見出し画像

「マリオガン~THE END OF VIOLENCE~」第1部・12章「恋 」

 マリオの体の放熱が収まって近づけるようになるまで五日かかる。ランボルギーニのボディと体の裏側の皮膚組織が混ざり合い癒着してしまっているため、レスキュー隊によって電動カッターでフレームごと切り出され、首都医大病院に用意された特別病室に運び込まれる。

 スチールのテーブルの上に置かれて、眠っているように見えるマリオは、凄まじい変質と変貌を遂げながらも生きている。全身が微かに光っていて、筋肉や内臓が透けて見え、顔の奥ではルカの顔が実体化しかけたままになっている。どんな医者も科学者もこの状態を説明することができない。

 馬瞬豪マ・シュンハオから聴取した事件のあらましを国刀が上層部に報告する。あまりに荒唐無稽な内容であるため、調書の作成が保留されてしまい、現場検証のやり直しが指示される。

 ウリエルは重要参考人として警視庁舎の拘置所に勾留される。『再構築』されたことで実年齢の四十代後半よりもずっと若返ってしまっている。白髪が金髪に戻り、肌から染みや皺が消え、老人のようにはもう見えない。拘束されてから一言も喋らず、事情聴取も黙秘で通す。

 再検証を始めた次の日に、唐突に捜査の中止命令が国刀に下される。ウリエルの所属する宗教団体が、北の大陸の政権を通して政府に圧力をかけたのだ。上層部の官僚に捜査の続行を掛け合おうとするが却下される。

 事件のすべてが速やかに隠蔽されていくのを止められない。メディアに報道管制が敷かれ、現場を撮ったすべての動画がネット上から一掃されてしまう。そして早急にマリオの意識を回復させるよう、公安の部長から厳命される。それで国刀はピンとくる。

「北の大陸の政府と軍部がマリオに興味を持っているようだ」と馬に電話して伝えておく。「そりゃそうだろうな」馬は驚かない。「動画を分析して、軍事的に利用できる可能性があると踏んだんだろう。人間の魂を『再構築』できるってこと、絶対に報告するんじゃねえぞ」

「もちろんだ。そっちも『再構築』を依頼した客たちに口止めしておいてくれ───金や権力目的でマリオの力を使わせることは、何としても阻止しなければ」「わかってるよ」と馬が答える。

 マリオの意識を回復させる目的でビアンカやミカリとの面会が試される。ビアンカに会わせても脳波がフラットだったが、ミカリに会わせると変化が出る。「顔を見せ、声をかけ続けることで、目を覚ますかもしれません」と医師が言う。ミカリのみ自由な面会が国刀の判断で許可される。

「どうかおねがいします」と病院の外でビアンカがミカリに頭を下げる。「マリオをこちらの世界へ呼び戻して下さい」ミカリが頷いて答える。「できる限りのことをします」

 それから毎日病室へ通う。スケッチブックを持ち込んでマリオの姿をデッサンし、強化ガラス越しに話しかける。そのたびに脳波とバイタルに強い反応が表れる。イーゼルとキャンバスが持ち込まれて面会スペースがアトリエと化す。夏休みが終わっても登校せずに、ミカリはマリオを描き続け、一ヶ月で三枚の油絵を仕上げる。脳波は反応し続けているが意識が戻ることはない。

 学校からミカリの実家へ連絡が行き、嘘をついて長期間休んでいたことがバレてしまう。国刀が間に入って両親に事情を説明する。マリオは交通事故に遭った友人ということにして、彼の意識を取り戻すために引き続きの協力を依頼する。面会は放課後だけにすると約束させることで両親が折れる。

 十月からミカリは通学を再開し、十一月までに五枚の絵を仕上げる。夏前にマリオをモデルにして制作し、組絵として都の絵画展に出品していた〝荒野三部作〟が大賞を受賞したという知らせが届く。その表彰式にミカリは出席しない。一分一秒の時間を惜しんで強化ガラス越しにマリオを描き続ける。

 十二月半ばの雪の日に、眠るマリオの半ば透き通った顔の奥で、実体化しかけていたルカの顔に変化が現れる。青い目が開いてミカリを見つめる。口を開いて何かを言う。音にならない言葉が伝わり、ミカリが体を震わせる。「・・どうすればいい?」強化ガラスに駆け寄って訊く。ふたたびルカの口が動く。すぐ国刀に電話する。

「絵を描き続けてもマリオは起きない、ウリエルに会って話してこい───そうルカに言われたの!」国刀が上層部の許可を取って面会をセッティングしてくれる。拘置所を出たウリエルは首都郊外の山中にある教団の支部施設に住んでいる。日曜を待って国刀の運転する車でミカリは会いに行く。

 施設は雪で覆われている。

 壁一面が窓になった家具の少ない簡素な部屋でウリエルが二人を待っている。さらに容姿が若返っていて三十歳くらいにしか見えない。「警察の方は外して下さい」と教団の人間が国刀に言う。ウリエルがそれを手で制し、透明感のある声で言う。「構いません、彼も私と同じ『再構築』された人だから」ウリエルの正面のソファにミカリが座る。国刀は座らずに後ろに立つ。窓の外の庭に積もった雪の明るさが三人を照らす。

「マリオ・クサナギには感謝しています、私を縛っていた教団のドグマを焼き尽くして取り除いてくれて。いつなる存在から分割を繰り返し、神の肉体を被造物の世界へとダウンフォールすることで、生きとし生けるものの存在性が安定することは真実ですが、それを理由に、内面的にいつな状態に戻ろうとする人々を、〝悪魔〟と称して殺して回るのは大変に大きな間違いでした」真摯な口調でウリエルが言う。国刀が睨むように目を細める。

「マリオが今、どんな状態にあって、どうしたら意識が戻るのか、教えてほしいと思って来ました・・・知っていますか?」まっすぐにミカリが訊ねる。「いいえ」とウリエルが首を振る。「しかし〝彼〟なら分かるかも」

 ウリエルの顔の左側が陽炎のように揺らめいて、青白い炎がふわりと吹き出す。旗のようにたなびく炎の中にガルシアの顔が浮かび上がる。う、と国刀が声を漏らしてミカリが大きく目を見開く。「大丈夫。〝彼〟も『再構築』されています」ウリエルの言葉をガルシアの顔が頷いて肯定し、右目の義眼を光らせる。

「───マリオ・クサナギの魂は、紅い拳銃がオーバーロードして爆発した衝撃で、次元上昇を起こしてしまい、アーキタイプになりかけている。それに引きずられて、物質肉体がなかば魂化しているのだ。ルカ・ロッホ・サングレの魂が、マリオ・クサナギの体内で、実体化しかけて見えるのはそのせいだ」

 ウリエルの体と声を使ってガルシアがミカリの問いに答える。「アーキタイプって・・・何?」震える声でミカリが問う。ガルシア=ウリエルが答える。「神話原型。個人的な人格の枠を、はるかに超えた大きな魂」

「聖地の荒野を覆ったときと、同じ状態になっているの?」「あれは私やルカ・ロッホ・サングレと同じ、集合無意識のステージだ。今のマリオ・クサナギはさらに一段上にいる。このままアーキタイプになってしまえば、人格が完全に剥がれ落ちて、物理的な世界を忘れてしまう。魂化した肉体だけを残して、個人としての意識は消滅する」

「それは」とミカリが身を乗り出す。「星になってしまう、ということ?」ガルシア=ウリエルが首を横に振る。「恒星存在は霊でありロゴスだ。人間の魂は個人性を持ったまま、そこへは昇れない。そのひとつ手前の存在となる。わかりやすく言うなら精霊だ。シャーマンであるマリオ・クサナギが、一段上がって、シャーマンに降ろされ憑依する存在になる、と言うことだ」

ミカリが床を見つめて黙る。ガルシア=ウリエルも沈黙する。ごくり、と国刀が唾を飲み込む。窓の外では雪が降り始めている。
「連れ戻すにはどうしたらいい?」とミカリが訊く。
「呼びに行くしかない」とガルシア=ウリエルが答える。

「『再構築』された青いライフルに撃たれて、炎に焼かれている間だけ、マリオ・クサナギが今いる世界に、人間はコンタクトすることができる。物理現実世界の時間にして一、二分だ。その間に彼を見つけて、帰ってくるよう説得しろ」
「説得とはどういう意味だ?具体的に何を話せばいい?」国刀が会話に割り込んで訊く。ギロリ、とガルシアの義眼が国刀を見て、ウリエルが答える。

「こう言えばいい、という言葉はないし、そんなやり方では呼び戻せない。すでにマリオ・クサナギの意識は、人のかたちをしていない。人間として生きてきた記憶も、忘れかけているだろう。だから、今いる世界から去りたいとはまず思わない。塵や砂に還りたい、石や岩の中に入りたい、と願う人間がいないように」

「・・・石や岩の中に入りたいと、思わせる必要がある、ってことか」
 国刀が絶句し、ガルシア=ウリエルが頷く。わかる、そうかも、とミカリは思う。動物にしか見えない人たちと、同じになりたいと思ったことは一度もない。

「そして、呼びに行った人間が、戻ってこれるとは限らない。人格が壊れ、意識が霧散し、廃人になってしまう可能性が高い。場合によっては肉体的な死が訪れることもある」
 
そこまで言ってガルシア=ウリエルが口をつぐむ。息をついて国刀がミカリを見る。ミカリも国刀の顔を見る。漆黒の瞳が窓の外の雪を映して光っている。「わたしが行く。青いライフルで撃ってくれる?」

 三日後にウリエルがマリオの病室を訪れる。上層部の許可を取りつけた国刀が、青いスナイパーライフルを用意して待っている。マリオの隣りにベッドを並べてミカリが横たわっている。ランボルギーニのフレームと融合しているマリオの右手に左手を載せている。

 ボディチェックを受け終えたウリエルに青いライフルが渡される。強化ガラスの内側には医師と技師と科学者たちが詰めている。透けたマリオの顔の奥から、ルカの顔が青い瞳でミカリをじっと見つめている。始めよう、と国刀が言う。

 ウリエルが青いライフルを三脚にセットしてミカリに向ける。ミカリがマリオの右手を握りしめて目を閉じる。「シュート」と国刀が命じて、ウリエルがライフルの引き金を引く。

 病室に空打ち音が響くと同時に、ミカリの脳波計と心電図に強烈な反応が現れる。全身の表面が揮発するような異様な感覚に襲われて、「あ」と声を上げたミカリがベッドの上で反り返る。国刀が息を呑み、医師と技師と科学者たちが顔を見合わせる。マリオとミカリの二人を包んだ青い炎は、彼らには見えていない。ウリエルにだけ見えている。

 さあイメージして、とルカの声がミカリの頭の中で響く。僕とガルシアがガイドする。マリオのところへ行くと、強く思って。
 行く───行く───マリオのところへ、と意識を集中してミカリが念じる。
 青白い炎が視野を覆う───。

 漆黒の闇の中にいる。体の輪郭が滲んで溶ける。自分が自分であることの記憶が急速に薄れていく。慌ててそれを食い止める。目覚めた瞬間に消える夢を捕まえようとしてるみたいだ、とミカリは思う。それでいい、とルカの声が響く。自分の存在を結晶化させるんだ、核にできるイメージを探せ。

 記憶の中にミカリは探す。マリオと初めて体を重ねた時のことが閃いて見える。それを回転させて渦を作る。闇の中に溶けかけた記憶を引きずり戻して巻きつける。自分の輪郭がくっきりしていく。

 安定したね、とルカが言う。じゃあ、マリオを探して。近くにいるはず。目を凝らす。何もない。真っ暗な闇───虚無だけが広がる。〝目〟で見ようとするな、とガルシアが言う。今のマリオ・クサナギは精霊だ、お前の〝存在〟そのもので見ろ。

 目を忘れる。身体を忘れる。探す、という意識そのものになる。闇の一部に仄かな光が生じる。もやの揺らぎが浮き上がって輝き出す。金色の炎の塊がミカリのすぐそばで燃えている。これがマリオなんだ、と分かる。炎の中に顔が浮かぶ。すぐにフレアに溶けて消える。

 人のかたちを忘れかけてる、とルカの声が左側で響く。思い出させてやらないといけない。記憶を流し込んでやれ、とガルシアの声が右側で響く。炎の中に入っていって、マリオ・クサナギを想えばいい。二人の声に導かれながら、炎の塊にミカリは見惚れる。

 綺麗。輝くことだけに集中している。わたしが何もしなければ、きっとこのまま星になる。人間だったことを思い出させて、体に戻していいのだろうか───それをマリオは望むのかな。青いライフルの炎による『再々構築』が終わるぞ、とガルシアが言う。どうするんだ、とルカが訊く。

 別れたくない。星になってほしい。両方伝えて、委ねよう。
 金色の炎の中にミカリは入る。保っていた輪郭が吹き飛ばされる。存在の芯だけになって、マリオの記憶を強く想う。

 いつも自分を追っていた瞳、告白してきたときの声、ポロポロと涙を流した顔、動物に見えなくなった放課後、逞しくなった体つき、半透明の金色のオーラ、溶けて血になる紅い拳銃、ヌードの背中、抑え切れなくなった昂ぶり、溢れ出してくる絵のイメージ、熱い唇、心臓の鼓動、肌と汗の匂いと温もり、ゆっくりと入ってきた熱い塊、青い星と金色の星、初めて呼んだ名前の感触、はにかむ笑顔、馬瞬豪より大きく見えたことのときめき、〝星の男〟だという強い確信、夕暮れの湾岸とオレンジの空、耳たぶの血の玉の甘苦さ、生まれて初めてした告白、あの時から自分が新しくなった、知らない自分が毎日出てきた、蘇った過去の記憶を聞かせてもらって愛しさが募った、メディスンマンであることが知って震えた、可愛いさと、凄さと、感じやすさと、強さと、激しさと、儚さと、深さを、あわせ持ってる、わたしの恋人─────草薙マリオ。

 もっともっとあなたになって。いなくならないで。
 すきにいきて。

 目の前に炎でかたどられたマリオがいる。金色の瞳が揺れている。ミカリも炎の体を持つ。ウリエルのライフルの炎よりも深くて鮮やかな青い炎。シリウスの炎だ、と思う。ああ、そうか、と確信する。

 わたしが肉を捨てればいいんだ。そうすれば、この漆黒の世界で、一緒に並んで輝いていられる。ミカリの中で急速に物理現実世界が遠ざかる。未練や執着が消えていき、青い炎の両腕で金色のマリオを抱きしめる───。

 バシン、と激しい衝撃が走ってミカリの目が見開かれ、反り返った体がベッドに落ちる。除細動器AEDを両手に持った医師と看護師の姿が見える。国刀が逆さに覗き込み、緊迫した声で何かを言う。それで意識の焦点が合わさり、自分に心肺蘇生法が施されていることをミカリは知る。体に力が入らない。息をするのが難しい。

 わたし、ちょっと死んでたんだな。肉の体を捨てたから。

 気道を確保するために看護師がミカリを左に向ける。スティールのテーブルの上で身を起こして座っているマリオが見える。体内からの発光と皮膚の透過現象が治まっている。ルカの顔も見えなくなり、ランボルギーニのフレームから体から剥がれて落ちている。

 回復してる───戻ってきたんだ!声を上手く出すことができない。ひたむきにミカリはマリオを見つめる。

 翌日の午後、心拍が安定したと判断されてミカリに退院の許可が出る。マリオの『再々構築』が終わると同時に呼吸と鼓動が止まってしまい、一分間回復しなかったという話を、迎えにきた国刀から聞かされる。さらに三日後、検体検査と生理機能の検査が終わって、マリオの面会謝絶が解かれる。

 雪が静かに降る中をミカリが見舞いに訪れる。ノックして病室のドアを開ける。マリオは窓辺に立っている。近寄って抱きしめ、キスをする。「体の裏側、大丈夫?」マリオが頷き、病院服を脱いで、つるんとした背中を見せてくれる。「綺麗に治ってる。大丈夫だから」ミカリが安堵の息をつく。

「星になる一歩手前までいった、と思う・・・凄い世界だった」遠い目でうっとりとマリオが語る。「紅い拳銃やルカと融合してから、世界がすっかり変わっちゃったけど、まだずっとその先の世界があったんだ・・・炎と光だけになって、闇の中で輝き続けることの、生きてる感じが物凄かった・・・拳銃が掌から出てきたり、『再構築』の炎を撃ち出した時には、夢みたいだと思ってたけど、今は肉体の中に入って生きてることが、夢みたいだ・・・」

「あのまま星になりたかった?」ミカリが訊く。
「うん」とマリオが即答する。
「そう思ってるのが伝わってきた。だから、マリオが戻ってきたのが、ものすごく不思議───どうしてなの?」「・・・・」「あのまま一緒に星になっても、わたしは構わなかったのに」マリオがまっすぐミカリを見つめる。瞳の底が金色に光っている。

「ミカリにどんどん好きになられている〝こいつ〟になりたい、って思ったら、自分の体に戻ってたんだ」ミカリの全身が震え、胸が切なく、苦しくなる。頬に頬をそっと寄せる。

ダウンホールすることそのものは、悪じゃない───世界の摂理だ、

 というウリエル=ガルシアの声が聞こえる。ルカは気配を消している。花びらのような綿雪が窓の外で降り続けている。


<続く>

いいなと思ったら応援しよう!

木葉功一
長編小説は完結するまで、詩は100本書けるまで、無料公開しています。途中でサポートをもらえると嬉しくて筆が進みます☆