D.H.ロレンスを読み耽る/宮沢賢治が春画コレクターだったこと。
元日から小説の執筆を再開したが、まだまだ読みたい気持ちが強く(飢えに近い感覚が治まらない)、書きと読みの比率が2:8くらいになっている。今は無理に排泄しないで自然に任せて食べる方がいい、と体が言うので、そのようにする。以下はここ数日のSNSでのつぶやきのまとめ。
○「息子と恋人(D.H.ロレンス)」読了。深い深い小説だった。ロレンスがこれを26~7才の若さで書いていることに驚く。そしてやはり「チャタレイ~」他晩年の小説の方が読後に若さを感じさせる。半分は母親の死と彼女の魂が書かせた作品なのかもしれない。借りて読まずに返却したロレンスの小説が何冊かある。「息子と恋人」には作者が前に出て語る部分がとても少ない。書き手と理屈が前に出てくると物語を若く感じるのかも。
○「幸福論(アラン/白井健三郎訳)」読了。何度も読み返したいと思える本が増えて嬉しい。
○「死んだ男(D.H.ロレンス)」読了。ニーチェのツァラトゥストラと同じモチーフをまったく違う切り口で端的に描いた最晩年の短編。面白かった。
○「チャタレイ夫人/初稿(ロレンス)」と「アンナ・カレーニナ」を昨日レンタルしたけど返却する。前者は本当に内容が違ってて驚いたけどピンと来ず、後者にはゲーテと同じような感触(古風な過剰さ、表面的な装飾性の強さ、意図的にある深度までで掘り進めることを止めている感覚)しか得られなかった。「息子と恋人」を再レンタルする。フォンターネ、ゴールディング、マッカラーズ、ネルヴァル、バレスなどの小説も見てみたけれど、ロレンス「息子と恋人」ほどヒットするものはなかった。<翻訳が良くて古びていない>という条件を満たしているケースが、極端に少ないせいかも。
○伊藤整という翻訳者が手かげたロレンス「チャタレイ夫人の恋人(第三稿/削除あり版)」と「息子と恋人」は、日本語化された外国文学としての完成度が全く別物だ。話題になって市場に出ている前者の方が出来が悪い。後者が古書でしか手に入らないのは本当に残念な状況と思う。また英語版オリジナル作品の完成度も、「息子と恋人」の方が「チャタレイ夫人~」より数段上だ。「初稿チャタレー卿夫人の恋人」の巻頭に、ロレンス夫人の序文と、もう一人女性(編集者だろうか?)の初稿に関するコメントが載っていた。夫人は「初稿の方が好き」と言い、もう一人の女性は「決定稿(第三稿)は著者の長編作品の中でも最低の失敗作」と言い切っていた。最低の失敗作が、少なくとも日本では最も版を重ねており、今も現役の商品として市場にあることは興味深い。で、「初稿チャタレー」は良いかというと、先にも書いたが読めなかった。冒頭のコメントに「『息子と恋人』に仕上がりが近い」と書かれていたが、まったく違った。冒頭の展開が強引で、滑らかな疾走感に欠けており、本当に『初稿』なのだった。ロレンスがこの後、二度も全体を書き直したことに納得がいった。「初稿チャタレー」の最大の収穫はロレンス夫人の序文だった。ロレンスはこの小説をイタリア・トスカーナの林の奥の、そばに小さな泉が湧き出す洞窟の中で書いたそうだ。岩の椅子に座って岩の机に原稿を置き、書く以外は体を動かさないので、トカゲが体を上を走ったり、小鳥がすぐ近くまできてチョンチョン歩き回り、通りかかった猟師がその状態のロレンスを見つけてビックリしたとか。「息子と恋人」の読後に夫人の序文を読んで、ロレンスという人は画家のゴッホに似ている気がした。もしもゴッホに、女性関係がしっかりあって、奥さんもいたら、ロレンスになっていたのでは、という印象だ。ちなみに出生のホロスコープを見てみると、ゴッホは魚座~牡羊座過剰で、やはり乙女座過剰のロレンスとは180度対向の関係にあった。
○どうも自分は、映像・小説・音楽を問わずで、ゴッホ的なもの=魚座→牡羊座に跨がる「拡大→集約/水→火」といった、爆発的に反転することで、今いる世界の壁を破り、別の次元で生まれ変わろうとする性質を持った作品でないと、食指が動かないらしい。
○「翼ある蛇(ロレンス)」「春と修羅(宮沢賢治)」「ギルガメシュ叙事詩」「神曲・地獄変(ダンテ/須賀敦子+藤田道夫訳)」をシャッフル読み。宮沢賢治が春画のコレクターだったことを知って、がぜん詩集を読みたくなり購入。読み口に濃厚な味わいと新鮮な厚みが加わった。
「誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ(宮沢賢治)」
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