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イギリス貴族とSNSとの共通点

ドリアン・グレイの肖像 を読みました。新訳
舞台は19世紀末のイギリス。
由緒正しき貴族のドリアン・グレイが、
ふとしたきっかけで出会ったヘンリー卿にそそのかされ、
若さと美しさに執着し、破滅していく様子が描かれていました。
描写が見事で、一本良い映画を見終わったような、臨場感がありました。ふー

この小説について考えている時に、暗がりから突然出てきた双子②に声をかけられ、思わず「うわ」と声を出してしまい。
それくらい、不気味で怖かった。描写が。ちびりそう。

メインの3名の男性が個性強めで、「人生とは…」みたいなのが日常会話でどんどん展開するため、
カロリー高めな問答が続きます。

岡田斗司夫さんの評価経済、という本だったと思うのですが、
「外面的なこと=テクノロジーや労働、経済が発達する時代と、内面的なこと=個人の生き方や、自我、人としての繋がり等、が発達する時代とが交互に来る」とありました。
大好きなコテンラジオでも似たようなこと話していた回があったかなーと思うのですが、う~ん思い出せない、、

なんにせよ、この時代は、産業革命(ごりごりの外面的な世界)を経て、
人々の興味が外面的なことより内面的な事にシフトしてきた頃なのかなあと想像しました。

この小説に出てくる貴族は、とにかく時間を持て余していて身の回りのことは全て執事におまかせ、
哲学や教養を磨き、社交や芸術に興じる生活をしています。
(大袈裟なのか?実際、そうなのか?はすこーし疑問だけれど。)

一方で毎日「つまらない。あ~つまらない、つまらない。」とヘンリー卿は、贅沢に飽き、退屈にうんざりしている。
具体的な生活(例えば衣食住に困らない)は満たされているためもっとその上の欲求を満たしたいと考えている。

これが例えば貧乏で、毎日の生活が保証されていなければ、まずその心配が先なので、生理的欲求が満たされなければ、
そもそも「毎日つまらない。もっと楽しいことはないか」と思うことすらできない。

でも、社交界での評価も気になるので、本当に堕落したような真似はできないヘンリー卿。
マズローの欲求五段階説で言えば、下の二つが満たされて、社会的欲求より上、を満たしたいと考えているあたりだろうか。

こういうところから、
この小説に出てくる貴族の社交界は、なんだか現代の SNSのようだなあ、と思いました。

岡田さんの言う評価経済=他者から良く評価されたい、他者からの評価が重要、なのがSNSで、
TwitterやFacebook、Instagramで、誰がどんな話題をしていても、その欲求が透けて見えてくる。
※「SNSは承認欲求ではなく生存本能だ」と主張する本もあって、それはそれで、く~なるほど~と、説得力を持つのですが今は置いておいて。(たしか、スマホ脳、という本。)

令和の日本に限っていうと、毎日飢えや戦争に苦しんでいる人はほとんどいないので、生理的欲求や生存本能は満たされている人の方が多い。
それより、満たしたいのは社会的欲求。

仕事もあるし、確かに忙しいのだけれど、コテンラジオを聞いていると、現代の日本人の暮らしは、古代ならば大量の奴隷を抱えていないと出来ないような、豊かな暮らしぶりだと思う。古代ならば一部の上流階級しか出来ていない暮らし。
ルンバ、食洗機、ホットクック等の家電の充実で家事はグッと楽になったし。

ヨーロッパ貴族が、流行を取り入れ麗しく着飾り、
パーティーを開いて招待しあい、お互い誉めあい、教養の表明のために議論を交わすのと、
インスタで自分の顔をアプリで盛って新しい髪型を報告したり、Twitterで、いま、関心の高いニュースについて自分の意見を発信し、フォローし合うことの動機は、
そう変わらないのかもしれない。

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