「マリオガン~THE END OF VIOLENCE~」第1部・7章「真昼の星(オータ・タヴン) 」
誰もいないところへ行こう、そして思いきり〝星〟になろう───真夜中に目覚めた三歳のマリオは、そう考えてテントを出た。明るい星空に胸が踊った。湖のほとりをしばらく歩いた。
道を見つけて森の中へ入った。体を超えて自分の輪郭がどんどん膨らんでいくのが分かった。ああ、もう星になりはじめてる、急がなくちゃ。もっと奥へ。深まる草や葉をかき分けて進んだ。
急に開けた場所に出た。杉の巨木が立っていた。根の部分に岩を抱いていた。とても大きな岩塊だった。深い裂け目が開いていた。闇がマリオを呼んでいた。あそこへ入ればひとりきりだ、宇宙と同じでまっくらになる。
裂け目に入った。奥へ進んだ。足を滑らせ頭から落ちた。岩の隙間にはまり込んだ。すぐに息が出来なくなった。もがくほどに動けなくなった。岩と闇に意識を吸われた。それでも自分がそこにあった。
死にながらマリオは膨らんだ。岩のすべてが自分になった。杉の巨木が自分になった。森に広がり湖になった。魚や鳥や獣たちを呑んだ。テントで眠っている日南も呑み込んだ。
何かが岩に近づいてきた。熊だった。裂け目に入ってきた。左足の先に痛みを感じた。足首を噛まれて引っ張られた。岩にこすれて皮膚が裂けた。裂け目の外へ引きずり出された。熊が体の傷を舐めた。腹に抱かれて温められた。
ライトの光が遠くで走った。熊が離れて森の奥へ逃げた。マリオの体は冷えていった。死んでいく、と思いながら森を超えて膨らみ続けた。爽やかに晴れた朝の空に星がたくさん光っていた。大気を透かして宇宙が見えた。きれいだな、と思って眺めた。
突然、激痛を伴って肺に空気が入ってきた。心臓の鼓動と呼吸が戻った。レンジャーが蘇生に成功した。日南がそばで泣いていた。
搬送された病院には一日しかいられなかった。マリオの意識が戻ると同時に幻覚と幻聴で病院中が満たされた。医師が手術の最中に鬱蒼と広がる森を見た。看護師が廊下の空中を泳いでいる鱒を見た。患者たちが待合室でのっそりと立ち上がる熊を見た。レントゲン技師が撮影室の中に舞い降りてくる鷲を見た。調理員が岩の隙間に閉じ込められて悲鳴を上げた。
病室の天井に満天の星を散りばめた夜空を見ながら、日南はマリオに付き添っていた。着替えを持ってきたビアンカが入り口で座っている鹿を跨いだ。途方に暮れて顔を見合わせた。「しかたないよ」ベッドの中でマリオが言った。「まざって見えたり聞こえたりするのは。みんな僕の中にいるんだから」
「それ、どういうこと?」日南が訊いた。マリオは答えずさらに続けた。「ねえママ、燃えないし光もださない、どんどんふくらんでくばっかりだ。これって星になれてるのかな?」日南は体を震わせた。アタリの顔が脳裏をよぎった。「血だ」と思わずつぶやいた。
退院手続きと清算を済ませて逃げるように山荘へ戻った。謎の幻覚を見る人が増えている、というニュースがテレビで流れた。事件や事故が多発していた。地域社会にパニックが起きていた。
「みんな、こまってる。僕が悪い?」ビアンカに包帯を取り替えてもらいながらマリオが訊いた。「ううん。ぜんぜん悪くない」処置の終わったマリオの体を日南が抱き上げて顔を寄せた。「ねえ・・・いくら膨らんでも、大丈夫なところへ行こっか?」「そんなとこあるの」「ある!」きっぱり答えて日南が笑った。
移動の準備をしているところへテレビ局のクルーがやってきた。「息子さんの入院と同時に幻覚が始まった、と医者や看護師たちが証言している」「この山荘に近寄ると幻聴や幻覚が酷くなった」「どうしてか取材させてほしい」とインターホン越しに迫られた。断ると山道に居座った。
〝幻覚の中心にいた三才の男の子〟の話題がSNSで流れ始めた。山荘の管理人に作品の厳重な管理を頼み、配送業者に後日画廊へ発送してもらう手続きを済ませてから、三人は山荘を後にした。テレビ局の車が追ってきたけど山道のワインディングで振り切って逃げた。
それから空港までビアンカを送った。家政婦の契約の切れ目が来ていた。騒動が落ち着くまで離れていた方がいいと日南が判断し、ビアンカもそれで納得していた。「また仕事をお願いできる?」「もちろんです」ビアンカが日南とハグを交わし、それからマリオを抱きしめた。「不思議な子。大きい子。大好きだよ───また会いましょう」
それから一週間車を飛ばしてネイティブの聖地の荒野へ着いた。三年前に駐車場を借してくれた老人の元を訪ねた。「今朝、南のメサの上に、北部山脈の原生林のヴィジョンがちらちら見えていたが、アタリの息子の力だったか」そう言って老人がマリオの頭を撫でた。両手でそっと頬を挟み、瞳の奥をのぞき込んだ。
「オータ・ダブン」とつぶやいた。「何?」日南が訊ねた。「真昼の星、と言ったのさ。この子は〝星の男〟になるよ」青みがかった茶色の目を細めて老人が微笑んだ。
人があまり来ない土地を選んで駐車場に貸してくれた。彼の先祖が岩肌をくり抜き住居にしていた場所だった。車をキャンピングカーに買い替え、二人はしばらくそこで暮らした。
聖地全体を覆ったところでマリオの〝意識の拡大〟は止まった。人の少ない荒野では幻覚と幻聴はほぼ無害だった。土地の精霊がひんぱんに見えるようになったとネイティブの人たちが噂する程度で済んだ。
深刻な影響が出たのは日南だけだった。絵を描くことができなくなった。身の回りに溢れる幻覚のせいで、外の世界と内面が入れ替わってしまった感覚に襲われ、創作意欲が消えてしまった。星空と山の絵で個展を開くのにあと数点の絵が欲しい、一ヶ月で描けないか、と南海岸の画廊から催促された。体調を崩していて無理だと嘘の返事した。
気晴らしにマリオを連れてキャンピングカーで荒野を巡った。メサの上から地平線を眺めた。荒野に荒野の幻影が、空に空の幻影が重なった。風の音を風の音の幻聴が打ち消し、耳鳴りの音しか聞こえなくなった。薄桃色の音のない世界に描けないストレスが吸い出されて消えた。
「ママもぼくも砂つぶみたい・・・ちっちゃいね。でもちゃんといる」隣りで息を詰めてマリオが言った。この子も、自分も、一生この地で暮らすことになるかもしれない。それならそれでいいと思えた。
✶
マリオに精霊の儀式を経験させたいと土地の男たちが言ってきた。「どうする?」と本人に訊くと目を輝かせて「行きたい!」と答えた。満月の夜に案内人が迎えに来た。二人をジープに乗せて東へ走った。荒野の奥に立てられている二本の石柱の前で停まった。祭礼場はその地下にあった。
盛り上がった土のドームの前でシャーマンの男が待っていた。二人が近づくと跪いて祈り、足でドームを踏み鳴らした。布の覆いが内側から開けられ、地下への入り口が現れた。先に立って降りながらシャーマンがマリオを手招きした。「いってらっしゃい」と日南が言った。マリオは急な梯子を降りた。覆いが閉じられ真っ暗になった。
祭礼場の真ん中にシャーマンがマリオを座らせた。闇に短く呼びかけた。いくつもの唸り声が答えた。目が少しずつ慣れてきた。獣の扮装をした六人の男がマリオを囲んで座っていた。馬と、熊と、鹿と、蛇と、ワタリガラスと、鷲がいた。それぞれがそれぞれの歌を歌った。歌の途中で精霊たちが男たちに降りてくるのを確かにマリオは見たと思った。
「どれがお前のカチーナ(精霊)だ?」シャーマンが耳元で囁いた。「どれもちがう」即座にマリオが答えた。精霊たちが短く唸った。天井の真ん中が開かれた。小さな穴から月光が差し込みマリオの体を白く照らした。
「あのカチーナか?」シャーマンが天井の窓に切り取られた夜空の満月を指差した。「ちがう」とマリオが首を振った。シャーマンが短く低く歌った。天井の別の場所が開いた。青い星が輝いていた。おおいぬ座のシリウスだった。
マリオの体がぶるっと震えた。心臓がばくばくと脈打った。「あのカチーナか?」とシャーマンが訊いた。「うん!」とマリオが頷いた。同時に幻覚の星空が祭礼場の天井を鮮やかに覆った。オリオン座とおおいぬ座が輝いていた。全員が驚嘆の声を上げた。「でも、あの星じゃない、もうひとつあるの」自分が作り出した幻覚の夜空を指差しながらマリオが言った。
幻覚のシリウスが満月と同じ大きさにクローズアップされた。その周りを回っている白い小さな恒星があった。「あれだよ、あの星───もっともっとおおきくて、すっごく明るかったんだ!」マリオが興奮して大声で言うと、白い星が膨れ上がってギラギラと金色に輝き始めた。
「オータ・ダヴン!」シャーマンが慄きを込めて口走り、精霊の男たちがブルッと体を震わせた。「僕、金色の星だった・・・でも爆発しちゃったの!」目を見開いてマリオが叫んだ。金色の星が急激に膨らみ、真っ赤になって破裂した。超新星の爆発だった。シャーマンと精霊の男たちの自我が吹き飛ばされて飛び散った。
幻覚の爆発の衝撃波は荒野の全域に広がって、周囲に住んでいる数千人の人々を巻き込んだ。眠りながら彼らは光に呑まれて自分が消し飛ぶ夢を見た。一人ひとりが全員であり誰でもない状態になった。彼らはマリオの中に取り込まれ、マリオの一部になっていた。
日南も一瞬だけマリオになった。我に返って「いけない!」と叫び、覆いをはぐって祭礼場へ降りた。シャーマンと六人の精霊たちが輪になって座り込んでいた。真ん中にマリオが立っていた。振り返って言った。
「食べちゃった」
瞳が金色に底光りしていた。日南の背筋を悪寒が走った。「もう中に入ってるだけじゃない、みんなが僕になっちゃったんだ」
ジープのドライバーと案内人も同じように正気を失っていた。日南がどれだけ体を揺すって呼びかけても戻らなかった。「起きて」とマリオが言うとスイッチが入ったように覚醒した。
四人でシャーマンと精霊の男たちを地上へ運び上げた。彼らも正気に戻らなかった。「起きて」とマリオが命令すると目覚めた。マリオが笑った。男たちが笑った。ドライバーも付き添いの男も笑った。日南だけが笑わなかった。笑えなかった。慄然としていた。
翌朝、ネイティブの長老格の老人たちがキャンピングカーを訪れて、儀式で起きた出来事を詳しく聞かせてほしいと言った。眠っていたマリオは不機嫌だった。「今はやだ。帰って」と老人たちに言った。即座に彼らは帰っていった。まるでロボットのようだった。日南の疑念は確信に変わった。
「立て、ってママに言ってみて」と昼食の時にマリオに言った。「何で?」びっくりしてマリオが訊き返した。「いいから。さあ、言ってみて」「・・・・・立て」とマリオがつぶやいた。日南の体が立ち上がった。「うわ」と思わず声が出た。座ろうとしても座れなかった。ギョッとした表情でマリオが見つめた。
さらに日南は言った。「笑え、って言って」「やだ」「言ってマリオ」「・・・・」「お願い」「・・・笑え」マリオが渋々言った。「あはっ!ははは、はははははっ」と日南の体が勝手に笑った。口を押さえた。止まらなかった。顔が引きつり鳥肌が立った。
「やめてよ、こわい!」マリオが叫んだ。即座に日南の笑いが止まった。ぺたんと椅子に座り込んだ。冷たい汗が吹き出した。慄きながら微笑んだ。「ごめんね。ちょっとふざけたの」「こわいよママ。もうしないで」半泣きの顔でマリオが言った。「うん」と日南は頷いた。一人になって考えた。
この土地に暮らす全ての人たちをマリオは自由に動かせる、彼らは彼ら自身でありながら無意識でマリオと一体化している、マリオが口にすることを無自覚に忠実に行うだろう、もしも、死ね、とマリオが言えば彼らは自分を殺すだろう、
マリオを含めて誰一人、この恐ろしい状態に気づいてない、わたしだけが完全に一体化してないのはどうしてだろう?母親だからか───と思いながら、ベッドで眠るマリオを日南は見つめた。
教えればマリオは混乱するし、『力』を試してみたくもなる、大勢の人たちを傷つけ、自分も深いダメージを負うだろう、わたしを含めたすべての人間を、許せないと憎むだろう、自分と世界の両方を、壊してしまおうとするかもしれない、意志するだけでこの子にはそれが出来てしまうのだ、
どうしよう、わたし、どうすればいい?
この子はとても〝大きく〟なる。すべてを認めてやってくれ。
アタリの言葉が切実な問いに答えるように蘇った。日南の肩から力が抜けた。深く息を吸って吐いた。マリオの柔らかい髪をそっと撫でた。うん、そうだ、それだけだった。この子は『神』でも『精霊』でもない、三才の男の子でわたしの息子───まるごと認めて愛するんだ。
画廊のマネージャーに依頼して南海岸のアトリエを解約した。キャンピングカーを売り払って聖地の近くに一軒家を借りた。荷物と道具と作品のストックを運び込んで暮らし始めた。
この地で生きようと決めたことで創作意欲が戻ってきた。星と山の絵の新作を立て続けに八枚描いた。それを加えて開催された個展の反応は上々だった。三分の二の作品に買い手がついた。
マリオのためにシッターを雇い、土地の子供たちと遊ばせ、幼稚園のテレワークプログラムを受講した。母子ふたりで過ごす時間を朝と夜にしっかり作った。息子のすべてだけでなく自分のすべても認めて生きた。
想定し覚悟していたようなトラブルは起きなかった。〝食べちゃった〟人たちの精神にマリオは干渉しなかった。そうしないと自分で決めていた。「ママが僕にしているみたいに、僕の中にいるみんなにしてるの」涙が出た。息子を抱き締めた。
今のままの状態でマリオが成長して大人になれば、街の中のでも生きられるようになるかもしれない───そうなってほしい、と日南は祈った。
ある日、二人が買い出しから戻ってくると、家の横に黒いSRVが停まっていた。玄関の前に男が立っていた。見たことのない人間だった。車を降りずに日南は観察した。男が二人の方を見た。
銀髪の初老の白人で淡いライトブルーの瞳をしていた。背が高くて針金のように痩せていた。黒いデニムのスーツを着込んでガンベルトを腰に巻いていた。まるで西部開拓時代の保安官のような雰囲気だった。男がこっちへ近づいてきた。ダッシュボードから護身用の拳銃を出して身構えた。
「マリオ・クサナギだね」と助手席を覗き込んで男が言った。掠れた高い声だった。「誰?」とマリオが訊いた。「私はウリエル」と男が答えた。「君の〝罪〟を裁きにきたんだ」助手席のウインドウを完全に下げて日南が男に拳銃を向けた。「離れて。ここから出てきなさい」
男が微笑み数歩下がった。日南がマリオの頭を押さえて助手席に深くかがませた。「耳をふさいで。じっとしていて」男がまったく動ぜずに言った。「大勢の人々に幻覚を見せて、自由に操ることができる君は、神と、神が作った世界と、人間そのものを冒涜している。存在することは許されない」
うそ。日南は息を呑んだ。どうしてそのことを知ってるの?
男の右手がホルスターへ動いた。マリオの頭上で炸裂音が響いた。弾けるように男が倒れた。日南が車をバックさせた。男はすぐに立ち上がってホルスターから拳銃を抜いた。紅いリボルバー拳銃だった。マリオを狙って引き金を絞った。
銃口から金色の炎が吹き出し、自分に向かって蛇のように伸びてくるのをマリオは見た。直後に全身が燃え上がった。「うわあああ!」と焼かれながらマリオは叫んだ。日南も叫んだ。男が笑った。聖地の周りに住む数万人のネイティブたちが、マリオと共に絶叫していた。
<続く>