「マリオガン~THE END OF VIOLENCE~」第1部・9章「陰陽魚(いんようぎょ) 」
国刀一郎が『陰陽魚宗近』という打刀を父親から見せられたのは高校一年の時だった。首都大学を卒業して官僚になれ、という命令に抗い、家出して連れ戻された夜だった。
「国刀家の長男の体には、代々、刀傷がある」と屋敷の庭で父親が言った。一郎もそれは知っていた。父親は背中に、祖父は肩に、古くて長い切り傷があった。
「この刀で親に斬られるからだ」
父親が携えていた『陰陽魚』を抜いた。刀身が墨のように真っ黒だった。
「言いなりにならない息子を、この家では斬るのですか?」怒りと、怯えと、初めて目にする異様な刀への慄きで、体を震わせて一郎が訊いた。「国刀家の当主を作るためだ」正面に立って父親が言った。直後に深く踏み込まれた。右の鎖骨から左胸へかけて袈裟懸けに斬り下ろされた。
ぎゅっ、と全身が硬直し、息を詰めて後ずさった。斬られた傷はごく浅かったが、受けた衝撃は強烈だった。殺された、と思いながら一郎は倒れて気絶した。意識を失う瞬間に「何か」に入り込まれた感覚があった。
意識が戻ったのは翌朝だった。頭が冴え渡っていた。怒りも、敵意も、悲しみもなかった。感情的な一切のノイズが消えて、恐ろしく心が凪いでいた。まるで生まれ変わったみたいだ、と天井を見ながら一郎は思った。
表情が全然なくなった、顔も動きも人形っぽい、目がガラス玉みたいだぞ、と友人たちから言われたが気にならなかった。首都大学を出て官僚になることを拒んでいた理由が分からなかった。卒業してそのように一郎は進んだ。法学部を主席で卒業して警察庁公安部に採用された。三十歳で特進して警視正になった。辞令が下った日の夜に父親から『陰陽魚』を譲られた。「結婚して息子を作り、時が来たらこれで斬れ」「はい」と答えて刀を受けた。
周グループの会長令嬢を紹介されて会食するようになった。ミカリという名のその少女は美しくて性格が強かった。『陰陽魚』で斬るための息子を産ませるのにふさわしい女だと思った。それ以上の評価は抱かなかった。
馬という大陸から来た犯罪者と関係を持っていることを知っても、特に何も感じなかった。正式に婚約が決まった後で男を〝処理〟すればいいだけだった。
恋も愛も一郎にはまったく無用のものだった。どんな女と出会っても心は凪いだままだった。入庁以来一郎の頭は別のことで占められていた。緩み切った大衆の意識を鍛え直して底上げすること、そうすることでこの国を遠くない未来の崩壊から救うこと───それは父親や、祖父や、曽祖父から託された国刀家当主の〝使命〟だった。
大きな権力を握るだけではこのミッションは実現できないことに、早くから一郎は気づいていた。でなければ祖父や曽祖父の代で達成されているはずだった。メディアを使った洗脳では、国民の意識を劣化はできても、高めることはできなかった。
警視監の階級で退官して政治家に転身するまでに、具体的な方法と手段を見つけておかねばならなかった。自宅で端座し『陰陽魚』の黒い刀身を見つめながら、これで全ての国民を斬ってやることができたらいいのに、と何度も思った。そしてある日、一郎は紅い拳銃と出会った。
証券取引所を爆破したテロリストを防犯カメラの映像で見たとき、背筋を電流が走り抜けた。男が手にした紅い拳銃に『陰陽魚』とそっくりな〝力〟を感じた。職務権限を使ってテロリストの行方を追いかけた。逃走するバイクを追跡していたパトカーの車載カメラが一瞬だけ捉えた少年の映像が気になった。紅い拳銃の〝力〟が移っているように見えた。手渡されている可能性があった。
超解像処理をほどこして携帯キャリアの顔認証システムのデータと照合した。草薙マリオという十六歳の高校生が特定された。周ミカリの後輩だった。すぐに少年に尾行をつけた。
ミカリのマンションに監視カメラと盗聴器を仕掛けた次の日に、少年が部屋を訪れた。絵のモデルをしている最中に体の中から紅い拳銃が出現したのを見て驚愕した。肉眼では見えない〝何か〟を拳銃が撃ち出しているようだった。我が身に起きた超自然的な出来事を少年がミカリに打ち明けた。一郎もその一部始終を聞いた。『魂の殺戮兵器』としての拳銃のスペックに惹きつけられた。
馬瞬豪にも尾行をつけた。クラブ飛頭蛮の建物内に監視カメラと盗聴器をセットした。ある時、馬がミカリを犯して、少年を飛頭蛮に連れ出した。そこで行われた二人の撃ち合いをカメラの映像で目撃した。
翌日、ミカリのマンションに現れた馬の変貌を目撃して、一郎の想像は確信に変わった。少年を自分に隷属させて、拳銃とメディアを絡めることで、国民の意識を短期間で一気に高めることができる、「この国の立て直し」という念願を実現することが可能になると。
馬からプレゼントされたバイクに乗って少年が走りに出かけた時に、身柄を押さえて脅しをかけた。少年が紅い拳銃を向けてきた。掌から吹き出した血の塊が拳銃になるのを見て感動した。『陰陽魚』の黒い刀身を見せた。胸の傷跡も見せてやった。
「僕と君は同類だ。だから同士になれ。マリオくん」
少年の体から力が抜けた。紅い拳銃が体内に戻った。落とせたな、と国刀は思った。空いた少年の右手に握手を求めた。
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国刀から目線を外してマリオは何かを考えている。目を上げてシートの『陰陽魚』を見る。「もう一度刀身が見たい」と言う。「黒い刃が綺麗だった。しっかりと目に焼きつけたい」「いいだろう」国刀が『陰陽魚』の鞘を払って刀身を見せる。顔を寄せてまじまじと見つめながらマリオが訊く。
「陰陽魚、ってどういう意味なの?」「太極図の別名だ」と国刀が答える。「下降する陰と、上昇する陽が、組み合わさった円形の意匠───陰の中心に陽の種を、陽の中心に陰の種を含んだ、万物流転のシンボルだ」ふうん、とマリオが小さく唸る。「おかしいね・・・だったらどうして刀身の色が、黒一色なんだろう?」
言い終えると同時に右手を突き出す。掌から飛び出した数本の〝血の紐〟が『陰陽魚』の刀身に絡みつく。反射的に国刀が刀を引く。動かない。〝紐〟を断ち切れない。
「あなたには星を感じない」バレルを〝紐〟に変化させてる紅い拳銃を握ってマリオが言う。
「先輩みたいに自分を燃やして輝いてるわけでもなければ、馬みたいに陰と陽がバランスしているわけでもない。父親からインストールされた〝プログラム〟に操られているようにしか見えない」「プログラム?」国刀が目を剥く。マリオは続ける。
「あなたは再構築されてるんじゃない、魂を斬り殺され、一族の妄念の〝乗り物〟にされているだけだ」国刀が一瞬息を呑む。「分かったふうなことを言うな!」頭の芯に白熱する殺気が生じる。心の水面が激しく波立つ。父親に斬られて以来のことだ。「そうだよ、僕には分からない・・・だからこうやって確かめる!」
マリオが拳銃の引き金を絞る。シングルアクションで撃鉄が落ちる。同時に異様な衝撃が『陰陽魚』を通して国刀に伝わる。〝血の紐〟に巻きつかれた刀身が金色の炎に包まれるのをマリオは見る。唸るような音を立てて黒い刃が焼かれていく。「燃える、変わる、やっぱりだ!」目を輝かせてマリオが叫ぶ。
「この刀は『魂の殺戮兵器』だ。あなたの家族は、あなたの家系は、この刀に取り憑かれていたんだよ!」国刀が絶句し、驚愕する。金色の炎は国刀には見えない。見えているのは刀身の変化だ。刃の部分が白銀色に、鎬地部分が黒鉄色に変貌する。名前通りの美しい姿に〝再構築〟されていく。
「それが、その刀の本当の姿なんだ」とマリオが言う。「馬鹿な、そんな、ありえない」震える声で国刀がつぶやく。撃鉄を引き起こしてもう一度、マリオが紅い拳銃を撃つ。金色の炎が『陰陽魚』を伝って国刀の体を燃え上がらせる。
自分自身が蒸発していく恐怖を感じて『陰陽魚』にしがみつく。皮と肉が焼かれて剥がれ落ち、骨だけにされていく感覚を味わう。最後に存在の芯に張りついていた〝何か〟が音を立てて焼き切れる。それは父親に斬られた時に憑依してきたもの───国刀家代々の当主たちを呪い続けてきた〝物語〟だ。
「あっ、ああ、あああああ!」切れ切れに国刀が叫び声を上げる。炎の色が金から青へと変わっていくのをマリオは見る。再構築された魂が流れるように国刀の全身を覆う。虚ろな内面を感情が満たし、溢れ返って涙になる。
十数年間、自分が生きながら死んでいたことを国刀は知る。「国の立て直し」という〝物語〟の乗り物にされた父祖たちと、彼らに振り回されて犠牲になった一族すべての人間たちの、怒りと憎しみと悲しみが国刀の中で蘇り、引き攣るような痛みが胸に走る。ぼろぼろと涙をこぼしながらシャツのボタンを引きちぎるように外し、アンダーシャツをたくし上げる。
刀傷が跡形もなく消えている。
『陰陽魚』の柄を握りしめて、吐き出すように国刀が号泣する。涙が刀身を伝って流れる。瞳がガラス玉ではなくなっている。〝再構築〟が終わったな、と視野の左端でルカが言う。マリオが長いため息をついて紅い拳銃を体内に戻す。
車内に国刀を残したままま、ヘルメットとリュックを持ってハイワゴンを降りる。泣き声を聞きつけて走ってくる私服刑事とすれ違う。バイクに跨がり、エンジンをかけ、パーキングエリアの外へ出る。西の空で夕日が、視野の右上で金色の星が輝いている。
二人目だ、とルカが言う。あの男も『旅団』に加わるぞ。
『旅団』か、とマリオは思う。ミカリと並んで輝きたい───求めているのはそれだけなのに、思いもしない人間や、望んでもいない出来事が、次々に吸い寄せられてくることに戸惑う。当然のことだ、とルカの声が響く。君は恒星で、シャーマンで、メディスンマンなんだから。
メディスンマン。癒す人。本当にそうなのか?
今だって自分が何をしたのか全然よく分かってないし、まだ思い出せていない記憶だってあるんだ。アクセルを開いてミカリのマンションへバイクを飛ばしながらマリオは思う。僕はもっと、僕のことを知らなければ。
<続く>