3分でわかる 『歎異抄』 遠藤周作も惚れこむ
(3分で紹介)
悪人でも救ってくれるんです
泳げずに溺れてる人から
まずは救います
もちろん泳げる人も救いますよ
善人なほもつて往生をとぐ
いはんや悪人をや
しかるを世のひとつねにいはく
悪人なお往生す。
いかにいはんや善人をや
口語訳では …
善人でさえ浄土に往生することが
できるのです。
まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、
悪人でさえ往生するのだから、
まして善人はいうまでもない
といいます
『歎異抄』
いまから、730年ほど前に書かれた、この書物は浄土真宗の開祖である親鸞聖人を直接知る唯円という人物の手によって親鸞の語録とその解釈、さらに異端の説への批判を述べるものとしてまとめられました。小さな書物であり、原稿用紙にすれば、30枚程度の分量しかないと言われています。
『歎異抄』の書名は「異議を歎く」というところから来ています。親鸞がが亡くなった後に、師の教えとは異なる解釈(異議)が広まっていることを歎いた弟子の唯円が親鸞の真意を伝えようと筆を執って完成させたのがこの書物。「抄」とは長い文章の一部を書き出すこと、抜き書きを意味します。よって、ここには師と同じ時代をともに生きた弟子にしか書けない、親鸞の生の声が息づいているのです。
自力で往生しようとする人も救う
ここでの「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味しています。彼らは仏にすべてをお任せしようという「他力」の心が希薄で、自分の修行や善根によってどうにかなると思っています。そうした自力の心を持つ人であっても仏は救ってくれます。というのが一文目の「善人なほもつて往生をとぐ」です。
悪人でも救ってくれる
次に「悪人」ですが「煩悩具足のわれら」とも言い換えられます。あらゆる煩悩をそなえている私たちはどんな修行を実践しても迷いの世界から離れられません。阿弥陀仏は、それを憐れに思って本願を起こした悪人を救うための仏です。ですから、その仏に頼る私たち悪人こそこそが、浄土に往生させていただく因を持つと考える。それが「いはんや悪人をや」です。
*煩悩具足(心をわずらわし、身を悩ませる欲望が備わっていること)
泳げずに溺れている人から救う
自分で悟りを開けない人のための仏道であり、仏様なのですから言うなれば、自分で泳げずに溺れてる人からまずは救うということなのでしょう。でも、もちろん泳げる人も救いますよ、と付け足す。そんな理屈になっています。あるいは、解釈を広げるなら仏の目から見れば、すべてが悪人です。しかし、自分自身は善人だと思っている人間の傲慢さはどうなのか、というわけです。すなわち自分自身のなかにある悪への自覚に関する問題ですね。
宗教的逆説性
たとえば、イエスが「貧しい者、飢えている者、泣いている者、あなたこそが幸せだ。なぜなら、神の国はあなたのものなのだから」というのも、まさに宗教的逆説性であると言えるでしょう。さらに浄土仏教が弱者のための仏道、愚者のための仏道であることが浮かび上がります。
「信じる」は生きる術
弱者や愚者にとって「信じる」という姿勢こそ、生きる術です。「信じる」とは人間のあらゆる営みのなかで最も強いエネルギーをもちます。根本的な力です。苦難の人生を生き抜くための手立ては、信じることです。そして「信」を一点にフォーカスすれば、最も強い状態になります。
『歎異抄』さえあれば生きていける
京都学派の哲学者である西田幾多郎は、第二次世界大戦の末期に「自分は『臨済録』と『歎異抄』さえあれば生きていける」と周囲に語ったそうです。ほかにも、司馬遼太郎や吉本隆明、遠藤周作、梅原猛など、『歎異抄』に惚れこんだ人は数知れません。
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