそうに苦しくなるとアタリと交わってアースした。夜が昼の熱を冷やすように日南のオーバーロードをアタリは癒した。
ベッドに並んで横たわり、鷲のような横顔を見つめて日南は訊いた。
「あなたは誰・・何なの?」
「誰でもないし、何でもない」
水晶の瞳でアタリが答えた。大きな体にしがみついて眠った。
妊娠していることが分かって日南の描く手がようやく止まった。ネイティブの聖地に来て三ヶ月が経っていた。二十一枚の作品が完成していた。懐妊したことをアタリに告げた。アタリは黙って頷いた。先のことは何も言わなかった。
日南は父親の役割をアタリに求めていなかった。常識の枠に収まる人間でないことは分かっていた。クワーウムル・ハミという現地語の呼び名が「危険なワタリガラス」という意味であることもすでに知っていた。出発直前に起きたテロのことがずっと頭の片隅にあった。この地で別れてそれきりになることを日南は半ば覚悟していた。
年明けの個展が決定したと画廊からメッセージが入った朝に、アタリは聖地から姿を消した。荒野に雪が降っていた。日南も聖地を後にした。都市に戻って作品を整理しさらに新しい絵を描いた。個展を開いて一週間後にテレビのニュースでアタリを見た。
そこは東海岸にある別の都市の郊外だった。オートバイに乗った爆弾テロ容疑者が警察車両とヘリに追われていた。海へ向かって逃げていた。廃工場の中へ逃げ込んだ。直後に大きな爆発が起きた。撹乱して逃走したのか自爆したのか分からなかった。
その夜、夢でアタリに逢った。ネイティブの聖地の奥にある岩のドームの真ん中で陽の光を受けて立っていた。日南は駆けより抱きついた。「生きてるの?」「生きているよ」「爆弾テロをした?」「ああ、やった」「どうして殺すの?」「殺してない、逆だ。ずっと食い止め続けている」
意味がよく分からなかった。確かにアタリが起こしたテロで死者や怪我人は出ていなかった。無人の施設や交通機関が選んで爆破されていた。アタリが自分の行動の意味を穏やかに話してくれた。
「この世を去れない〝黒い魂〟が、この国にはたくさん彷徨っている。南北の戦争で殺された者から、昨日車に轢かれた者まで、理不尽な死に方をした人々の魂が、生者を同じ目に合わせたい、でなければ納得して立ち去ることができないと哭いている。それらが集まって群れを成すことで、大勢の生者を巻き込む事件が定期的に起こり続けている」
「その連鎖を断ち切って防ぐために俺はずっと旅をしている。〝黒い魂〟を体に宿らせ、二、三百体ほどプールしたところで、誰も殺さず傷つけもしない爆弾テロをひとつ起こす。その〝送り火〟の儀式に満足して、彼らは霧散し消えていく。心と体が耐えられなくなるまで、続けなければならない俺の〝仕事〟だ」
メディスンマン───いや、シャーマンだ、この大陸にかけられた呪いを、この人は解いて旅してるんだ!理解して日南は慄いた。それで聖地の風景に溶け込んで見えたり夢に訪れたりできるのだ。でも、それじゃあ、いつかこの人は。
「テロの他に方法はないの?」ない、とアタリは首を振る。「本物の炎と破壊でなければ〝黒い魂〟は決して満足しない」いくら何でもそれではリスキーすぎる。「誰にも理解されないまま、テロリストとして追いかけ回され、逮捕されるか射殺されちゃう!」
「構わない。俺は犯罪者だから」毅然とした表情でアタリが言う。「捕まるのも死ぬのも怖くはない。怖いのは、手に負えないほどの〝邪悪な魂〟に呑み込まれてしまうことだ。本物のテロリストになってしまって、大勢の人間を殺したり傷つけたりすることだ」
アタリが日南の手に何かを握らせた。ターコイズの原石だった。濁りのない柔らかな空色をしていた。「俺がそうなったことを知ったら、この石を砕いてくれ」ハッとして日南は訊いた。「砕くと死ぬの?」水晶の瞳が日南を見つめた。体の芯が熱く震えた。
「・・・わかった。あたしが、殺してあげる」嬉しそうにアタリが笑った。日南の腹に手を当てた。「この子はとても〝大きく〟なる。すべてを認めてやってくれ」「うん。この子のすべてを認めるよ」
うっとりと日南は目を醒ました。右手に空色のターコイズの原石を握っていた。子宮の上に温かい手の感触が残っていた。
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半年たって子供が生まれた。男の子だった。マリオと名付けた。出産して三ヶ月で猛烈な創作意欲が湧いてきた。育児で手が離せない状況だったが、どうしても描かずにはいられなかった。
ビアンカという名の家政婦を雇った。勘が良くて神秘的な雰囲気のある同年代の女性だった。ひと月働いてもらってから三年の契約を持ちかけた。「この子を育てながら絵を描きたい。そのためにできなくなる家のことを、全部あなたに任せたいの」ビアンカが即座に頷いてその場で契約書にサインした。
あまりに躊躇がなかったので日南は彼女に理由を訊いた。しばらく日南を見つめてから静かな声でビアンカが答えた。「鷲のような顔つきをした体の大きな男の人が、あなたの傍にいるんです。二人を助けてやってほしいとその人から頼まれました」あ、あ、と呻いて日南は泣いた。マリオを挟んで二人はハグした。
マリオの首が座るのを待って本格的に制作を始めた。アトリエを改装して業務用の強力なエアコンを設置した。シンナー臭を換気しながらマリオを背負ってどんどん描いた。料理や掃除や洗濯をビアンカがてきぱきこなしてくれた。日南が仮眠をとっている間はマリオを抱いてあやしてくれた。
マリオがハイハイをするようになったので、アトリエの三分の一を改装して遊び場にし、プレイマットとおもちゃを置いた。ネイティブの聖地から紅い岩を取り寄せ、遊び場の真ん中に置いてみた。よじ登って抱きつきマリオは眠った。岩につかまって遊んでいるうちに立ち上がって一人で歩くようになった。ビアンカをへばらせるほど歩き回って遊びまくった。
二歳で授乳を終えるまでに六十枚の絵を描き上げた。画廊で個展を三回開いた。美術館で展覧会が催された。絵と一緒に日南自身もメディアで取り上げられるようになった。ドキュメンタリー番組制作のオファーがテレビ局から来たけど断った。アタリのことをあれこれと探られたくなかった。
マリオが三歳を迎えた夏に、北部の山脈の麓にある山荘を借りて暮らすことにした。山と星空をモチーフにした連作を描くためだった。ビアンカにも一緒に来てもらった。口径の大きな反射望遠鏡を山荘のベランダに設置した。山の夜空に昇る銀河が光の柱のようだった。
日南は星に夢中になった。望遠鏡ごしに恒星を見つめていると自分も内側から光り出すように感じた。ネイティブの聖地で夜空を見ながらアタリがしてくれた話を思い出した。
「人間は星だ、ひとりひとりが星───太陽と同じことができるんだ。自分で輝き、自分を温め、他の人間や生き物たちにも熱を与えることができる。でもほとんどの人間がそうは生きない。惑星や衛星になりたがる。自分で光らず、照らされたいと願う。だから半身を影になり、世界の半分が闇になる。みんなが星のように生きることを望めば〝黒い魂〟の連鎖も無くなる」
本当にそうかも、と揺れるオリオンの三ツ星を見つめながら日南は思った。ベテルギウス、ベラトリクス、シリウス、プロキオン───星空全体の絵とは別に、恒星の絵を何枚も描いた。
秋の初めにマリオと二人で近くの湖でキャンプをした。星空が湖面に映っていた。焚火の炎が暖かかった。マリオはずっと空を見ていた。星の名前を教えてやった。アタリのした話も聞かせてやった。
「人間は星なの。ひとりひとりが星。でもそうやって生きてる人はほとんどいない」「何で?」本当にそうだよね。何故だろう。答えは星空から降ってきた。日南はそれをマリオに伝えた。「燃えちゃいけない、光っちゃいけないって、周りの人に言われるからだよ」
「どうしてだめなの?」「星の人が燃え出すと大きく膨らんで、光らない人たちを呑み込んじゃうから。だから燃え出す前に止めるんだ。みんながみんな燃えて生きているなら、ぜんぜん平気なんだけどね」驚きに目を輝かせながらマリオが訊いた。「食べちゃうってこと?」「まあ、そうだね」「太陽にみたいに生きるのって悪いの?」「悪いとか良いとかないんだよ。怖いか、怖くないかだけ」
思い詰めた口調でマリオが言った。「僕、怖くないよ」「うん。怖くない」「僕、でっかいよ」「でっかいね」「ママは星?」「うん。星だよ」「ママも怖くない?」「怖くない」マリオが嬉しそうにっこり笑った。「なら僕も星になる。自分で自分を燃やして光る!」「ああ、なりな。ていうか、なるさ」
アタリとわたしの子供だものね、自分で光らないわけがない。ふいにマリオの表情が曇った。「でも、そしたら他のみんなのこと、呑み込んで燃やして食べちゃうかな・・・僕のこと、みんな怖いって思う?」「思うかもね」うう、とマリオが小さく唸った。
「でも星になりたい、どうすればいい?」ばちっ、と焚き火の炎が爆ぜた。日南は答えを持っていた。マリオの耳元に唇を寄せた。「離れちゃえばいいんだよ。誰もいないところまで、遠く、高く───そしたら思い切り自分を燃やせて、みんなを食べちゃうこともなくなる」
マリオにぱっと笑顔が戻った。「わかった。僕そうするよ!」
夜明け前に目を覚ますとテントにマリオの姿が無かった。外へ出て名前を呼んだ。あたりを探したがいなかった。GPS発信機の位置をスマホを使って確かめた。森の奥へ入っていた。
離れればいいんだよ、誰もいないところまで。自分の言葉を思い出した。まさか、そんな。血の気が引いた。警察とパークレンジャーに電話して緊急の捜索を依頼した。二時間後に捜索隊が到着して森の中へ入った。日南も一緒について行った。
GPSが示す位置にマリオはいた。杉の巨木の根に抱え込まれた岩のそばに倒れていた。傷だらけでどろどろに汚れていた。獣の体毛にまみれていた。息をしていなかった。心臓が止まってしまっていた。レンジャーが蘇生を試みるのを見ながら、日南はその場に崩折れた。
<続く>