祖母の葬儀
八ヶ岳の別荘から帰宅後に、甲府から訃報が届いた。義祖母が亡くなった。
99歳、老衰だった。
恐らく、八ヶ岳からの帰り道で中央高速道を走っているあたりで亡くなったのではないだろうか。コロナ禍で施設を訪問することができず、最後に会ったのは2019年だっただろうか。認知症で会話は成立しなかったものの、ひ孫の顔を見ると明らかに元気になっていた。
今の状況は移動が制限されているけれど、生まれ育った土地にずっと住んでいるという方が珍しいかもしれない。義母や叔父は生活の拠点が東京だし、義祖母の住んでいた家は空家になっている。慌ただしく、通夜、葬儀、火葬、納骨と計画された。
身体性
死化粧された義祖母の顔は、とても穏やかだった。目を閉じ、口は開かないようになっていたからかもしれないが、寝ているようでいて、でも、亡くなっているということが分かる。それは知識として持っているためなのか。生死を何か感じ取れる特別なセンサーのようなものが人間に備わっているのか。
ここで横になっている義祖母の遺体には、既に義祖母の精神は無い。身体と精神の分かちがたさが死によって分断される。生前も死後も義祖母と呼ぶことに変わりはない。ただ、認知症になって10数年、その間の義祖母は、なんと受け止めればいいだろうか。
冷たくなった義祖母の身体は腐敗をしないように冷却されているため、そうした冷たさを手の感覚を通して感じる。
線香の匂い、義祖母の遺体と思い出の中にある認知症の前と後の義祖母、分かちがたいアイデンティティ、それを確認するかのような時間だった。
物質と非物質
納棺の時間になった。甲府の風習で腰に荒縄を立て結びにする。そうして湯かんを行い、死装束を行い、旅支度を整える。浄土真宗では旅支度をしないというが、既に20年近く前の義祖父の葬儀の時のことは覚えていない。
湯かんは水にお湯を混ぜて作る。そうしてご遺体の身体を洗うのだけど、現代は施設等で既に綺麗にされている。形式だけの湯かんとして、半紙を持ってご遺体の身体を拭う。
この荒縄は、彼岸と此岸を結び付けるものだろうと、勝手ながらに解釈した。生者が彼岸に捕らわれないように、我に返るための綱だろう。用意されていたのは、ビニールテープを荒縄風の着色としたものだった。これなら服に縄の切れ端などが残ることも無いし、床に落ちることも無い。
天冠から支度を始める。最近では天冠は額につけず、顔の横に置くという。最後の別れの際に、顔がよく見えるためだという。手甲、帷子、草鞋、杖をその場の親族全員でご遺体の身に着けさせる。義母が用意した着物をかけて、棺に納める。六文銭も守り刀も火葬可能な素材だという。こうした生者の思いを炎と共に届ける。
高度に精神性を保った儀式であるが、その精神の依り代が用意されており、その依り代によって、参列者は正気を保つのではないかと感じた。一方で、既にここに居ない義祖母の身支度について不思議な気分になった。
儀式、儀礼と伝承
伝承。人は物事に意味を求めようとするが、そうしたことへの無意味さを教えているのかもしれない。あるいは意味が捉えきれなくなったら、突破者が現れてブレイクスルーをしなければならないのかもしれない。世界に組み込まれている理不尽さ、コミュニケーションが、そうした理不尽への抵抗とするならば、伝承への抵抗は、社会全体のイノベーションとして組み込まれているのだろう。
葬儀社の案内により、納棺を行った。この習わしの正しさを検証できる者は誰一人居ない。まして北海道出身者はうちのところと違う。などとこぼしていた。
葬儀が始まり、名刹の住職が取り仕切る。読経と詩吟のような言葉があり、焼香が始まり、見たことの無い身内が集まる。引き続き初七日の法要が始まったと思う。
葬儀が終わり、出棺になる。お花は叔父の計らいで多くの花輪が掲げられていた。出棺の前の最後の別れは、この花で棺を埋め尽くすこと。顔の周りに色とりどりの花が飾られ、まるで花畑の中で眠っているよう。
死美
参列者は親しいものだけ、一世紀近い彼女の人生と、弔う人の手、日舞の着物と扇子を入れて、花で埋め尽くす。
釘を打ち、シンプルな霊柩車と共に、火葬場に入った。暑い日差し、湿度はそこまで高くなかったのは、火葬場は山の方にあるためかもしれない。
精神と身体とが混濁した日本の思想、外国にも同様な弔いの姿はあるが、日本人のご遺体に対する執着心、死者が生きているということ、死の儀式を体感し、そうした思いを反芻する。人前式の葬式に参列した際に、母が「誰が引導を渡すんだ」と言っていたことを思い出す。
そして、土地の風習と人の風習、積み重ねることで伝説化していくことは、何がフィクションなのか、最早誰も分からないという現象を生み出す。
ピエール・ユイグがニューヨーク郊外の新興住宅街で提示した祝祭のイベント、何も伝承が無い地域に新たな風習を定着させる試みだった。暗黙的に積み重なり、追認されて強化される伝統、誰も何かを決められるものではない。そうしたことを提示しているようである。
死を体験することはできない。だからこそ概念的な儀式の重要性が増すのだろう。ライアン・ガンダーは、太宰府天満宮で神社、神道に触れ、非常にコンセプチュアルアートに似ていると言っていた。
死を思うということ、様々な背景からの思想がある。
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句。芸術作品のモチーフとして広く使われる。
ブライアン・イーノのテキストを再度引用しておこう。
そもそも芸術や文化というのは、個人が「かなり極端でどちらかというと危険な感情を体験するための安全な場所」を提供するものであり、芸術や文化がこれまで受け入れられてきたのはそうした精神状態をすぐにオフにできるからで、さまざまなアートはこういう形で人々にとっての刺激になってきたのだとブライアンは説明する。
祖母の新盆だと思ったが、49日前だから来年になるのだね。