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週刊東洋経済のアート特集

少し前に発売された週刊東洋経済のアートマーケット特集にようやく向き合った。読書メモというよりも、何が書いてあって、それに対して、どのように考えたのかテキストを残しておきたい。(Amazonの表紙画像と実際の雑誌の表紙が違う。手元の雑誌の表紙の一部はヘッダー画像にしている。)


アートマーケットが熱い。それを過熱気味としてバブルではないかと指摘する旨の記事もあった。バブルというのは映画『アートのお値段』でも指摘されていた。バブルという指摘も状況を表しているかもしれないが、錬金術と読んだ方が腹落ち感があるような気がする。

そういえば、最近エイミー・カペラッツォがサザビーズを去るというニュースを見かけた。

起業するということだけが発表されていた。次は何をやるのだろうか。


経済誌のアート特集は、定期的に実施されている。商業的な観点(つまり企業人)から見れば「アートはよく分からない」で議論が終わることが多いし、自分が理解できないことを「あれはアートだから」と説明や思考を放棄することもシバシバあると思う。

アート・ビジネスの現在地点

まずアート・マーケットの大きさについて数字を使って説明する。グラフなどを使い、どれくらいの市場規模なのか、その概観を捉えさせる。

アートとオカネについては、いろいろと議論が起こっていることを知っている。オカネは生きていくために必要、でもオカネのために生きていくのではない。オカネとは何かという事に向き合う必要があるのでしょう。

Twitterで批判されていた”前澤チルドレン”という言い方。分かりやすさとしての単語だと思うが、こうしたラベリング(このセグメントならレッテル貼りだろうか)を行うことも、最早古臭く感じてしまう。IT起業家などの新興億万長者が、オカネの使い道としてアートを買うということ。そうしたことを前澤友作氏のバスキア購入を見て知り、新規にコレクターになる人が増えたと綴っている。

ストライプインターナショナルの石川康晴氏や、ファーストリテイリングの柳井正氏もアートコレクションをしていることを引き合いに出していて、この三名はアパレル関係だけども、IT系はアートと相性がいいという指摘もあった。(IT系という言い方も広すぎて、古臭くて、ぼやかしているように思う。)

ネット転職サイト運営企業幹部の竹内真氏の発言が引用されていた。

IT企業経営者とアートは相性がいいと指摘する。「IT系の仕事が長いと、合理性を突き詰めるあまり、手触りや味わいへの感受性が薄れがち。アートに触れると、欠けた部分が補われるように感じる」(竹内氏)

今やデジタルワールドも現代アートのステージ、こうした感覚も古いように思う。でも、この指摘には、ものすごく共感することができる。

SBIオークションで、とある作品の落札価格が100倍まで上がった事実を引き合いに出す。煽情的とも取れる書き方ではあるが、事実であることも注意しないといけない。好きなアートの購入を7割、投資目的の購入が3割というコレクターの発言もあった。投機的な買い方をするコレクターもある。そうした発言が従来のアート界隈の人達の反発を買うことは容易に想像できる。

昨今のアート・マーケットは、巨匠の作品や古美術なども値を上げているが、現代アートがともかく熱い。そしてストリートアートが注目されているという。コレクターが現代アートを買い支えるが、そうしたコレクターが居なくなったときに現代アートの価格が崩れるのではないかという指摘もある。これはナンセンスな感じがしないでもない。顧客が居なくなった市場は無くなっていくのは自明であるのに、なぜ現代アートの市場を特別扱いするのだろうか。このあたりをバブルと結び付けている意図が見え隠れする。記事は、日本の新興アートコレクターの増加、日本人アーティストの台頭などから、日本のアート・マーケットの世界へのプレゼンスの向上を期待したいというような論調で結ぶ。

限られた紙面ではあるけれど、アートを買う人、アートを売る人、その理由とマーケットで何が起こっているのかを簡潔に伝えている。ただし、限られている分、かなり乱暴な感じは否めない。なにしろ、アートを作る人には触れていない。

クリスティーズ、サザビーズの日本法人社長によるコラムもあり興味深い。

クリスティーズ社長の山口氏によれば、日本で高価格で取引されているアーティストの作品でも、海外ではほぼ評価されていない状況があるとし、美術館での展示、学術批評の複合的な実績が積み上がることを期待するという。

大切なのは、深い作品コンセプトと性別や国籍を超えて愛される大衆性。「アニメ風の絵をただ描く日本人」というだけでは戦えないだろう。

そんなことを想定しているわけではないという声も聞こえてきそう。けれども、こうした声はきちんと受け止め、反省し、反応あるいは反論を示す必要がありそう。それはアーティストというよりもアート・ビジネスに関わる人がやらなくてはいけないだろうか。感情的ではない反応、そうしたことがアートの仕組みとして組み込まれていると思う。

サザビーズジャパン社長の石坂氏によると、コロナ禍で保有するアート作品を手放さなくてはならなくなる企業やコレクターがあり、今まで市場に出てこなかった作品が取引されるようになったとし、プライベートセールが好調だったとしている。そしてサザビーズは、先行してネット取引を準備してきたこともあり、2020年は10年ぶりにクリスティーズを抜いて首位に立った。石坂氏によれば、オンラインで売れていたのは2000万円くらいまでの作品だったが、今では2億円程度まで売れているという。

昨年はアート・バーゼルがオンラインセールを試行していた。

オンラインセールのプレゼンスは益々上がっていくだろうけども、前述のIT企業経営幹部の発言にあるような展示の現場で、リアルな鑑賞体験により醸成される現代アートの魅力というものもある。

ただ、オンラインにもアートは拡張してきている。それは購買体験だけではない。

例えばVRや、NFTアートは、既に現代アートの表現の場を拡張している。


作品の値段の決まり方

特集の次の節は、”作品の値段はこう決まる”として、多摩美の小川敦生氏が解説する。

美術品の価格は、原則として同じものが存在しない希少性にあり、優れた美術品を所有したいという欲求にかられることから、誰もが欲しいと感じることがポイントである。そうして美術品の希少価値が資産性を形成していく。価格は需要と供給によって決まる。一点しか無い作品の希少性は言うまでもない。(こうしたことに疑問を投げかけている現代アートの世界の話もあるけど、それは別のnoteか、何かで示したい。)

レオナルド・ダ・ヴィンチの《サルバトール・ムンディ》の例を持ち出す。この作品は、約510億円で落札された記録を持つが、2005年には小さなオークションで約12万円で落札された。それはダ・ヴィンチの弟子が描いたものと認知されていたためという。後からダ・ヴィンチに依るものと明らかになるや、価格高騰した。

12万円の落札実績も、510億円の落札実績も、対象は同じ美術品なのに、この価格差は何かという問いかけに繋がる。

若手アーティストの作品はギャラリーで、それほど高くない価格で取引される。作品の芸術性が高いとしても無名のアーティストの作品に高値が付かない。そうした若手の作品にしても優れた芸術性がある場合、後から価格が上がっていく。ギャラリーは新人アーティストの個展で作品が売れ残っても悲観しないという。ギャラリーが作品を買い取り、保管し、やがて価格が上がっていく。その分、目利きが重要なのでしょう。

バンクシーの有名なシュレッダーの作品を引き合いにだし、切り刻まれたことで作品の価値が上がった。バンクシーの活動そのものが、アート・マーケットに対する批判と解釈されているが、そのシュレッダーはそうしたコンセプトを強化するのに充分であった。そうしたことを”美術品の価格には作品に込められたコンセプトに負う部分が少なからずあることがわかるのではないか”と指摘している。

作品を見て、友達になった若手アーティスト。作品コンセプトの話をして、それが原因かは定かではないがSNSブロックされた経験もある。それ以来、どんな風に会話するべきか、いろいろと試行錯誤を続けている。このnoteも試行錯誤のひとつ。

現代アートは米国で活発に取引がされ、アーティストを輩出し、それを買い支えるコレクターも出てきた。そうして戦後の現代アートの市場を作ってきた。今は中国が現代アート市場をリードしている。先ほどのダ・ヴィンチの作品も現代アートのオークションに出された。それは現代アートのオークションに富裕層が集まっているからという。

美術品の評価では歴史の積み重ねがものをいうため、現代アートの市場が肥大化すること自体には、不自然な印象が否めない。しかし、米国や中国の経済力はそうした一般論を凌駕する形で市場を牽引しているのである。

僕の研究は、当初は、なぜ現代アートの作品に高い価格がつくのかだった。ここまでの本紙の特集は、既に修士1年の進級レポートにまとめていた内容だった。

アート・ビジネスモデル

特集は美術商のビジネスモデルの話になる。現代アートギャラリー、日本画・洋画のギャラリー、古美術店のビジネスモデルを紹介する。ここで初出ではないけれど、既に価値の定まった作品や作家、そうしたものを取り扱うということも一つのビジネスモデルとして指摘している。それは資産性を発揮するし、前述の時間が価値を生成するということも一役買っているだろう。ただし、贋作の問題もあり、スタートバーンのブロックチェーン証明書の話にまで触れる。


タグボートのアート投資の話題に移るが、投資目的ならアートではなく、別の資産を選択するのがいいと思う。

次の紙面は予算30万円で買える注目作家、各ギャラリーが数名の作家を推薦している。小山登美夫ギャラリーは伊藤彩の作品を掲載し、SCAI THE BATHHOUSEの推薦ではアピチャッポンに目が留まる。え、この価格でいいの?なんて思ってしまったり。

修士一年生の時に、何か作品を買おうと考えていた。買う事ばかりに気が取られていたけれど、修士修了した今では、何を買うべきか、というよりも何を買わないべきかということが分かってきたような気がする。

マネックスグループCEOの松本大氏の言葉。ビジネスにおけるアート思考の流行に対する警告として受け止めた。

アートを社内に飾ったからといって社員の特別な能力が伸ばせるわけではない。アートは音楽や文学と同様、一般教養の1つにすぎないからだ。ただ1つ利点を挙げるとすれば、社員が多様性を解するようになるかもしれない。

僕が大学院で現代アートを学ぶという目的のひとつにオープン・マインドの獲得があった。それはどうやら達成できたように思うけど、どうだろうか。

アートと税金についての話題に移る。注目したいのは河野大臣のコラム、日本に香港のような保税地域を作るというもの。

これにはニューヨークのメガギャラリーも興味を示している。

アーティストのキャリア

ボリュームのあるアート特集、続いてはアーティストのキャリア形成についての話題に移る。衰退する画壇の権威としての解説、再び小川敦生氏のテキスト。

日展、院展などの仕組みを学ぶことができた。

これは芸術領域に限った話ではなくて、今の大手日本企業にも当てはまる感じがする。社会は複雑で多様になったこと、新しい技術が出現したこと(しかも変化が早い)、時代背景が変わったこと、そうしたことに対応できる適合能力がなく、終わりへの道を歩んでいるかのような。

アーティストのキャリア形成としてギャラリーを挙げている。

芸術と金を結び付ける点で抵抗を感じる向きもあろう。
しかし作家にとっては、コレクターなどに作品を買ってもらうのは、生きていくうえで必要なことである。

ギャラリーにはコレクターだけではなくて美術館の若手学芸員も来ている。どんな作家がどのような作品を提示しているのか、そうしたことを見に来ている。美術館にどのような作品を収蔵するのか、そうしたことのリサーチという。

最後に有望な作家を発見する場としてアート・アワード・トーキョーを引き合いに出していた。

既にギャラリーの役割は終わった。あるいは、この記事で説明されているようなギャラリーの役割は変容せざるを得ないのではないかという問いかけがある。アーティストが直接コレクターと繋がり、売っていくことができる素地が整ってきたことが背景にある。これに対して、商取引の諸々とした細かな事務や、税務・法務、売買にあたっての折衝の負荷をアーティストに負わせるのはどうだろうかと考えていた。では、そうした煩わしさを肩代わりするプラットフォームがあればいいのだろうか、ギャラリストが実施しているコレクターとの結び付け、メディア露出、そうしたものがプラットフォームでサポートできれば、そうしたギャラリーは変容していかなくてはならない。どのみち手数料の話はついて回ると思うけども。

修士課程在学中には研究しきれないと考えていたが、修了したので、こうしたことも研究してみよう。

会田誠のインタビュー

アート批評をするインテリと市場原理の欲によって動くギャラリスト/コレクター、混ざり合わない真逆の両者が、活きのいい新人を探す様子を車の両輪に例えている。

インタビュー、面白いな。

エンターテインメントではない芸術では、単純な1つの言葉に集約されない、重層的な意味を受け取ることが大切になる。

ビジネスパーソンがアートをわかるようになることについて肯定的に捉えている。

未来を想像してイノベーションを起こす、といったことに関して。

この発言、アーティストの目は、現代性の歪さにフォーカスする。あるいはそれをズームするように思う。そうした思考は、小さな兆しを可視化し、考えるきっかけを与えてくれる。そのことをもって未来を想像することと捉えた。

日本のたこつぼ的なアートだけを見ていては駄目だろう

2020年の不満はこれだった。まぁ、仕方が無いことだけど展覧会の閉そく感というか同質化を感じていた。そして、修士1年目も、日本のアートマーケットの閉鎖的な部分からの閉塞感を感じていた。

美術館の難題

パート2は、コロナ禍の美術館の難題として日本大学の古賀太氏のコラムが続く。『美術館の不都合な真実』の著者である。

大規模に観客を動員するブロックバスター展を批判する。それはマスコミに企画、広報を任せて、集客までを行う。美術館は場所貸しとしてしか機能しなくなり、これでは美術館の本来の役割である収蔵品の充実化が行われなくなるとして継承する。

同じ問題は百貨店も抱えている。百貨店の消化仕入という仕組み、消費者に売れた瞬間にメーカーから百貨店が仕入れて、消費者に売ったことにする商流のことであり、百貨店としては売れるまで在庫を抱えるリスクを避けることができる。販売員もメーカーから派遣されてきている。(業界では、こうした販売員のことをマネキンと呼んだりする。)

これによって何が起こるか?

百貨店が商品を仕入れることにリスクを負わないのであり、店の一番の個性でありプレゼンテーションである商品構成(MD)を他人に握らせるのである。それこそ小売としてのアイデンティティの喪失ともとれる。

ただ、この消化仕入も悪いことばかりではなく、メーカーとしては、百貨店の予算に制限されずに在庫を入れることができたし、百貨店に集まる客の好みを知ることもできた。百貨店としては多様な商品展開を客に見せることができた。ただし、時代は変わった。

ここの出口を探しているが、中々厳しい状況が続いている。

この美術館のブロックバスター展の批判を見て、そのことを連想した。自身のアイデンティティすなわち自館のコレクションによる表現、ファン化の努力とコミュニケーション、そうしたことが美術館に必要だと訴えている。

知っていたけれど美術館の作品購入予算が無い割合が44.8%。美術館の厳しい懐事情について対案を示してコラムは終わる。美術館が多すぎる事、国公立の美術館は、館単体で集客できないのであれば統廃合するべし、そして収蔵品で個性を発揮し、常設展で見せる努力とあった。

横浜美術館、愛知県美術館、富山県美術館が共同して企画したトライアローグ展は、こうしたコレクションの取り組みに呼応したものだろうか。恐らくそうではなく、共通した問題意識を持っていたものと思う。

noteには鑑賞メモを残していないけど、リヒターの大型作品は迫力があったし、それぞれに見たことがあったアンディ・ウォーホルの作品を一度に見られたのはとても良かった。ピカソ、パウル・クレーなど、収蔵品を用いて様々な企画ができる。そうした共有と伝承、美術館が本来持っている機能、そうした原初に戻って考える。コロナ禍がそうした振り返りのきっかけを作ったことは間違い無いでしょう。


続いて森美術館の片岡真美氏のコメントが入り、NHKの日曜美術館の説明、私立の美術館についてアーティゾン美術館、SOMPO美術館、大原美術館について状況を説明する。入場者は半分になったということだ。ただ、前二つの美術館は盤石な財務基盤を持っていると思う。そしてスルガ銀行のビュフェの作品に関するコラム。

美大生のキャリア

美大生のキャリアとして国分瑠衣子氏のテキストが続く。デザイン思考とアート思考の注目の高まりから、藝大、武蔵美、多摩美の最近の流れを解説する。藝大で新設された学部は「造形思考力」を養い社会課題を解決する人材育成を目指す学部を設立したとある。

本業は外資系ソフトウェア企業の中でもトップクラスにあるためか、優秀な学生が集まってくる。そんな優秀な学生インターンのメンターもやっているが、一般の大学生と芸大生との違いは少なからずある。本誌のテキストには、こだわりが強いとあるが、端的に言えば、そうなのかもしれない。

その一言だけでは表せないのだけどもね。

一般に言う勉強ができるということは何か、頭の良さとは何かという点について分からなくなった時期があった。修士2年の夏ごろだったと思う。そうした迷路のような中を修士論文を書き上げるという活動によって整理することができたのは大きかった。

就活にあたっては、ポートフォリオを作っておけば万全と考えている人が多いと指摘されている。そうではなく、面接、自己分析も同じくらい大事と指摘していた。

見るべき西洋美術、日本美術、現代美術

ざっくりとルネサンス以降の美術の流れに触れている。印象派の時代に西洋画が積極的に日本に入ってきた。見て感じるという西洋画(印象派)の解釈方法を受けて、次のように警鐘をしている。

画家はその意味をどう視覚化するかに苦心し、鑑賞者はその意味とともに画面を味わっていたのです。そんな意味などどうでもいい、感じればいい、というのは、画家に対するリスペクトが少し足りない気がします。

大学院で現代アートを学ぶ前は、この指摘の意味が分からなかったと思う。

現代アートの展示と言いながらも、視覚的な訴求と満足に終わっている作家や作品や展覧会は多いと思う。余白、あるいは察するということなのかもしれないが、それでは、やはり世界では戦えないだろう。(戦うつもりも無いのに、世界から注目されている作家もあるのだけど、そうしたことがあるから、アート・ワールドは面白いのかもしれない。)

美術の物語も再読してみるか。


縄文を盛る美、弥生を削る美として対比している。ブルーノ・タウトによって弥生的な桂離宮が褒めたたえられ、東照宮は俗悪と貶められた。外国人による評価によって、日本人も一斉に弥生的なものに注力した。岡本太郎が縄文の美の再発見をしたことで再評価、若冲が圧倒的な人気を得ているのもこうした活動があったから。

縄文的なものと弥生的なもの。両極への振れ幅が大きいところに日本美術の豊かさがあるのだと思います。

現代アートについては価値の転換から始まる。ケリング(グッチの親会社)のフランソワ・ピノー、LVMHのベルナール・アルノーが現代アートの2大コレクターと紹介し、価格上昇について結び付けている。バスキアの120億円は、コレクターの活動がバスキアの価値の上昇の役割としている。

現代美術は感動と問題意識の増幅装置なのです。

まとめ

アートとオカネという特集であり、東洋経済の普段の読者に向けた企画として、簡潔に、よくまとまっている記事だと思う。本質的な部分の説明に入ると、雑誌ではとうてい紙面が足りなくなるし、教養として知れば十分と考えている読者にはちょうどいい。

Twitterの反応をいくつか拾っただけだけど、アート界隈からは、あまり肯定的な意見は見られなかったように思う。作品=金という図式への抵抗感がとても高いものでしょう。価値の創出、価値の生成という点で興味深いが、このあたりの議論をすると、また、友達ブロックされそうな気もする。

ちなみに第二特集はカメラだった。現代アートとしての写真の議論かと勘違いしてしまった。



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Tsutomu Saito
いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。