寺田鮎美『空想美術館——複製メディアにおける芸術作品の受容』 読書メモ
ゼミのチャットで会話した中で、マルローの「空想美術館」の話がでてきた。本来は原著にあたるべきだろうけど、論文を見つけたのでそれを読んでみる。翻訳本もあるようだけど、アンティークの域であり、こちらもハードルが高かった。論文から概要を勉強させていただく。インターネット時代の便利さを最大限に享受しようという具合。
論文はこちらの書籍に掲載されているみたいだが、全文をインターネットに公開してくれている。感謝。
マルローの美術館に対する問題提起から始まる。
磔刑の十字架や、神殿の前にあった彫刻、それらはそこにあるモノとして意味付けされていた。宗教的な意味合い、権威化としての意味合い。そうしたモノを美術館に収蔵し、鑑賞する楽しみを見出したことで、美術館は芸術作品から本来の意味合いを抜いてしまった。
美術館に集められた芸術作品は比較される。相対化された芸術品の表現について見るようになり、目の快楽あるいは比較論的な知的快楽へと変化した。美術館以前の芸術作品との対峙を知らない人々にとっては、そこに刻み込まれた意味合いというものを探る術はないのだろうか。
フレスコ画や建築の一部となっているような彫刻の全てを美術館に収蔵できるわけではない。モノにとらわれる以上、全てを収蔵することはできず、また美術館は世界に無数に存在するために全ての比較をすることは適わない。美術旅行によって実物を見たとして、見た記憶と美術館に収蔵されている芸術作品との比較には誤りが入り込む。
そこに複製技術が顔を表す。
複製(≒写真)の出現は芸術作品を比較、鑑賞する習慣をつけた。モノからの制約を部分的にではあるが解放した。
美術館に実在する芸術作品、鑑賞という意味付けを付けられた。対比という観点からは美術館は不完全であり、複製を用いることで対比することができるようになったとする。どうしようもない空間的な制約、モノからの脱却を複製によって解決しようとしたのだろう。
プリントや、写真集としての物理的な制約は依然として存在するが、様々な作品を並置して鑑賞することができる。ただし、そこには写真として切り取られた構図、照明、あるいは拡大、縮小などといった操作も入る。
傑作がための存在感と不在感、記憶の中にある傑作を美術館が呼び起こす。これが空想美術館という。
同時に空間を占有することはできない。空想の中ではそうした空間から自由になれる。ミンコフスキー空間に思い至る。そういえばM1の頃は、こんなことばかり考えていたような気がする。
写真の複製によって世界が広がった。傑作、そうではない作品、B級作品、無名の作品、それらも写真によって複製され世界が広がった。インターネットによる拡張は指摘するまでもないこと。ここで、ハンドバッグの中のキッチュのことを思い出す。
美術館以前の傑作の概念はロマン主義的、親方の仕事を如何に再現するかが評価だった。手本があった。
アンソロジーの発見。今日的な課題にも接続しはじめた。
芸術作品としての唯一性(希少性)に関する問題にも触れていく。ただし、モノそのものの存在感による価値生成は単純ではなくなった。オリジナルと複製、数ある複製の中にも価値がついたものとそうでないもの、そうした世界が出現した。
こうした複製品の価値付けは、空想美術館の存在を危ぶませる。複製の価値は並列であり、複製のそれぞれの価値が異なるとした場合、どのように分明させることができるのか。
デジタル技術は空想美術館の編集を強化するものであるという。作品そのものからの意味合い、モノからの脱却、その根になるような考え方、70年代周辺のコンセプチュアルアートの活動、脱美術館、脱物質化。デジタルアートはどこに向かうのだろうか。